第105話:「お前って、俺に興味ない?」
「寒い。寒いよ。何しに行くの?」
「・・・寿司が、食いたくて」
「さっき食べた」
「・・・もっと。本当は寿司屋に行きたい」
「どうして雪の日の夜中にそんなこと言い出すの?」
「どうしてお前は何も言い出さないの?」
玄関を出てすぐ、廊下に風で雪が入り込んでいた。寒いというか、冷たい。黒井はダウンと帽子に編み上げブーツのセット、僕はダッフルだけ借りて、コンビニまで。エレベーターを待っているだけで体が冷え切った。
マンションの外に出ると、すでに雪が一面に積もっていた。こないだ同じだけ降ったのに、また降ったんだ。<雪が降ったら>なんて約束は来年か、とか思っていたのに、めずらしいこともある。
「革靴が濡れそうだ」
僕がつぶやくと、「じゃあ裸足で歩け」と言って黒井は僕の手首をつかんだ。まだ誰も踏んでいない雪。自分はブーツだからいいだろうよ。
「ほらやまねこ、遅い」
「すべるんだってば」
積もった雪のせいか、夜中だからか、声がいつもより響くというか反響するというか、変な感じだった。風で縦横無尽に舞う雪が、街灯の明かりに浮かび上がっている。
黒井が先に歩き、時折、より深く積もっている方へ寄り道した。僕はマフラーを口元まで引き上げて、その黒のダウンを目の端に捉えつつ、堅実に歩いた。
足先が冷たくて、痛い。ポケットにつっこんでいた両手を出してみた。指先がすぐにかじかむ。風のせいで体感温度が低く感じる。耳が冷たい。
雪山で死ぬことを考えた。熱帯のジャングルよりはマシだ。腐らないし、虫がたからない。一面が本当に雪だけしか見えず、方角も分からなかったらどうだろう。食料もなく、体力はどんどん奪われていく。それでも、孤独で、清浄だ。一番ではないが、悪くない。
海とどっちがいいかな、と考える。他にも飛行機だとか、地下の洞穴だとか、こんなところで死ぬとしたら、と考える場所はいろいろあった。映画や本で見る度に、この場所なら具体的にはどんな苦痛があるんだろう、と自動的に考えてしまう。あればあるだけ、そういうこともあるのか、と身構える。まな板の鯉の予習は続く。マフラーをずり下げる。ふむ、これくらいなら大丈夫だ。雪に埋められて、震えを通り越して、心臓が止まっていくのを待つよりは。ああ、耳がちぎれそうに痛い。
いつのまにか黒犬に追いついた。
「革靴のこと怒ってるの?」
「・・・いいや?」
「じゃ、何考えてんの?」
「・・・雪山の死体のこと?」
ツルハシで心臓を打ったら、噴き出した血で雪が溶けるだろうか。それともその場で凍るだろうか。それにしても何でツルハシなんだ。思いっきり振り上げて、そして、振り下ろす・・・。
「陰惨なことしか考えないんだね」
「・・・」
ぴんと来なくて、答えようがなかった。別に、そんなホラーとかスプラッタな趣味はないんだけどな。
「雪合戦とかしようと思ってたのにさ、お前に付き合ってたら、命が幾つあっても足りないね」
「・・・」
「じゃあ、そういうわけで・・・」
黒井が急に立ち止まって振り返るから、ぶつかりそうになった。ブーツのせいでまた少し背が高い。道の真ん中で、わざわざ雪の上に立って、黒井は僕のカシミアに手をかけ、巻きつけたそれをくるくると取っていった。ジャケットの襟の上いっぱいまでファスナーを上げているから、黒井はマフラーをしていないのだった。ああ、自分が寒かったのか。
しかしマフラーは取り去られず、紳士だかセレブだかが、タキシードの上から真っ白いそれを巻かずに首から垂らしているだけ、みたいになった。それから、ダッフルの一番上の、動物の牙みたいな形のボタンをひもから外す。無言で見つめていると、黒井はしゃがみこんで雪をひとすくいし、おもむろに左手で僕の胸元を引っ張って、そこに静かに雪を突っ込んだ。
「ひいいいっっ!!」
僕の悲鳴と、黒井の笑い声が響き渡る。き、近所迷惑だろ!
「あはははっ!」
「こ、こういうことは、も、もっと、それっぽくやれ!」
僕は前かがみになって胸元から雪を出そうとするが、出てこない。少しずつ溶けながら、腹が冷やされていく。仕方なくかじかんだ手でダッフルのボタンを取るが、なかなか取れない。
黒井がひいひい言いながらボタンを取るのを手伝った。途中でひらりと落ちたマフラーを僕の首に巻きつける。ようやくズボンからシャツを引っ張り出して、雪より冷たいかという手を突っ込んで雪と水滴を掻き出した。借りたズボンにハンカチが入っているはずもなく、諦めてまたボタンをかけた。
「ああ面白かった」
「・・・よかったね」
黒井は僕の肩を抱いて、ざくざくと歩き出した。ぎゅうと抱き寄せて、「良かったよ」なんてささやく。冷たい腹がやっぱり透ける。・・・うるさい、騙されないぞ、反撃されないように僕の腕を押さえてるだけだろう。
しかし機会がないまますぐコンビニに着いてしまい、黒井は寒い寒いとわめいてさっさと走っていった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結局寿司なんてないから、僕は個包装のドリップコーヒーと、思い出して携帯歯ブラシを買い、黒井は肉まんを買った。いつか寿司を食いに行こうと言うので、僕は「回転寿司ならね」と言っておいた。誘われるのは嬉しいけど、カウンターで目の前に人がいるようなところは無理だった。
店を出て極寒の世界に戻ると、黒井が肉まんを半分分けてくれた。あれ、またさっき考えたことが叶っている。
「・・・めずらしいね」
「何が?」
「くれるわけ」
「うん。・・・なに、めずらしいって」
風がまともに吹き付けて、もう肉まんが冷めた。さっさと食ってしまおう。
「・・・ねえ、なに」
「え?だから、・・・くれるなんて、めずらしい」
食べながら喋ったら、息が白かった。
「それ、違うよ」
「え?」
「別に俺がケチなんじゃなくてさ、お前が食べないんじゃん」
「はあ?」
「俺の・・・食ってもいいのに、手ぇ出さないんだもん」
・・・。
食べ終えた黒井が、人差し指で唇を拭っている。
食っていいと言われても・・・手なんか、出せませんよ。
「・・・俺はね、自分の分だけ食べたいの。人の皿まで、領域拡張しないの」
黒井は少し黙ってから、ははっ、と嘲笑混じりに笑った。
「何だよ」
「お前、何か、言ってることめちゃくちゃ」
「・・・何でだよ」
「わかんない。いや、わかんない。何でだろう。どうしてそう思ったんだろう」
「・・・何か俺、図々しいことした?」
「逆じゃない?しないから、いや、しないくせに・・・」
黒井は黙り込んで、雪の水たまりをまたいだ。次の水たまりでびちゃんと跳ねて、全部僕の靴にかかった。
「・・・ドイツでも、よく雪が降った」
「・・・ドイツ?」
「デュッセルドルフってとこ。ライン川が、近くにあって」
「・・・え?」
「二年もいたのにね。ドイツ語ももう、ろくろく覚えてない」
「二年」
「知らなかった?」
「・・・知らないよ」
「だって年上だって言ったのに、お前、何も訊かないから」
「・・・う、うん」
「・・・お前って、もしかして俺に興味ない?」
「・・・」
「知り合ったやつは大体訊いてくるよ。お前、菅野ちゃんに年上だってこと言った?早速訊かれたよ。それで、お前はそういうことなんも訊かないなって思ってさ。そんで、よく考えたら俺もろくにお前のこと知らないんだ。俺は自分のことばっかりで、人に興味がなかったんだってことがよく分かった。それで」
「・・・うん」
黒井は一気にそこまで喋って、少し息を整えた。僕は一歩一歩足を進めて、雪の凹凸だけを見つめた。
「それで、じゃあお前もきっと俺に興味がないのかって思ったし、それに・・・俺はお前に興味があるけど、でも訊き方が分からない」
黒井は「あははは」と乾いた笑い声を上げた。
「びっくりしたね。わかんないんだ。それとなく言わせようとしてもお前は絶対言わないし、だから俺が図々しく引っ張り出すっきゃないんだ」
「・・・い、言うほどのことなんか、俺には」
「あるって知ってるんだよ。中身、あるくせに、出さないんだ。だから俺、嬉しかった、って」
黒井は無遠慮に僕の股間を凝視した。な、なに、部屋でしちゃったこと、言ってるわけ?蒸し返すの、やめてってば。
「な、何、言ってんのか、よくわかんないな。俺は外国に行ったこともないし、考えてるのは死体のことばかりだし、お前が興味持つことなんて、何も」
「じゃあ俺には興味ない?」
「・・・」
あ、あるとも、ないとも、言えないじゃないか。
だめだ、心拍数が上がりすぎて、会話と気持ちのスピードが食い違っていって、雪を踏む足も感覚がなくなって重くなって、・・・ついて、いけない。黒井は何を言ってるんだ?ドイツにいた?ライン川?僕の頭はまだそのあたりの理解をやっと始めたところだ。ちょっと、いったんさっきの場所まで戻って、ゆっくり歩きなおしてくれないか。
黒井は、僕の答えはそのままにして、もう次を話し始める。ちょっと、待ってよ。ちゃんと言いたいのに、置いていかれてる。
「・・・渡した本だって読んでくれてさ、おまけに、勉強だって。それでも、お前は自分でやってるだけだって。・・・何だろうね。どうしたんだろう。俺は少し、寂しかったのかも」
「・・・」
「気遣いとか遠慮でやってくれるのも嫌だし、でも俺は何も関係ないって言われても寂しくて、じゃあどうされたいって、まあそれはわかんないんだけどね。・・・わがままなんだ」
「・・・」
「何だよ、何か言ってよ。一人で、バカみたい」
何となく立ち止まって、黒井も隣に並んで、僕はその顔を見るけれども、声は出なかった。だから、まだ、僕はライン川にいるんだよ。ライン川を眺めて、いつもみたいに、死体が流れてこないかなって、何重にも包まれた怪しいブツが浮かんでこないかなって、ええ、ライン川ってそういう川なのかな。川幅はどれくらい?美しきドナウとかの仲間?
僕はたぶん口を少し開けてパクパクさせて、でも喉からどんな音も出せなかった。えっと、お前に、興味があるかって?あるに決まってるだろ!でも、お前の何に?そう言われると途端に分からない。お前の留学先に?お前の出身地に?過去の女性遍歴に?そんなの聞きたくないってば!
「・・・すごい、困らせた?」
首を、縦にも横にも振れない。仕方なく眉根を寄せて、僅かに首を傾げる。伝わらないかなあ、この気持ちが。目を逸らせてどこかのマンションの窓とかベランダを見るけど、新しい情報が入ると、処理が余計おっつかなくなるから、もう、目を閉じようか。少し待っててくれないかな、たぶん一時間くらい熟考するような内容を、お前は二分で喋ったんだ。
「・・・ちょっと、目をつぶって歩くから、手を引いて」
僕は勝手に黒井の手を握った。お互い冷たくて、何だか棒みたい。肉はそげて骨になっちゃったみたい。
「・・・なに、新しい遊び?」
「早く」
「う、うん」
何度かずるっとすべり、その度黒井の手を強く握った。目の前に、本当に眼球のその前に、それを貫くべく銀の細い円錐の頂点が用意されてる気がして、腰が引けた。お前があのときみたいにその手で目を覆ってくれれば、何も怖くないのに。
開けてしまいそうになる目をぎゅっと閉じて、うん、情報を遮断したって、気持ちが追いつくことはなかった。むしろ混乱だけが後からやってきて、何を驚いているのか、いや、驚いているのかすら分からないのにどきどきして、どうしよう、と思った。
どうしよう。
手だけ、繋いでいるけど。
でもほとんど感覚なんてなくて、ねえ、本当に隣にいる?目を開けたら、木の枝を握って一人立ち尽くしていたとか、そういうことないよね?
だんだん足が進まなくなって、だめだ、このままでは止まっちゃって、どうにもならなくなる。進めなくちゃ、いけないんだ。それだけははっきりしていた。怖くてもやらないと、お前に、置いてかれてしまう。この場で止まって、分類して整理して検討してる暇なんか、ないんだ。お前と会ってからずっとそうだ、走り続けて、変化の戸惑いもほっぽって、振り切るように走らなきゃ、追いつけない。・・・いや、分かってる。お前はきっと待っててくれるけど、僕がだめなんだ。僕自身がこんな僕自身をジャッジして、<否>を押してしまうから、その前に逃げ切りたいんだ。お前が<可>を押してくれるなら、それでいいんだから。
僕は握った左手を少しぐっと引いてみた。ついてくるみたい。大丈夫。止まらない。絶対に止まらないぞ。少しずつ、早足に、そして、走った。目をつぶったまま軽く流して、満足して減速しそうになるのをこらえて、もっと、速く、全力ダッシュ・・・!
「お、おいっ・・・!」
雪で足を取られて、もちろんそんなには走れない。世界が、頬に当たる冷たい風と、感じない足先だけになっていく・・・。
「おい、止まれっ!」
左手が思い切り引かれて、前からも衝撃があって、何だか分からないままに足がすべり、腰を打って、何だか地面の、低いところにいた。
「・・・え?」
目を開けると、十字路をガリガリとタクシーらしき車が横切っていく。スピードはほとんど出ていないけど、ああ、音なんか全然聞こえてなかった。右から左へ、通り過ぎた後はこんなに響いてるのに、どうして?耳はふさいでなかったのに。
「ねこ、やまねこ・・・だいじょぶか」
「・・・うん」
「お前・・・」
僕は横向きに尻もちをついて、黒井は僕の前で膝をついていた。
「ご、ごめん」
「・・・だから言ったじゃん。お前、言ってることがめちゃくちゃだって。雪が楽しくて、ふざけて遊んだの?」
「・・・そういう、わけじゃ」
今更自分の息が上がっているのに気づいた。雪の上に座って、ああ、尻が冷たい。
「俺が何したら楽しいかなって考えてるときに、お前はめちゃくちゃなんだよ。それで、俺を誘ってるんだよ。だから、蛾がろうそくの火に突っ込むみたいに、ねえ、強引どころじゃないよこれ」
「な、何を言ってるのか、わかんないよ。さっきから、俺がどうしたって?そんなこと言い出すから、こうなってるんじゃないか」
道路の真ん中で雪の上に座り込んで、いや、綺麗な雪ならいいんだけどさ、タイヤ跡のついた、半分水たまりになったようなところにさ、もう、お前のズボンとお前のコートが、台無し。ついでに僕の革靴も。
「・・・俺のせいだって言うの?」
「まあ、そう、だよ」
「何がどうなってんだ?」
黒井はそう言うと、立て膝のまま、僕の頭を両手で撫でた。撫でたというか、探った。
「な、なに」
「このへん、耳。山猫の、ぴこぴこ」
両手の人差し指をくいくいと曲げてみせる。ああ、そうだったね。耳の先から、しゅっとした何か。マフラーのフリンジのような、お洒落な山猫。
「ねえ、俺ね、このブーツでこの体勢で、立てないんだけど」
「・・・そう」
「早くお前が立って、そんで、俺を立たせて?」
「・・・何か、えろいよ」
「・・・うはっ、ほんとだ。じゃあ余計に、早く」
「余計にって何。っていうかだめだ俺、腰が、抜けちゃってて」
「え、ねこ、腰抜け?」
「そう」
「俺じゃ、勃たない?」
「・・・そ、そういう、ことじゃ」
「じゃあ勃つ?」
「た・・・た、たって、みせる、よ」
黒井は、ねえ早くと僕を急かした。膝が冷たいとか、足の裏がつりそうとか、そんなことを言う。僕は今頃腰を打った痛みがやってきて、ガードレールにつかまる有様だった。情けないな、ううん、いつもならもっとすぐ立つよ。僕は黒井に手と肩を貸して立たせてやって、鈍く痛む腰をさすった。黒井は僕の肩を叩いて、わりと真顔で言った。
「もっと、腰を、鍛えないと」
「・・・ひ、必要ない」
「そう?そんなことなくない?」
「今日お前、ちょっと、勉強しすぎ?」
「そういうことにしといてあげてもいいよ」
本当は腰が痛くて、腕か肩を貸してほしいけど、言い出さずに一人で歩いた。ここで指の一本でも触れたら、回路が<可>に固定されたまま暴走して、自分で<否>を出す前にお前から<否>を出されそうで、そんなのは耐えられそうもない。そして、それに、ネジが飛んで、お前を雪の上に押し倒してしまいそうだったから。
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