第99話:嫁さんと叙情の話
結局残業申請をまた19時で出して、遅くなりそうだから、とラーメンの誘いは断った。本当は少し行ってみたい気もしたけど、これでいいんだと言い聞かせた。それによく考えたらラーメンは昨日食べたばかりだ。まあ、別に何度食べてもいいんだけど。
あってないような、なくても山ほどあるような仕事をかき分けて、やらなきゃいけないことを抽出し、それをちょっとずつ終わらせていった。こんなこと機械がやってくれればいいのに。でもそしたら給料が出ないのか。
本当は18:48くらいに終わっていたが、律儀に19時まで待って帰った。
トマト缶しかなくて、チーズはないからただのトマトリゾット、というかトマトスープにご飯をぶっこんだものを食べた。何だか人恋しい。こんなことなら菅野とラーメンを食べに行けばよかったか。何となく携帯を取り出すけど、菅野にメールするようなあてもないし。しかしだからといって黒井に電話、出来るわけもないし。ふと部屋に置かれた重厚な箱を見て、藤井にメールしてみることにした。
<藤井さん
どうも、山根です。よかったらまた、適当にCDでももらえると嬉しいです。もうツタヤに行っても何を借りていいのか分からないし、でもせっかくのコンポがもったいないので・・・。あ、あとこないだのCDプレイヤーも助かりました。今度返します。図々しいようだけど、イヤホンだけもらってしまってもいいですか>
十五分くらいで返信。
<音楽を聴くのに「適当」というものはありません。誠に残念ですが、ご期待には添いかねます>
続けて二通目。
<貸したものはお気になさらず。あと、先ほどはつい、失礼しました。またキーワードなど教えて下されば、頑張ってみます。
うちの近くにはTSUTAYAがなくて、新宿のは会社から遠いし狭くて混んでいて、大変です。ダウンロードは簡単ですが、やはり棚でずらずらと見たいのは感性がアナログなんでしょうね。では>
返信する。リゾットはすっかり冷めていた。
<こちらこそ、申し訳ない。適当に、はなかったね。反省してます。
キーワードはちょっと難しいけど・・・勉強用BGM、かなあ。明るすぎず、感情的すぎず・・・。出来ればあまり歌が入っていない系?このくらいが精一杯です。すいません。
棚が見たいのは僕も同じです。やっぱり本屋で見ないと、amazonなんかでは、ね。きみの方が若いのにね。え、平成生まれ?>
温めなおしてアツアツになったリゾットで舌を火傷しながら、こんな風に、小さな機械で文章を打ち込んだらやがて誰かから返事が来るなんて、昔はなかったんだよなと考えた。携帯なんかなくて、家の電話で「○○くん居ますか」と家の人に取り次いでもらうようなやりとり。そんなことすらも最低限しかしなかったけどね。
<平成生まれですよ。でも昭和のアニメや漫画の方が、勢いがあって好きだったりします。特に好きなのはAKIRAかな。こういうの、分かります?漫画の話とか>
家の中で携帯を持ち歩いて、キッチンに置いて今食べた皿とスプーンと鍋を洗い、風呂場に持っていって風呂を洗った。文章を書いては消して、何となく会話しているような気分になる。一人なのに、どこかと繋がっている。以前はテレビでこういう感情を紛らわしていたけど、最近はテレビにすらついていけなくて、DVD鑑賞用の画面となり果てていた。ああ、受信料払うのやめようかな。テレビは捨てて、パソコンで観ればいいんだし。
<名前だけは聞いたことあります。推理小説ばかり読んでるので、漫画はあまり詳しくないです。今度漫画喫茶に行ったら読んでみようかな>
<推理ものですか。何だかこれも山根さんのイメージと微妙にずれて、内容次第ですが、いい感じではありますね。
あ、たくさんメールできて嬉しかったです。いろいろ何かの邪魔をしては悪いので、あと暴走してしまいそうなので、この辺で失礼します。おやすみなさいませ>
<こ、こちらこそ長々とごめんね。貴重な時間をどうもありがとう。おやすみなさい>
もう消してしまったけど、黒井からのメールは短文で、こんな風な会話にはならなかったなあと思い出す。とっさの衝動で消して以来、そういえばあいつからメールなんか来ていない。今更、出してみる気にも、ならなかった。相手の趣味をちょっとずつ聞いていくような初々しいやりとりなんか、もう、そういうのじゃないんだって・・・じゃあどういうのだって言われれば、特別どんな関係にもなってはいないわけだけど。
顔だけ湯で洗ってそのまま歯も磨き、本を持って布団に入った。意味は考えず、目で追うだけ。単語に、世界観に、慣れるだけ・・・。そうしているうちに眠くなり、ゲシュタルト崩壊も、<さみしくて眠れない夜>になりそうな気配も、どうにかやり過ごして眠りについた。
・・・・・・・・・・・・
夕飯を食べてから十二時間もしないうちにまた会社にいるんだなあと思いながら「おはようございまーす」と席に着いた。パソコンを立ち上げ、いったい昨日と今日とで何が違うんだろうと不思議になる。こんな仕事なんかより、もっと大事なことがあるんじゃないか?ブラックホールの謎も解けないまま、人間はこんなことしてる場合じゃないんじゃなかろうか。・・・まあしかし、たぶんそんな危惧をしてるのは僕くらいなものであり、隣の菅野にとっては明日がXデーであり、関心の的は人それぞれだ。そして、どんな関心であってもお金は要るから、そのために会社があるわけだ。
「山根さん」
「んん?」
「昨日、何食べました?お夕飯」
「えー、トマトリ・・・いや、スープご飯だな」
「山根さん自炊?」
「うん」
「えー、えらーい」
「偉いっていうか、別に、そんなお金もないしね」
「あたしも貧乏。すぐなくなっちゃう」
「すぐって、何に使うの?」
「え?お洋服とか、お化粧とか、お友達と映画とか・・・」
「一人暮らし?」
「はい。最初は姉と住んでたんですけど、今は一人」
そういえば北海道から出てきたんだから、一人で当然か。
「お姉さんは?」
「婚約して、今は彼の都合で、大阪」
「へえ」
「その彼がね、結構かっこいいんだ。今はヒロ君、て呼んでるけど、いつかお義兄さん、なんて呼んだりして・・・」
「ひ、ひろくん」
「うん。ヒロカズで、ヒロくん。・・・そういえば、山根さんの名前も、ひろふみ?」
「え・・・コウジ、だけど、何で知ってるの?」
「だって、リストに名前出てるから」
「あ、そうか」
「あれでこうじって読むんですね。ちょっとめずらしい」
「・・・おかしい?」
「いえ、そんなことないですよ。ほら、最近の子って、読めないような名前でしょ。キラキラネーム?そんなのに比べたら」
朝礼が始まって、会話は途切れた。ああ、会社のEメールってフルネームのローマ字だから、これも何とか変えられないかな。ひろ君なんて、黒井に呼ばれたい名前でもない。っていうか最近黒井に呼ばれてすらいない気がする。呼んでもいないか。あーあ、週末に押し掛けちゃおうかな。そしたら菅野が僕の考えを読んだみたいに、「土日、また雪ですって」とささやいた。
・・・・・・・・・・・・
外回り中にちょっと入ったコンビニで、自分でも確信犯なのかどうか判断を保留にしたまま、何食わぬ顔で、温かいお茶と、スティック状ののど飴と、チョコを買った。
・・・オランジェット。
オレンジピールがほろ苦い、大人のチョコ。
タバコくらいの大きさの箱で、中身はチョコボールみたいな感じ。粒の大きさはまちまちで、中に蜜漬けオレンジピールとやらが入っている。
・・・。
美味いじゃないか。
箱の説明書きにあるとおりにあけ口を開けて、カラカラと振り出して食べる。こういうの、書いてあるとおりに開けないと気が済まないんだ。
ふうん、こういうのが好きだったのか。なるほど、これは甘すぎないしクセになる。レーズンとかが入ってるのも好きだけど、オレンジの皮というのもありなんだな。・・・うん、高級そうに見せかけて、皮だなんて、捨てずに済んで資源の節約にもなるし。いや、むしろこんなに美味しいとなれば、捨てるというのがもったいなくなってしまうか。使えないとはっきりしてれば問答無用でゴミに出来るのに、ああ、もやもやする。でもこんなところで考えても地球環境について一ミリも役に立たないから、考えるのをやめよう。脳細胞の放電の無駄。
僕は食べかけのチョコをポケットにつっこんで、カラカラと小気味いい音をさせながら次の得意先へ向かった。
帰社して、パソコンを立ち上げ、菅野の鼻歌。もう、毎朝、毎夕、何なんだろう。「おはよう」で始まり、「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「お帰りなさい」で、まるで菅野が嫁さんみたいに思えてくる。
「今日も寒かったよ」
「そうでしょうねー」
「あ、のど飴とか、いる?」
「わあ、嬉しい。やっぱりちょっと乾燥してて」
「歌手が喉痛めてちゃだめだよ」
「・・・ほんと、そうですよね。山根さん、優しいんだ」
菅野は梅はちみつのど飴を舐め、僕はすっかり冷えきったオレンジキャップの綾鷹を飲んだ。
「・・・あのね、最近、書けないんですよ」
「なにが」
「詞が。全然、だめで」
「歌詞?作詞もするの?」
「そりゃ、全部自分で作るんですもん」
「・・・すごいね。でも、そんなの、出てくるんじゃないの?・・・今だったら」
「そうなんです。出てくるんです。でも、何かね、溢れすぎるっていうか、むしろわざとらしくなるっていうか、自分のホントの気持ちを飛び越えて、こう、作っちゃうっていうか・・・分かりません?」
「分かりません」
「えー。山根さん、もうちょっと情緒っていうか、じょう・・・じょじょう?」
「情状酌量」
「え?何か違う」
「ああ・・・叙情的?」
「そうそう、そういうのを、介する・・・かいする?あれ、愛する?」
「・・・解する」
「そう、そういう」
「菅野さんもうちょっと本を読んだ方がいいんじゃない?」
「そ、そうですね。何か読んでみようかな。高校の時、吉本ばななって人の本を読んだけど・・・うん、今ならその、じょじょう的な気持ちで読めるかも」
ふうん、僕も今なら、手をつけたこともない恋愛ものの小説なんかも、読めるんだろうか。
「ねえ、その、恋愛ものってさ。可愛い女の子がかっこいい男の子に恋をして、ってやつ?」
「・・・まあ、基本は、そう、ですね」
「それで、押し倒されてハッピーエンド?」
「・・・っ、や」
菅野は息を詰まらせて、僕の腕をまた叩いた。ばしばし。
「え、何?違うの?」
「やだ、山根さん、もう、やだ!」
「やだって何が。え?押し倒すの?」
「そうじゃない!・・・下ネタとか、会社ですよ?やめてください!」
「はあ?下ネタなんか言ってないよ。反応しすぎだよ」
「も、もうちょっとオブラートに包んで、言い方ってものがあるでしょ!?」
「・・・ああ、そうね。押し倒されるかどうか状況が不明確だし、正確に言えば男女が・・・結合する?」
無言。ばしばし。
「お気に召さないの?もっと細かく?」
「正確とか言ってない!バカ!もう知らない!」
菅野はしばらく「ばかばか」と繰り返していたが、定時の間際には「反省しましたか?」と許してくれ、「ではお先に」と閨(ねや)に・・・あ、違うか。嫁さんじゃない。
ああ、もしかしたら、菅野は明日とか明後日とかにそういうことがあるのかも、なんて緊張してたのかな。いいなあ、そういう緊張、したいなあ、僕も。「お疲れさま」なんて無粋な一言で菅野を見送って、今日も残業に励んだ。そして、誰もいない部屋に一人で帰るのだった。
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