第98話:戦友とは普通の意味で両想い
「・・・菅野さん」
「はい?」
「ほら、行くんでしょ」
「あ、は、はい」
リストのチェックを途中で止めて、菅野が立ち上がり、僕に続いた。
・・・何か、女の子を引き連れて歩くのって、悪い気分じゃないな。まあ、給茶機まではこないだ黒井が案内済みだけどさ。
しかし、フロアの向こう側へ行くわけで、それって三課を通り過ぎていくわけで、一瞬ちらっと黒井を見る。でも正視できなくて、菅野の方を振り返った。
「ね、あのさ」
「は、はい?」
菅野もそわそわして、意味もなく笑顔。ああ、似たもの同士だ。あはは。
「最近寒いけど、これくらいも平気なの?」
「あ、まあ、大丈夫ですよ。でも、むしろこのフロアが暑いんですよ」
「ああ、ちょっと効きすぎだね」
「そう、そう。しかも制服脱げないから、Tシャツになるわけにいかないし」
「え、Tシャツ?」
「あ、北海道では、家の中ガンガンに暖房入れて、Tシャツとかもありますよ」
「そんな、エコじゃないな」
「そうですよね。あたしもそう思う」
大した会話でもないのに、音量は上がるし声も高いし空気は妙にハイテンション。本人の知らないところで何かを画策する楽しさと、後ろめたさと。
いつもの給茶機に到着し、菅野に「待ってて」と言って、そっとその奥の扉を開けた。以前のように客が大勢来ていたらちょっと困る。しかしまだ時間が早いからか、応接スペースにもセミナールームにも人の気配はなかった。
「ん、おはヨウ!」
「うわっ、びっくりした。妹尾さんか・・・」
後ろから突然声をかけてきたのは、菅野とは違う制服の、ぴりっとした受付嬢だった。
「どした、朝から」
「あ、いや、もう人来てるのかなって」
「ん、使う?面談?」
「えっと、その、新しい子に案内を・・・」
僕は戻って扉を開け、菅野を手招きした。妹尾が興味津々にのぞき込む。
「あっ、新しい子ちゃん?」
「え、えっと」
菅野が緊張した面もちで瞬きした。
「二月から来たっていう、バイトさん?あー、会ってみたかったんだ、かわいー」
「あ、ありがとうございます、菅野です」
「受付の妹尾です。ヨロシク」
「よ、よろしくお願いします」
菅野がぺこりと頭を下げ、妹尾が「制服間に合った?」などと、面倒見よく声をかける。妹尾はどちらかといえばモデル風のきつい顔で、それに比べると菅野は本当に、アルプスの少女かって感じの幼な顔だった。
「で?カレシはちゃんと教えてくれてる?」
「え、え?」
「朝からアベックなんて、ウチではめずらしい光景」
「あ、アベックって、古いですよ」
「うんうん、もう年だから!」
「そんなあ」
菅野と妹尾が笑い、少し離れたところで立ちっぱなしの僕は苦笑いするしかない。
「じゃ、お邪魔虫は消えるね。ごゆっくり!」
「あ、あの、どうも」
僕は軽く頭を下げ、仕事に戻る妹尾を見送った。何をしているのか詳しくは知らないが、ああ見えて、全てを一人で切り盛りしているから結構忙しいのだ。
「・・・じゃあ、カレシさん。ぼうっとしてないで案内してください!」
菅野がいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「え?あ、ああ・・・」
二人きりで取り残されると、向こうのフロアと違って、静かだった。
「すごーい!ねえ、見てください、景色!」
新宿から西側を一望できるここの景色は、訪れる客にも好評だ。
「・・・はいはい。大体こんな感じ。あっちがセミナールーム。ここは社員もお客さんも使うとこ。分かった?」
「えー、ムードがないですね山根さん。・・・ねえ?」
菅野が近寄ってきて、きゃっ、などと言いながらそっと腕を絡ませた。また甘い匂いがして、緊張する。しかしすぐに「なんちゃって」と言って離れた。
「も、もう、何やってんの」
「照れてますか?」
「・・・ません。一応俺だって忙しいんだからさ」
「あ、ごめんなさい」
すぐにしゅんとなって恐縮するので、別に急いでもないけど腕時計を見て、「あと五分くらいね」と付け加えた。
・・・・・・・・・・・・・
テーブルで向かい合って、周りを見渡しながら、二人で立てたプランはこうだった。
十四日当日、定時の17時になったら、適当に時間を見計らって、菅野は三課と四課に義理チョコを配って回る。ここで、菅野は四課から配り始めて、三課の黒井の席が最後になるように回っていく。その間に僕が黒井をセミナールームへと連れ出し、ちょっと早いから、と応接スペースで適当にだべっておく。そこへ菅野が追いかけてきて、まだ渡してなかったので、と、チョコを渡す。セミナールームに訪れた人からちらっと見られても、渡しそびれた義理チョコを渡している風を装えるし、一人だけ特別な箱で渡しても目立たない。
バイトの女の子が定時を超えて応接スペースをうろうろしてるなんて普通あまりないから、これなら自然でなかなか良いプランだと思った。アリバイ工作的な見地から見ても。
・・・まあ、そのとき僕は適当にフェードアウトして、妹尾よろしく、「ごゆっくり」というわけなんだけどね。
「ええ?いてくださいよ!」
「は、何で?」
結局つき合わされて、五分が十分、十分が十五分になっていた。
「だって、いかにもふたりっきり!って雰囲気だと、何かおかしいじゃないですか。三人くらいで適当にお話してるって方が、目立たないと思うんです」
「・・・分かった分かった。頑張って空気読みますよ。それらしい感じで、いたりいなかったりしてみますから」
「うう、山根さん・・・」
「はい」
「何から何まで、ご迷惑をおかけして・・・」
「本当だね。チョコだけじゃ足りないよ」
「うう・・・じゃ、今度カラオケおごります!一緒に歌いましょ?」
「・・・俺、歌って歌わないから」
「え、そうなの?もしかして音痴?」
「音痴ではないんだ。・・・ただ、音痴ではないってだけで」
「えー、ふふ、何それ?」
ふふふ、と楽しそうに笑って、菅野はまた後ろからついてきた。歌ってるときが一番楽しいのに、と言わんばかりの鼻歌をくっつけて。
・・・・・・・・・・・・・
電車の中でブラックホールについての資料を読んだ。蛍光ペンの引いてあるところをつらつらと目で追う。隣のサラリーマンはウルトラブックで何かの調べもの。前で吊り革につかまるおじさんはリーダーシップについての自己啓発本。僕は光円錐と事象の地平線について、あるいは物質と反物質の対生成・対消滅について・・・ふう、さし当たってこの世の経済活動には何の意味もなさない知識だ。
僕が今まで読んだ中で分かったのは、ブラックホールは穴じゃなくて天体のなれの果てだということ、そして、その中心の特異点ってやつについては、未だ解き明かせていないということ。アインシュタインの相対性理論は宇宙のマクロな動きを記述し、ハイゼンベルクらの量子力学は素粒子のミクロな振る舞いについて記述するわけだが、そのマクロとミクロが交差しちゃう一点が特異点というわけで、それらの学問が出来て百年経った今でも、相対論と量子論は同じ土俵で計算できないらしい。その理由はどうやら<重力>にあるらしく、それをめぐって最新の理論ではブレーンだの新しい次元だの超ひもだの何やらあるようだが、もうここまでくるとフィクションというかSFみたいだった。最新の理論にはまだ手を出さないことを決めて、僕は電車を降りた。
得意先で契約書類一式書いてもらい、判をついてもらって、近くのフレッシュネスバーガーで昼食にした。ハンバーガーを食べながらまたゲシュタルト崩壊を起こし、今自分がいったいどうやって、何をして生きてるのかよくわからなくなった。契約書だなんて大それたもの、どうして一人で持ち運びしてるんだろう。一人で賃貸マンションに住んで、一人で会社に通って、もう親は何もしてくれないのに、自分だけで生活してる・・・。自分が拠って立つものなど何もないような気がして、僕はブラックホールの用紙に戻った。たぶんこれのせいで現実感が薄れたその犯人が、それでも僕を救ってくれる気がした。ブラックホールに落ちていく人は、その潮汐力でスパゲティのように体が伸びてしまうでしょう。しかしそれを地平線の外から見ている人からは、あなたはピタリと止まったまま、動かなくなったように見えます。二人の時間の流れ方が相対的に異なるので、このような奇妙なことが同時に起こるように見えるのです・・・。
午後は関口と待ち合わせて納品に行き、そのまま一緒に帰社した。それとなく理系出身だというのを聞き出したので、「じゃあ、量子力学とか」と水を向けてみた。
「ああ、あの・・・何だったか、波動方程式。あれやだったね」
「嫌ですか」
「物理は好きじゃなかったな。・・・何で」
「あ、いや。ちょっと本で読んで」
「何の役にも立たんね」
「・・・そのようですね」
いいんだ、この世界の何の役にも立たなくて。ミステリなんてきっと元々そういうものだ。
帰社するとまた菅野の鼻歌。何だか腹が減ってくる。
「ラーメン」
ぼそっとつぶやくと、菅野の歌が止んで、「らーめん!」と、まるで聖なる言葉みたいにそれが繰り返された。
「ラーメン食べたい・・・、時々無性に食べたくなっちゃう!ああー、ラーメン食べたい。みそラーメンが食べたいっ!」
「・・・俺とんこつがいい。濃厚なやつ」
「ああ、とんこつもいい。まずスープを一口で、それから、たまご!」
「半熟」
「・・・煮卵!それから、シナチク」
「焦がしネギとか、あと分厚いチャーシュー」
「ああ、もうとろけそう・・・。ね、行きましょうよラーメン。ほら、今日、ノーザン・・・」
「ノー残ね」
「そうそう。あたしこないだちょっと美味しいラーメン屋さん見つけたんですよ。ねえ、一緒に行きましょうよ」
「え?・・・二人で?」
「別に、誰か誘ってもいいですよ。あ、あの、黒井さん以外なら」
「そういうもんなの?」
「そ、そういうもんです」
「・・・俺と二人でも、いいの?」
「え、別に、いいですよ」
菅野はごく当然という顔でまた鼻歌に戻った。そうなの?女の子と二人でラーメンとか、普通?
・・・別に、普通なのかな。
そもそも女の子どころか、男とだろうが、二人だろうが大勢だろうが、誰かとラーメンを食べたことなどないので分からないのだった。いや、大学の頃に成り行きで食べたかもしれないし、学食ではよく食べていたか。
しかし会社に入ってからは、自分からそういう輪に入ってその流れに入らなければ、ラーメン一杯食べに行く機会がないのだ。行こうと思えばいくらでも行けるんだろうが、とうの昔にそういう道を外れた僕は、もうそういう世界には戻れないだろうと思っていた。
それが、今、女の子に誘われているらしい。いや、待て、落ち着け。そんな、身の丈に合わないことをしたって、うまくやれないぞ。お上品なディナーだろうがラーメンだろうが、何かしらへまをするに決まってる。ああ、今この場で出前でも取って、ここで二人で並んで食べるなら問題ないんだけどな。社食でもついてれば気兼ねなく食べられそうなのに、どうしてもお店に二人で入るっていうのがなあ・・・。
「あ、あの、どうしました?」
気づくと菅野が心配そうにのぞき込んでいた。
「いや、別に・・・」
「あの、山根さん、もしかして」
「え?」
「あの、これはもしかして、ですよ。万が一、ですけど」
「う、うん」
「あ、あたしのこと、その、・・・いや、違いますよね、すいません」
「・・・え?」
「いえ、忘れて下さい。自意識過剰です。でももし、そうだったら、あたし、ひどいこと・・・」
「・・・俺が、菅野さんのこと、好きだったらってこと?」
「あ、いや、だから・・・ち、違いますよね」
「好きだよ、その、普通の意味で」
「ふ、普通に、ですよね。あたしも普通に山根さんのこと好きですよ?」
「それで何がひどいって?」
「あ、だから、その、恋の相談、とか・・・」
「ああ、そっか。もしそうなら、そりゃきついね」
「ですよね。あたしも前、好きな人が友達のこと好きになったことあって・・・こう、ムキー!みたいな」
「ああ・・・」
何だろうね、僕だってムキー!のはずなんだけど、だんだん慣れてきちゃったのかな。
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