第104話:冬合宿のブラックホールは完全密室

「が、合宿って、どういうこと?」

「泊まりがけの、勉強会ってこと!」

「そ、それは分かるよ」

 いつになく早足の黒井に追いついて、またもや吹雪じみた空模様をロータリーから見上げる。・・・泊まりがけの、勉強会?

「ど、どこに泊まるって?」

「ええ?そりゃ、うちだよ」

「お前んち?これから?俺、泊まるの?」

「まずい?」

「べ、別に、いいけど」

「じゃあ早く!」

 鞄を持った手首を肩に掛けて、マフラーもせず、緩めたネクタイのまま黒井は楽しそうに笑った。うん、何だか僕も楽しくなってきた。冬の山荘合宿。そんなものを期待して入ったのに、ミス研では合宿すら開かれなかったんだ。

 吹雪、停電、隔離された部員たち。電話線も切れ、道路は寸断される。雪によって作られたクローズド・サークル。新雪を踏む足跡が、あり得ない場所で消失する・・・!

「ああ、宇宙の、密室だ・・・」

 入ったら最後、外から観察することの不可能な完全密室、それがブラックホールだ。何だ、やっぱり僕の出番じゃないか!

 遅れが出ていますと繰り返すアナウンスの中混んだ電車に飛び乗って、僕たちは冬の合宿所へと向かった。



・・・・・・・・・・



 桜上水で降り、黒井が鞄から折りたたみ傘を取り出したが、「やめとこう」と言ってそのまましまった。え、相合傘かって期待したのに?でも、風が強くてすぐにお猪口になりそうだったし、残念だけど仕方ないか。

 肩をすぼめて、足下に気をつけながら歩いているとしばらく無言になった。その間僕はブラックホールに落ちた情報と、世界全体の秩序の完全性について考えた。

 やがて、いつものファミリーマート。

「合宿と言えばお酒だよね」

「クロ、勉強する気ある?」

 黒井は酒をかごに入れ、僕は食料を漁る。山荘ならどんなものが似合うだろう。洋風なら、固いパンにチーズやサーモンとかもいい。暖炉の前でシチューだとか、ワインに合う瓶詰めの・・・キャビア?各分野のスペシャリストが集まって、しかしやがて全員が容疑者になるっていう、ちょっとエリートでセレブっぽいメニュー。

 日本のだと途端に遭難っぽいにおいがしてきて、カンパンやスニッカーズや、氷砂糖。連想するのはツルハシや凍死体で、こっちはなんかホラーっぽい。

 ああ、空想は尽きないな・・・けどまあ、結局かごに入れるのはいつもと同じ、スナック菓子だの、カップ麺だの。まったく雰囲気出ないなあ。

「クロー、何か食べたいもんある?」

「ええ?そうだな、寿司!」

「・・・」

 僕は大きなクルトンみたいなパンが入ってるカップスープと、トルティーヤみたいなのと、ちょっと高級そうなチーズを選んだ。仕方なくおにぎりのコーナーの手巻き寿司も入れてやる。もうちょっと情緒っていうか、叙情的っていうかさ・・・、ん?

 黒井が先に飲み物だけ会計を済ませているので、僕も適当に切り上げてレジに向かった。

 カフェの次は合宿だなんて、思ったことが次々叶っていくみたいだった。大学生ではないけど、まるで大学生みたいな青春を味わっている。好きな人のマンションで、泊まり込みの勉強会とか・・・ちょっと、どきどきしすぎる。寒さとは別に震えそうだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 重い荷物を持って、さらに強くなる雪の中、何とかマンションに着いた。ここに来るのも一ヶ月ぶりくらいか。会社から遠くなり、世間の人々から遠くなり、空気はどんどん個人的なものになってくる。僕はそうして、分厚いコートを脱ぐようにリラックスして、自分に戻っていくのを感じた。

 黒井が好きだということを、会社にいるとたまに、とんでもなく場違いで、おぞましいことみたいに感じることがある。でも、誰でもない自分に向かって正直になれば、それはわきあがってくる自然な感情で、ただきりきりと焦がれるだけだ。そこにはどんなルールも常識もない。こうして黒井と二人でいると、本人を前に、それでいいんじゃないかって思えるから不思議であり、そして、だから好きなんだと思った。

「どんな酒、買った?」

「あのね、ウイスキー」

「・・・おいおい、本当に勉強する気」

「あるある。大丈夫って」

 廊下を歩いて、無事帰宅。久しぶりなのに、何だか一緒に住んでるような気安さ。何で、そんな・・・届かないように見えて、届いちゃうんだ、お前は。

 ドアを開けて、真っ暗な玄関に入る。僕が先に入って、荷物を置いて靴を脱いでいると後ろからごく自然に肩に寄りかかられたりして、腹がひゅうと透けて切ない気持ちが駆け抜けた。今ここにある、今ここにしかない瞬間に、自分が存在してそれを感じてるってことを、思った。


 部屋の電気をつけると、まあ、ひどかった。服や下着は脱ぎっぱなしだし、何に使ったのか微妙なティッシュは散乱してるし、でもそんなことより、かっぱえびせんの袋が開いたまま下向きになってるのが僕はものすごく気になるよ黒井くん。

「・・・掃除していい?」

「ええ?また?」

「またじゃないよ。何なのこれ?こんなところで勉強なんか出来ないって。あのね、ちゃんときれいにして、そんでコーヒーとか紅茶でも用意して、クッキーの一枚でも食べながらやるのが勉強だよ」

「いいんだよ、ベッドで本読むだけなら支障ない、っていうか別に気にならないし」

「とにかく今日は俺がいるんだからこんなのは絶対不可」

「分かった分かった。じゃあ好きにして」

 黒井は暖房だけ入れて、そこらへんのパーカーに着替え始めた。まったく、<そこらへん>て!

 僕は上着とネクタイを脱ぎ、ズボンだけ出してもらうとまずは大きなゴミ袋を用意して、とにかくゴミというゴミを捨てていった。衣類は衣類、食べ物は食べ物という感じで分類して部屋の隅にまとめていき、行き先不明のものは適当な袋に全部つっこんでおく。まとめたものを更に整理して、ゴミの分別をし、ここまで来てようやく床のラグが見えてくる。

「これ、洗濯前?洗濯後?」

「んー、どうかな。触り心地とかでわかんない?」

 キッチンでグラスを探す黒井は振り向くことなく答えるが、あの、これパンツなんですけど。

「あのさ、今日一応バレンタインだよ?お前、もしかしてってことがあるじゃん。それなのに、こんな部屋・・・女の子ドン引きだよ」

「え?ああ、そうだったね」

「き、来たのが俺で、よかったね」

「うん」

 見てない隙にちらっと匂いをかいで、ああ、これ洗濯後。靴下は、まあ嗅がなくても脱いだ形状から、洗濯前。どうしてこんなの見られても恥ずかしくないのかな。僕なら雪の中追い出してでも片づけてからじゃなきゃ部屋に入れられないよ。


 掃除機をかけ終わり、部屋が何とか片付いた。しかしまあ合宿だから、まずは腹ごしらえから。

「乾杯!」

「かんぱい!」

 だってここまでして、まだ22時なんだ。夜はまだ長い!

 ジントニックとハイボールで乾杯したら、チンした唐揚げと、ブラックペッパーのついたチーズ、それからトルティーヤ。

「う、うまい」

「これ、いける」

 黒井はベッドに寄りかかって、僕はその向かいでクッションに座る。何か今日は向かい合ってばっかりだ。

「あ、スープあるよ」

「飲みたい」

 キッチンで湯を沸かし、テーブルにクラムチャウダーも並んだ。いったい何しに来たのやら。杯が空くとお互い勝手に相手のにも注ぎ足して、二十分とせずテーブルの上が片付いていく。だって、お前と食うと、こんなにうまい。

 締めってわけじゃないけど、お湯を沸かして、ものすごく薄いウイスキーのお湯割りを作った。少しあたたまってきたから暖房を弱くして、熱い液体をすする。うん、苦いし薄くてまずいからはちみつでも入れてやりたいけど、この家にはないだろう。

 グラス以外の残骸を大体片付けて、ゴミはいったんキッチンへ押し出して、テーブルのスペースを確保した。ウイスキー片手の勉強って、何だよ、なあ?

「さて、じゃあやろうか?」

「そう、だね。えへへ」

「まさかお前、ちょっと酔ってる?」

「だいじょぶだいじょぶ。できるって」

 僕はほんとかね、とつぶやいて玄関へ戻り、鞄から資料を取り出した。ノートとペンと、ふせんも。

「ねこー!」

 向こうから呼ばれた。

「んー?」

「俺の本も持って来て!」

 ・・・まったく、出不精なんだから。玄関に並んだ黒井の鞄を開けて、うわ、この中もぐちゃぐちゃなの?

 紫のカバーを引っ張り出そうとして、しかし、無造作に突っ込んである菅野のチョコと、そして、それ以外のチョコも、見えてしまった。見覚えのあるフロアの女性一同のものもあるが、そうでない、ものも。

 いや、まあ、島津さんとかね。

 ・・・いやいや、詮索するまい。僕は今ここにこうしているわけで、ああ、クリスマスだけじゃなくバレンタインまで泊まりこみで、これ以上何を言うか。うん。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 やはり勉強のお供には熱い飲み物が必要で、ウイスキーが少しずつ消費されていった。もうやかんごと部屋に持ち込んで、麦茶じゃないんだから、って感じ。腹の中が熱いほど火照ってくるけど、暖房は消したから頭は少し冷えていた。

 黒井はベッドに寄りかかって本を読み、僕はテーブルでノートを広げた。部屋の中には、お互いの、ページをめくる音だけ。あとは、窓の外でびゅうびゅうと風が鳴っていた。

 ブラックホールの、事象の地平線。

 それはつまり、ゴムシートの上にものすごく重いものを乗せて、これ以上ないほど下に沈み込んだそのアリジゴクの底から、光が這い出して来れるかどうかの境界線、ということのようだった。実際には時空は二次元のシートじゃなくて三次元の立体だから、シートが沈み込む方向は単純に<下>ではなくて、何ていうか、全方位的なものになる。風船が中心に向かって一気にしぼむような?

 まあ、重力って力と、光の速度である秒速三十万キロのちょうど釣り合いが取れたところが、地平線だ。これはシートにたとえた呼び方であり、立体に起こせば、実際は線ではなく事象の地平面、となるらしい。

 名前がかっこいいから知りたいんだけど、しかし、重力と光の速度が釣り合ったら、何の事象が何の地平線なんだ?釣り合いの取れたポイントとそうでないところで、何がどうしたっていうんだろう。地球からロケットが飛び立とうが、重力に負けて失速して海に落ちようが、それは・・・。

 ・・・ん?

 この図によると、星が重力崩壊を起こしてどんどん凝縮していき、やがてその釣り合いポイントを経て、ブラックホールになる、とある。

 つまり、さっきはロケットが発射してたのに、飛び立てなくなるポイントがあって、それ以降は全便墜落、ってわけだ。

 ・・・墜落したら、ふむ、地球の情報は一切宇宙へ漏れないってこと。

 どこかにいる宇宙人に、何やら絵文字みたいなものも送れないし、電波信号すら帰って来てしまう。

 でも別に、外部に漏れないってだけであって、それがどうしたんだ?

 ・・・。

 少し眠くなってくるのを我慢して、もう少し頭の中で自分の喩えを続ける。

 重力が時空を伸び縮みさせる。

 重力が強いと時間はゆっくりになり、弱いと速くなる。これはお互いから見て、という話であり、絶対的なものでなく、相対的。だから相対性理論。

 重い星はゆっくりで、軽い星は速い。ゾウの時間と、ネズミの時間?心拍数と寿命に例えるなら、確かに速い遅いは相対的か。

 じゃあ、ゾウよりものすごく重かったら?一分あたりの心拍数は限りなく少なくなって、もっと、もっとゆっくり鼓動を刻んで、でも、特異点っていう臨界を超えたら、え、もしかして。

 ピーーーーーー。

 ・・・ご臨終?

 心電図の波は消えて、直線になる・・・。

 これが、時間が止まるってこと?っていうか、死んでるじゃん。


 時間と空間は一体となったゴムシートであり、パラメータも連動する。光には重さがなく、ブラックホールは重すぎる。光は進む距離がマックス値の秒速三十万キロで、ブラックホールは光の逆だと考えれば、進む時間がマックス値。時間のマックス値って何秒だ、って思うけど、それって時間がゼロというより、逆に、光が出て行くのに無限の時間がかかるって意味だろうか。

 ええと、ブラックホールに落ちる人を外から見ると止まって見えるけど、落ちる人自身はごく普通に落っこちるらしい。それは、相対的だからだ。ネズミからはゾウがスローモーションに見えたとしても、ゾウ的には普通に歩いてるだけ、ってこと。だから、あくまで相対的に、ブラックホールで時間は止まる。

 ああ、ストロボみたいなものか。ストロボは恣意的に間隔を開けてフラッシュを焚くわけだけど、ごく普通に照らしてるのに引き伸ばされて、事象の地平線でご臨終して、遂に次のフラッシュが焚かれなければ、最後のコマでその<事象>は一時停止したまま止まっているように見える。ストロボは意図的なスローモーションだけど、こっちのは天然で、本物の、時間の歪みだ。

 光速度不変の法則というのがあって、光が三十万キロ進むのは絶対のお約束らしい。ブラックホールの半径が三十万キロ以上あるわけじゃないから、本来は一秒で出てくるところを出てこない、ってことは、<秒速三十万キロ>を崩さずにそうするためには、時間が一秒も経っていない、という状況にするしかない。それは数式の上での詭弁のように聞こえるけど、それが相対性理論であり、時間と空間が伸び縮みして、臨界点で時空が破れるということの意味なのだ。

 見当外れな理解かもしれなかったが、マクロとミクロなスケールを何となく感じて、散乱した資料を重ねた。<?>だらけの書き込みはたぶん後から見ても意味を成さないが、とにかく、時間・空間・質量・速度・重力という話をしてるらしいということは分かった。しかし、ブラックホールという異常事態を引き起こしている天体と、ホログラム理論なんてものがどう繋がるのかは不明だ。事象の地平線というのが実際は地表面、つまり地球の表面のようなものだとは分かったが、ではその球体の表面がホログラム面なのか?お菓子のオマケの銀のホログラム・シールで飴玉を包んだみたいなもの?

 何を見ているわけでもなく、ぼうっと連想を重ねていると、「・・・ねえ」と声がして我に返った。ふと見ると、黒井はページから目を離さずにじっとしている。沈黙。空耳だったか、なんて思っていると、やっぱり黒井が言った。

「・・・やまねこさあ」

「え?」

「いかない?」

「え?」

「いこうよ・・・そろそろ」

「どこへ?」

「うひひ・・・いいところだよ」

 黒井はページから目を上げてまともに僕を見ると、パタン、と本を閉じた。

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