第184話:ホテルでご歓談

「オールもきつくなったなあ・・・」

「帰って寝れば」

「やだ」

「なんで」

「二十代最後だから・・・うおっ」

 自分で言って身震いして、腕をさすりながら「ほんとに?」と自問する。「自分で数えなよ」とポケットに手を突っ込む僕は、ちょっとだけ嫉妬。友達とオールで遊び歩くなんて、したことないんですけど。

 地震のせいでいろいろと、二人で慎重に、その感覚だけを頼りに積み上げたジェンガがどさっと崩れて、結論だけは胸にとどめてあるけど、気持ちは中座してしまった。とりあえず外に出て、代々木方面にぶらぶらと歩く。コンビニを渡り歩いて、黒井が気に入る朝食を探している。

「あ、ローソン」

 おにぎり、弁当、パスタ、パン、カップ麺、からあげクン・・・、しかしどれもぴんとこないらしい。暑くもなく寒くもなく、天気は曇りから、雨が降りそう。僕は食欲なんかなくて、熱いのも冷たいのもコーヒーすら飲む気がしない。

「あー、これかな、ピタサンド?でもそれならチーズが入っててほしいんだよ」

「あっそう。じゃあスライスチーズ買えば」

 僕は十勝の8枚入りチーズを手に取る。

「え、自分でメイクしろって?うーん、でも俺が言ってるのはさ、ほら、もっとオレンジのチーズ」

「ああ、チェダーっぽい」

「そうそう、それかも」

「ふうん。チーズが好きなわけ」

「うん。好き」

 そのまま、俺も好きなわけ?って訊いてしまいたいけど、「何それ?」じゃなくて「うん。好き」って言われても立ち上がれなくなるから、やめた。いや、そんなのまずいし、っていうか昨日の今日で、ちょっと思い上がりすぎだし・・・。

「お前は眠くもないし、腹も減らないの?若いってこと?」

 総菜を眺めながら黒井が訊ねる。

「別に、そんなこともないけどさ。・・・もう、年のこと忘れたら?」

「・・・お前が三十になるとき、もう、すっごい、すんごい、この世のものとは思えないくらい、いじめてやる」

 はは、と僕は苦笑いしたけど、果たしてその時、今みたいに一緒にいるのかって、分からないから苦いため息も漏れた。僕たちのアトミクが見切り発車ながら今日始まったけど、始まったってことは、進むってことは、どこかにゴールがあって、終わるってことだ。ぐだぐだとだべってどこにもいかない昔なじみなんかじゃなくて(そんなのいないけど)、お前が進むことを望むから、だからこそ僕も一緒にいるわけで、ならいつか終わるのも必然なわけだ。映画が始まった五分で二時間後を憂いても仕方ないけど、さすがに、二年後、どうなのかな。

「あ、ヘコんでる?反省した?」

 僕の肩に手をかけ、頭をぐしゃぐしゃと撫でる。他の誰であってもそんなことされたらキレそうだけど、お前だったら、嬉しいばっかり。

「した、したよ。でもその頃お前は三十二なんだからさ、もっと成長して丸くなって・・・いてて」

 そのまま髪をつかまれて、引っ張るなって!

「もう、年のこと忘れよう。な、ねこ」

「いや、だからそれ、さっき俺が」

「はい次」

「え?」

 そのままこちらを見ずに、出ていってしまう。え、また次のコンビニ?まあ、いいけどさ。



・・・・・・・・・・・・・



 結局食べたいものは見つからないまま歩き倒し、ああ、これって原宿から、渋谷に着いてしまいそう。どうして新宿から渋谷まで朝から行軍してるんだ?おまけに小雨が降り出して、僕は疲れて、雨宿りがてらファミレスかマックにでも入りたいけど、黒井は年のことをあれこれ言うわりに元気に歩いていた。

 こんな風に、何もなく、泣きわめきもせず、感極まって何かしちゃったりもせず、ごくふつうに会話するのは、よく考えたらものすごく久しぶりだった。どうして僕たちはいつも切羽詰まって、死にそうな顔でお互いをぶつけあってるんだろう。

 コンビニでトイレに入ろうとして、あまりに汚くてやめた。少し歩いたところの、スタバの入ったオフィスビルで入ることにする。そういうところは店舗が開いていれば部外者でも入れるし、トイレも、スタバ店内じゃなくビルのトイレが使えたりするんだ。

 トイレについては一家言も二家言もあって、客先でも外回り中でも、入ったら常に格付けチェックが始まる。ちなみにうちの会社のはBプラス。

 パーカーの裾の紐がぷらぷらと長いし、ビルが蒸し暑かったから、黒井に上着を預けてトイレに行った。こんな何でもないことすら、「これ持ってて」って一言に緊張したりしてしまう。手渡して、ただ「うん」と受け取って腕に掛けて、ただそれだけの気安さに、腹がひゅうと透けた。

 しんと静かな休日のビルのロビーで、スタバの窓のへりに寄りかかる黒井を少し離れたところから振り返り、俺たち今、二人でいるんだ、と胸が熱くなった。


 トイレを済ませて柄にもなく鏡とにらめっこして、口をゆすいだり、顔を洗ったり、髪を直したり(ふつうは気にする順が逆か?)、いや、だって、これってもうデートじゃない?もうちょっとオシャレしてくるんだった、というほどオシャレな服も持ってないけど、うん、気になり始めたら上から下から、全部が野暮ったく見えてくる。黒井と一緒に外を歩くのは楽しいけど、ほぼ似たような格好なのにあいつが着ればよれた服もビンテージの古着に見えるし、まったく不公平極まりない。ちょっとでもオシャレされた日には、隣を歩いても誰からも連れだと思ってもらえないだろう。だからって僕がめかしこんだってまったくどうなるものでもないけど・・・。

 少し遅くなったかなと思い急いで戻ると、見えた途端、にこやかに手を振られた。思わず照れて頬がゆるみ、しかし、何だか違和感。

 ・・・何か、喋ってる?

 聞こえないよ、って顔で小走りになり、近づいてようやくそれが見えた。

 ・・・電話、だ。

「えー、別に全然いいよ、今日空いてるしさ。うんうん、たぶん分かる。いやー、マジ久しぶりだねー」

 ゆるんだ頬が一瞬でこわばるのが分かった。岸壁のような無表情を張り付けて、僕は少し離れ、ビルの外の空模様をうかがう振り。別に、晴れようが土砂降りだろうがどうでもいい。へえ、今日空いてるんだ。ふうん、これからどっか行くわけ?GWの予定は任せるとかメールもらいましたけど?僕がこれからどこどこ行こうよって誘ったらどうする気?

 俺用事思い出したから帰るわって、電話中でも言ってやろうと、もう喉元まで出かかった。毎度ながら誰もがどん引きするような嫉妬。可愛い女の子の焼きモチとどこが違うんだろうね。まあ、全部か。

 三千年の恨みかって勢いで空を睨みつけていたら後ろから足音がして、「雨、どう?」なんて。知ってても教えてやらないし、っていうか見れば分かるでしょ?

「あー、ちょっと降ってきたね」

「・・・」

「でも、どうしよっかな。ちょっと時間ハンパだなあ」

「・・・」

 どうぞどうぞ、何でも勝手になされば?俺、帰ってすごい大事な用事あるからさ。洗濯とか、洗濯とか・・・乾燥とか。

「・・・ねこ、何かあった?あ、もしかして怒ってる?」

「・・・」

 顔のぞき込むのやめてくれる?

「いや、その、ごめん」

「別に、何も怒ってない。全然、なにひとつ」

「ごめんって!だって、もう別にいいかと思って・・・だめ?お前は、こういうの嫌か・・・」

「嫌とかないから、どうぞ、好きにすれば」

「やっぱ怒ってんじゃん!」

「怒ってない」

「怒ってるよ!」

「しつこいよ。俺のことなんか気にしないで、どこでも好きなとこ行ったらいい」

「そう?・・・じゃ、新宿戻ってさ、時間、あるし・・・」

 そのようですね、いや、存じ上げませんけど。

「もう、機嫌直してよ」

「直すものなんかない」

「ホテル、行こ?」

 ・・・。

「俺、いいとこ知ってるから」

 肩を抱かれてビルを出て、大通りに出たら新宿行きの黄緑の都営バスが通りかかった。「あれ、あれだ!」と黒井がダッシュする。バスが信号で止まり、しかしバス停は僕の視力ではまだ見えない。「早く!走れ!」・・・さて、帰る?問いただす?・・・ホテル?頭は三叉路に立たされ、意志決定がどちらにも傾けないでいる。そこに走れと明確な目標を示されて、バスを振り返りながら、もう、知ったことか!お前なんか追い抜いてやる。お前のスエードの靴より僕のナイキのスニーカーの方が速いに決まってる!



・・・・・・・・・・・・・・



 バスの一番後ろの席に座り、しばらくは二人とも、息も絶え絶えだった。黒井が僕の手を自分の心臓に当て、うん、結局ぎりぎり追い抜けなかったし、怒りを忘れてつい嬉しくなっちゃう自分が情けない。

「はあ、はあ、やばい、鉄の、味、してる・・・」

「・・・絶対、バス停ひとつ分、くらい、走った。・・・むしろ、ひとつ前、戻って次、待った方が、早かった」

 座席にだらしなく座って、手のひらを出されるから力なくパン、とタッチした。そのまま握られて、「ホテル」の三文字がピンクネオンになって頭に点滅する。や、やだよ、そんな、誰かとの約束の時間つぶしで、そんなとこ・・・。

 ・・・その気、なの?

 少し汗ばんだ手を引き剥がして、気を紛らわすために携帯を見た。メールが来ていて、菅野からだった。


<突然ほんとにゴメンナサイ!場所はさっき言ったとこで決まりましたので、13時に行きますね♪先に入って、お二人で歌ってても全然オッケーですから(笑)>


 うん、突然って何のこと?

 僕が何度か読み返していると黒井がのぞき込んできて、「あ、そうしよっか」と。

「え?」

「先に入ってて、って」

「どういうこと?」

「だから、さっきの電話」

「・・・電話、菅野さんだったの?」

「そうだよ」

 カーブで揺れて、少し熱くなった身体がこちらに寄りかかる。菅野だって十分嫉妬の対象だけど、でも元々明日約束してたんだし、それに<お二人>ってのは僕と黒井のことなんだろうし・・・そして僕の嫉妬は熱湯に入れた氷のように溶けていって、黒井の熱が残った。何それ、でも勝手に「空いてるから」とか言って、まだ俺、怒ってるから・・・。

 僕がパタンと携帯を閉じると、「あ、ごめん。だってさあ、つい」と黒井が決まり悪そうに謝った。

「え?」

「勝手に見て悪かったって。はいはい、どーせ踏み込みすぎだよ。プライバシーでしょ?」

「な、何言って」

「お前そういうの気にする、じゃん?でももういいかなって、だって電話とかかけたりかけ直したりしてると面倒だし、その、もしお袋さんとかだとしたって、別に俺、どーもって挨拶すればいいし?」

「は、はあ?」

「わ、分かった、もう勝手に電話出ないって」

「あ、ああ、電話、こっちに・・・」

 トイレ行って、預けてたとこに、かかってきたのか。そうか、お前のスマホじゃなくて僕の携帯で話してたなら、相手はお前の知り合いじゃない・・・。とんだ勘違いだ。

 うん、カラオケの予定・・・突然ゴメンナサイって、今日に早まった?っていうか、13時って、ああ、これからなの?それで時間が半端だって?

 ・・・お袋に、どーもって挨拶?

 もう、混乱してきた。何だって?

「あ、その・・・俺のは」

「へっ?」

「別に、勝手に見ていいからね。アプリとか、あんまないけど、遊んでいいし・・・」

 そう言って、スマホを取り出してもてあそぶ。何だよ、勝手に電話に出たことを俺が怒ったと思って、謝ってるの?いや、そこじゃないよ。そりゃ、お前からのメール保護してるの見られたらやっぱり恥ずかしいけど、でも、もう、別に・・・。

「あの、怒って、ごめん」 

「・・・やっぱり怒ってた」

「うっ」

「・・・気をつける、から」

 ぽつりと言うので、もう胸が痛い。僕は「いい、よ。いいって・・・」とそれだけしか言えず、そして、「あ、この辺」と促されてバスを降りた。



・・・・・・・・・・・・・・



 ここはどう見ても都庁の真ん前で、こんなとこにラブホなんかあったかな・・・って、一瞬でも考えた僕は恥ずかしいやつだ。小雨降りしきる中階段を上がって、連れて行かれたのは<ハイアット・リージェンシー>だった。ホテル、・・・うん、ホテル、ね。

「ここ、いいでしょ?」

 そう言って天井を見上げる。つられて見ると、ものすごいシャンデリアが三つ。ロビーには一人掛けの椅子が並んで、奥には立派な生け花、いや、黄緑が芽吹いた小さな樹っていうか?

 その前で観光客らしい外人が写真を撮っている。見れば、周りは外人だらけ。くそ、こんなとこでは僕のパーカーとスニーカーが浮いて、黒井のシャツと靴がなじんでいる。

 二つ空いた豪華な椅子に腰掛けて、何だか、ぼんやりとしてしまった。そこここで外人が握手をし、ハグをし、家族連れが英語で団らんしている。まるで僕たちの方が外国に来たみたい。

「俺さ、時間あるとき、よくここでぼうっとしてんの」

「ふうん、こんなとこで?」

「うん」

 僕は工学院の隣のビルのテラス席だけど、うん、お前にはこういうのが似合うね。上品で、重厚で、ちょっとエキゾチックな雰囲気が。

 そうして僕たちは、観光に出かけていく家族やカップルを次々と見送り、商談に訪れたらしい中東系の集団を見守り、騒がしい中国人たちが過ぎ去るのをじっと待った。


 黒井は椅子の肘掛けに手をおいて、リラックスして足を組んでいた。それを横目で見ていたら、何だか僕が隣にいるのが場違いなような気がしてくる。っていうか、お前がただの会社勤めをやっていて、営業の合間にここで一服してるっていうのが、何だか間違ってるよ。お前はここにいる外人たちみたいに、世界を飛び回ったり、何かもっと大きなことをするべきだ。僕みたいなやつとつき合ってたら、そんな機会を逃してしまうんじゃないか。しかしそう思う反面、お前を手放したくなくて、行くな、行くなと縛りたい僕がいる。

 うん、その覚悟は、お前が失った何かを取り戻した後で、いいか。また先延ばしにしてるだけだけど、とにかく今は、アトミクを始めて、そしてそのゴールへと向かうんだ。

「あのさ」

「うん」

「あの・・・アトミクの、ことだけど」

「・・・うん?」

 黒井は足を組み替えて、何となくにやけた。

「な、何だよ」

「いや、何かさ・・・お前が発音すると何となくかわいいし、それに」

「・・・なに」

「今朝のことなのに、ずっと昔のことみたいに感じない?」

「・・・それは、確かに」

 高い天井と外国語のざわめきのせいで、声の響く感じや話す雰囲気まで変わるから、余計にそう感じた。

「もう、昔からそれをやってるみたい・・・でも、何してたかって、思い出せないけどね」

「・・・ああ」

 これからどうしたらいいかって結局ずっと思いつかないわけだけど、ふうん、もうやってきたこととして<思い出す>という発想も、ありなのかな。

「でも、アトミクなんだから、そりゃ原子に関わること、だったよね?」

 思い出すという設定に合わせて、言ってみる。黒井も察して、「あ、ああ、うんうん」と少し笑い、ぽんぽんと自分の膝をリズミカルにたたいた。

「そうそう、原子を、どうにかする・・・」

「どうするんだっけね?」

 少しおどけて訊くと「えーとね、たぶん、まあ・・・」とゆっくり天井を仰ぎ、しかし鳥みたいにぱっとこっちを向いて、「感じるんじゃない?」と。

「え・・・、か、感じるの?体感しちゃうの?」

「はは、たぶん、そうだったような?ほら、そういうの出来るのって、俺たちしかいないし」

「あー、そっか、そうだっけ」

 二人とも半分鼻で笑いながら、でも隣に外人の集団が来て、<カンファレンス>だの<マセマティクス>だの<ドクター>だのアカデミックな空気が漂って、<フィジカル・レビュー>の一言をぎりぎり聞き取った僕は黒井と顔を見合わせた。ポロシャツやチェックのYシャツの男三人と、大きく胸のあいたタンクトップのブロンド女性が一人。日本ではおよそ教授陣には見えないが、ダブルクリップで留めた分厚い資料を腕に抱え、やはり何かの会合に出るようだ。

「あー、えーっと、俺たちの、次のカンファレンスはいつだっけ?」

 黒井が耳だけ向こうに傾けて、スマホのカレンダーを妙にかっこつけてタップする。僕は笑いをこらえながら、「あ、それね、確か週末に予定されてる」と。

「だよね、うん。えっと、何のテーマだったかな・・・」

「ドクタークロイが、水素原子を体感するのを・・・実演してくれるって」

「ぷっ」

「・・・いや、インデックスにはそう出てたよ。目の前で、酸素と混ぜて、飲んでくれるんだって」

「・・・っ、ああ、そう。でもそれ言うならさ、ドクターヤマネコなんか、ヘリウム吸い込んでくれるって」

「・・・っ、くそ、じゃ、じゃあ、ドクタークロイはリチウムを・・・」

「あ、それなら知ってる。リチウム電池で、何か動かしてくれるんでしょ?あの人、遊び心があるよね」

「へえ、そう!でもドクターヤマネコなんて、本体が炭素なんだって!すごい体感だね!」

「だめだめ、いろいろ抜けてる。次はベリリウム!」

「だ、だってベリリウムって何?何の物体?」

「何のって、何もなにも、ベリリウムはベリリウムじゃん」

「っていうか元素と原子は違う?」

「元素と分子も違う?」

「元素と原子と分子と量子と素粒子と・・・」

「俺たち理科からやり直し?」

「・・・かな?」

 笑っているうちに、ユニバーシティのPh,Dたちはキャリーバッグを引いて出かけてしまった。

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