第185話:歌わないはずのカラオケ

 早めに行ったって歌わないしすることない、と主張したが、飯を食うんだよと言われて仕方なくまた歩いた。

 新宿駅の地下を行けば傘を差さずに済んだけど、それは黙っておいた。コンビニの前を通りかかって、さて、ビニール傘とか買っちゃおうかな、あ、小銭がないし、どうせやむかもだし、一本しか買わなかったよ、別にいいよね、なんて・・・。

 ・・・というもくろみはコンビニに着く前に崩れて、黒井は落ちている骨の折れたビニール傘を意気揚々と拾い上げた。

「これでよくない?」

「・・・そう、ですね」

 いや、僕にも差し掛けてくれるなら何でも構いません。折れた骨が終始目に刺さりそうだって、ほとんど滴が頭や肩にかかっていたって、結構ですとも。

「ねこ、濡れてない?」

「大丈夫です」

 むしろ傘に入らない方が安全だけれども、ここを出るわけにはいかない。いや、ふつうもうちょっと、相手の方に多めに差し掛けるとか、しない?うん、お前はしないだろうね。そういうところも大好きだよ。

「ちょっと、やっぱ濡れてんじゃん」

「え、いや、別に」

「何でもっとこっち寄らないわけ?」

 ・・・っ。

 腰に手を回して引き寄せられ、不意打ちでひゅうと腹から下が崖から落ちた。

「俺が差してやってんだから、ちゃんと入ってて」

「は、はい」

 折れた骨が顔の横にぶらついて、滴がシャツの中に落ち、素肌の胸を伝う。何滴も、何滴も・・・。

 おかしな刺激にさらされながら、僕は無言で歩いた。黒井は「俺、何歌うか決めてるんだー」とか何とか、透明の膜の内側から灰色の空を見上げていた。



・・・・・・・・・・・・



 いつものように、黒井が唐揚げやポテトやパフェを食い散らかし、僕が残りを片していると、テーブルに置いておいた携帯が鳴った。

 一瞬二人でそれを見つめ、食べる手が止まったが、黒井がわざとらしくパフェの続きを食べるので、僕が出た。いや、もう、むしろ出てほしいんだけどな。

「はい、もしもし」

「もしもしー?」

「あ、菅野さん?」

「はーい!あれ、今度は山根さんですね!お久しぶりぶりー!」

「・・・っ、はい、どうも、お久しぶりです」

「やだ、あれ、何か冷たくないですか?今、ああ着いた着いた。もう部屋入ってます?」

「あ、うん」

「じゃあ行きますね、っていうか、行ってもいいですか?あたし、もしかしてお邪魔?」

「ま、まさか。・・・え、えっと、おい」

 僕は黒井に電話を無理矢理押しつけて、烏龍茶を飲んだ。

「なに、今度はしゃべれっての?んもう・・・あ、もしもし?やっほー、着いた?」

 黒井が部屋番号を告げて、じゃあね、と電話を切った。あと数分でたぶん、ここのドアが開くのだろう。そしてしばし再会の歓談をしたら、歌もうまくて美男美女のお二人がマイクを握って、いや、本当に僕、何しにきたんだ?

 来たことを、急激に後悔し始めた。

 ほとんどもう、帰ろうとして腰を浮かせた。

 でも・・・、黒井と菅野が二人きりで、っていうことにはそれほどわだかまりはないけど、黒井の歌を、ちゃんと聴いてみたかったという気持ちはあった。もちろんこんなカラオケじゃなくて、雪の屋上で聴いた方が素敵だってことは分かってるけど、でもやっぱり・・・、聴いて、みたいじゃん。

 部屋の電話が鳴って、「お連れ様一名ご案内してよろしいですか?」と。

 はいと答え、本当にもうすぐ来てしまう。

 誰かと会うという緊張にまぎれ、もうついでだからいいやと、僕は「か、カラオケなのに、歌わなかったね」と黒井に話しかけた。

「だってお前、歌わないって」

「い、いや、お前は歌ったって、よかったのに」

 僕のためだけに歌ってくれるとか・・・ない、か。

「うん、まあ、何か・・・」

 煮えきらない答えを聞く前にノックの音がして、ひらひらスカートの菅野が入ってきた。


 ピンクのかわいらしい傘、先の方だけウエーブした栗色の長い髪、相変わらずぱっちりした目で「元気にしてましたか?」と見つめられ、小首を傾げるから、懐かしいけどやっぱり「はい、お陰様で」なんて言ってしまう。

 黒井は「お昼食べた?ほらほら、座って」と、ソファにあぐらですっかりくつろいでいる。まあ、カラオケも女の子も緊張する要素じゃないんでしょうね。

 しばらくは佐山さんの話とか、うちの課長の話とか、今菅野の席に座っている西沢の話なんかをした。菅野も多少緊張しているのか、勧められた黒井の隣には座らず、僕の隣にちょこんと座る。

 何だろう、両手に花?

 いや、ここがカラオケでさえなければ、ね。

 このまま、歌を歌うなんて行為は忘れて、飲み食いして盛り上がればいいんじゃない?こないだの花見送別会と比べて居心地が悪いこともないし、何となく菅野も黒井も僕を介して会話をするし、うん、でもまあこうしてちょっといい思いをすると、倍くらい落ちるんだろうね。いい気にならないように自分を制して、そのうち菅野が「じゃあ、そろそろ歌っちゃいましょうかね!」とはにかんでマイクを握った。

「よっ、待ってました!」

「きゃあ、嬉しいけど何か古い黒井さん!」

「え・・・」

 菅野が慣れた手つきでタブレットのようなリモコン?を操る間、撃沈した黒井が僕に寄りかかって、「・・・古いってさ、俺」とぼやいた。僕の方はその体温が嬉しいやら、菅野の目が気になるやら。

「まあ、仕方ない。相手は平成生まれだ」

「うっ・・・」

「あ、でもあたし、結構古い歌の方が好きですよ!ほらこれも、昔の入れちゃった」

 そして流れ出したのは、aikoの<カブトムシ>。聴いたことくらいはあるが、これが果たして<昔>で<古い>歌なのかは、黒井と菅野の中間にいる僕にはよく分からなかった。

 立ち上がってマイクを持ち、お腹のあたりに手を当てて歌いだした菅野は、まるで別人・・・ということもないが、何ていうんだろう、歌がうまいとか声が綺麗ということ以上に、とても、自信に溢れていた。部屋の中がすっかり菅野の空気に変わる。まるで舞台の幕が開いたみたい。BGMが流れているのと何が違う?それは菅野の表情や抑揚や、たぶん感情の込め方なんだろう。たぶん何十回も歌っている十八番で、息を吸うタイミングやふっと力を抜くところもみな自然に身に付いている。

 黒井を見ると、フライドポテトをつまみながら、まるで「生演奏なんて贅沢だね」って顔でくつろいでいる。ふうん、このくらいの歌唱力はごくふつうというわけね。

 一緒に口ずさむでもなく、古くさく手拍子するでもなく、かといって曲を選ぶわけでもない僕は、カラオケで人の歌を聴いてる時何をしたらいいのか分からない。

 とりあえず一曲目は何とか乗り切って、最後まで歌いきった菅野に「ヒューヒュー!」と拍手してやった。菅野はおどけて「きゃあー!ありがとーー!」と手を振り、ステージのアイドル気取り。

「わあ、何か緊張しちゃった!ちょっと久しぶりだから、ドキドキするー!」

 顔を上気させて、でも本当に楽しそうだ。これだけうまく歌えたら、そりゃあ気持ちいいんだろうね。

「ちょっとこの調子で、何曲か歌ってもいいですか?ライブのセトリがあと一曲悩んでて」

「・・・せとり?」

「ああ、セットリスト、曲目のこと。四曲歌えて、そのうち二曲はオリジナルで、一曲はaikoで決まってるんだけど、もう一曲が、JUJUにするかYUIかMISIAか・・・」

 ミーシャだけは何となく聞いたことがあるが、他はさっぱり。

「あの、あたし適当に歌ってるんで、食べたり、喋ったりしててください。まあちょっとだけ聴いててくれたら、嬉しいかな?」

「あ、ああ、もちろん。あの、もしよかったら、何か入力、しとこうか?」

 触ったこともない機械でやったこともない作業をしようと、ただ手持ちぶさたゆえに申し出てしまった。やめときゃよかったかな、と思ったが「あ、大丈夫です」と断られた。

「アプリで入れちゃうんで、もう、どんどんメドレーみたいにいっちゃいますから」

「アプリ?」

「登録しといたのがあるんで、これで転送、よしっと」

 菅野は自分のスマホから何やら操作して、部屋のテレビ画面にずらずらと曲目が現れる。まあ今の時代、これくらい出来るのか。早速最初の曲が始まり、例のミーシャの歌。あ、でもたぶん、<everything>しか知らないからわかんないな。

「菅野ちゃん歌うまいんだね」

「あ、いや、まったく」

 一応感嘆していたらしい黒井が少し僕の傍に寄って、ちょっと前かがみで二人して杯を傾け、どこぞのスナックみたい。

「あのさ」

「うん?」

 そのまましばらく沈黙し、二人で画面を見つめた。

 機械はハイテクになってるのに、男女が追いかけあったり、都内のそれっぽい景色がスローモーションで流れたり、背景画面は変わらないんだなあと妙に感心して眺めていた。

「・・・で、なに」

「あ、ううん。何か、さ、こんな風にお前と、それ以外の誰かと一緒にいるのって、あんまない・・・」

「そう、だね」

 それは僕が、意図的に避けてたんだって、知ってた?

 お前と二人きりでいたくて、他の誰かに向けるその笑顔を見たくなくて、・・・「昨日こいつんち泊まってさ、徹夜で語り明かしちゃったよ」だとか、そんな風に軽く形容されてしまうのが怖くて、それで・・・。

 菅野が甘くて苦い恋の歌を一番だけ何曲か歌い続け、だんだんスタジオの収録みたいになってきて、そして、しばらく黙って聴いていた黒井が突然立ち上がってマイクを取り、突然、サビで一緒に歌いだした。

 ろくに見てなくて、誰の何ていう歌かも分からない。でも確か、何かのCMで聴いたことある?

 テレビも見ない黒井はたぶん、知らないんだろう。画面の歌詞を見ながら、ちょっと首を傾げつつ、行き当たりばったりに。

 綺麗にハモって、みせた。

 出だしと同じサビだからって、一度聴いただけで。

「・・・っ」

 菅野が大きな目をぱちくりしながら一瞬声を落とし、しかしそのまま歌い続ける。


<・・・隠してる 秘密の恋心 やっぱり隠してる

 きみはまだ気づいてないね

 本当の気持ち、教えてほしい、けど・・・>


 そんな歌詞の、さわやかなポップ。

 僕の心を言い当てられているような、あるいは、もしあいつもそうだったら、まさか、とか・・・、とにかくそのハモりが綺麗で、胸はとにかく苦しくなった。

 歌は二番に入って、菅野は歌わず「や、やだ、びっくりしました・・・」と目を潤ませている。黒井はさっさとマイクを置いて、「ん、何となくね」と、もう気が済んだと言わんばかり。後ろで画面の歌詞だけが律儀に流れていた。

 何に戸惑っているんだろう。

 自分の感情なのに、よく分からなかった。

 二人に対する嫉妬?居心地の悪さ?でも、いじけてみじめなだけの気分ではない。やっぱり、黒井の歌が少しでも聴けたのが、単純に嬉しかった・・・?

 少し調子を外しながら菅野は次の曲を歌い始めたが、スマホがチリンと鳴って、「あ、ごめんなさい、ライン入った」とのこと。

「あの、今三人新宿に着いたらしいんですけど、合流してもいいですか?」

「あ、どうぞどうぞ、俺は歌わないし、別に」

「いーよ、誰だかしんないけど」

「じゃあちょっとあたし、外まで迎えに行ってきますね。みんな地方から来てて、ここ詳しくないんですよ。ま、あたしも田舎者だけどさ」

「うん、行ってらっしゃい。気をつけて」

「はーい。あ、適当に、歌ってていいですから!」

 傘を持ってばたばたと出て行く菅野を見送って、あとはBGMとしてはそれほど聴き心地のよくないカラオケ音源が流れ続けた。

 僕がいろいろな展開についていけないまま、しかし誰か知らない人が何人来たって、黒井も知らないんだから僕たちは<僕たち>という固まりでそれを迎えればいい、よね、と、ちらと横を見た瞬間、「俺も、ちょっと」と黒井も部屋を出て行った。

 ・・・ああ。

 菅野と一緒に、行っちゃうんだ。

 ・・・。

 イケメンでもリア充でも歌ウマでもない僕を置いて、ねえ、お前がいなかったら俺なんてここにいる意味ないのに、そっち側へ行っちゃうんだ。

 何を思えばいいかも分からないまま一人きりの部屋で曲は流れ続け、むやみに歌詞の太字が左から右に、黙読せよと言わんばかり。ええ、ええ、そうでしょうとも。I just want you to be happy・・・。



・・・・・・・・・・・・・・・



 誰も歌わない曲が流れて、僕はただその無為性が我慢できなくて、でも勝手に切ってしまうわけにもいかないし、しかも無音になったら本当にここにいるのがいたたまれなくなるだろうし、でも書き置きでもして帰ってしまうのも大人気なくてどうしようもないし・・・。

 さっき新宿に着いたなら、五分、いや、十分はかかるだろう。

 ・・・何だよ、もう。

 俺は何がしたいんだ?

 いやいや、落ち着けって。人付き合いってこういうものだし、だからしてこなかったんだし、そして今はやむを得ずしてるんだし、一日ぐらい我慢しろって。

 ごくふつうの僕と、黒井といるときの僕と、菅野といるときの僕と、会社じゃなく私服でプライベートで集まっている三人の中の僕と、そして一人取り残された僕と・・・。たぶんそれで、ぐらぐらしてるんだ。

 だから、嫌なんだって。

 どきどきして、不安で、焦って、落ち着かない。

 ふわふわして、浮き足立って、調子に乗りかけて落っこちる。

 ・・・やっぱり、帰ろうかな。

 いつドアが開くかと緊張したが、でも、ああ、さっき菅野が来た時みたいに、電話が来るのか。だとしたら電話が来るまではひとまず安心なんだ・・・。

 そう思ったらちょっと落ち着いて、一息ついた。

 そして菅野の歌いかけが終わり、次の曲。

 ・・・。

 前奏はなくて、だから突然画面に現れた歌詞を見ただけでは、分からなかった。

 でも、この曲は知っている。そして、ありふれていてさっきまでの曲に混じってしまいそうな歌詞、<愛してる>・・・。

 カラオケの音源はオリジナルとは違うから分かりにくかったけど、これは確かに、藤井にもらったipodの<愛してる>だ。一瞬で、黒井の部屋に通った日々が、そのにおいとともに蘇った。まだ寒くて、おにぎりとサンドイッチと烏龍茶ばかりの日々で、この曲を聴きながら部屋を片付けたり、手が止まって座り込んだり、あのラグで丸まって眠ったりした・・・。

 あらためて文字として歌詞を読み、頭の中では仮想少女の声が流れる。

 うん、そうだよ。分かる。

 <きみに会うまで、何もなかった僕>

 <たまにすれ違って、ケンカしてしまっても、それでも伝えたい気持ちがある>

「・・・愛してる、何があっても、きみとなら・・・」

 口ずさんで、頭の中のそれをトレースしながら、その音と声をチューニングするように合わせていく。あんな高い声は出ないから、たぶん一オクターブ下というやつ?歌い始めたら、急に両手が手持ち無沙汰になって、黒井が放り出したマイクを、握ってみた。いいじゃん、誰も聞いてないんだし、鼻歌と口笛以外で僕が歌を歌ってみたって、何か悪いわけ?誰も歌わない曲が延々流れ続けたって、あまりに非生産的で、見ていられなかったんだって・・・。

「他愛無い電話の会話、それでも、それだけで、嬉しくて・・・」

 立ち上がって、もう、歌ってやった。

 うまいじゃん、うまく歌えてるじゃん。

 聴き込んだ曲だし、歌詞もスムーズに出てくるし、音だってタイミングだって合ってる。

 さっきの菅野を思い出して、息継ぎのタイミングに気をつけてみる。

 調子に乗って、腹に手も当ててみて、ああ、声が出やすくなった感じがする!

 二番の後の、Cメロってやつだって、そこから一段音が高くなるところも、ああ、トレースがちゃんと追いついてる。

 しかも、だって、気持ちが分かるから、それを声に出して歌うなんて、何だか気持ちがいい・・・。

 もうすぐ歌い終わるという頃、突然、ドアが開いた。

「・・・っ!」

 慌ててマイクを口から離し、お、オフ、オフ、オフ・・・!

 親指を必死に動かして、曲も止めようとするけど、止め方が分からない。なに、この、画面のやつ、どこ押せば止まるの?っていうか、電話、電話まだ来てないのに、え、何で?

「おい、お前・・・」

「ご、ご、ごめん」

 なぜだか謝って、焦りまくって、黒井の後ろからぞろぞろと、「え、彼、歌わないんじゃないの?」みたいな顔が覗くのを奥歯を噛んで待ったけど、・・・誰も現れなかった。

「え、え、えっと」

「お前、さ」

「な、なに」

 もう声も裏返って、悪いことをしたわけでもないのに、心臓は跳ね上がっている。

「何で、そんな」

「・・・へっ?」

 黒井はそこでドアを閉め、次の曲の前奏を、画面の下の装置のボリュームをひねって消した。ああ、そういう直接的な方法があったか。

 そして、黒井は正面から僕の肩に手を置いて、大真面目に、「・・・どうしてそんな<愛してる>なの?」と、言った。

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