第323話:冷たいものに触れない症候群
十月二十日、月曜日。
朝、コーヒーを飲みながらゆっくり腕時計をつけて家を出ようと思っていたのに。
どうしてか昨日から、ドアノブも、水も、冷たいコップも、手がひやっとするものすべてに触れない。いや、どうしても触らなくちゃいけないものは触るけど、手がどうしても拒否をする。
服も、そうだ。寝間着を脱いで冷たいアンダーシャツを着るのが嫌で、しばらく布団の中で温めてから着た。肌に直接、冷たいものが触れるのがだめみたいだ。
最初はまた風邪をひいて寒気がしているのかと思ったけど、熱はない。その前兆でもない。
コーヒーは諦めて、腕時計は文字盤の裏側に息をかけ、手のひらで少しずつ温めてからつけた。
文字盤を傷つけないようにシャツの袖にしっかりとしまい、右手で守るように覆いながら電車に乗る。そしてやはり冷たい銀の手すりがだめで、吊り革の上のバンドみたいな部分をつかむ。潔癖症とまではいかないけど、握れないんだよね、吊り輪。
何となくふわふわした気分のまま会社に着き、朝礼。黒井の後ろ姿を見たら、身体の時間が止まる。でも支社長の訓示は進み、会社は営業を始めていて、何だかおかしな感じだ。僕たちはここで何をしてるんだっけ?こんなオフィスに何十人も集まって、僕はクロとの時間を過ごしたいだけなのに、いったい何の会なんだっけ。
さすがにディズニー以前の金曜日の記憶は薄く、頭を掻きつつ先週のふせんをたどる。書類をあっちこっちやりながら、ふとシャツの袖から銀のつまみと縁、黒の文字盤の一部が覗けば、微笑みが漏れた。もしかして背後の三課でも・・・と思えば、また。
そうこうしているうちに、内線が鳴って、ジュラルミンの時間。
にわかに緊張して、しかし、目配せをして「一緒に行こう」とは、出来ず。
三課は見ないまま直角に、廊下へのドアに向かう。
・・・あれ。
また、寒くなった。
思わず自分の腕をさする。
・・・クロから、離れたから。
一メートル、一メートル、離れていくのを意識したら、何だか寒い・・・。
そして、ドアの前。カードキーはかざせるけど、銀のノブを触るのが、嫌になってしまった。どうすりゃいいんだ、ハンカチで握る?犯行現場の犯人とか探偵じゃないんだから。
そうしてドアの前でぐずぐずしていたら、後ろから肩を叩かれた。・・・いや、ポンと叩かれたその手は左肩にしばしとどまって、「何してんの」と甘い声。
「・・・っ、いや」
その顔は見ないまま、目の前に伸びてきた手がピッとキーをかざし、勢いよくドアが開いた。僕は「ピッ」もしないまま黒井の後を追い、ドアをすり抜けた。
・・・・・・・・・・・・・・
受け渡しの判をもらうバインダーを脇にはさみ、手を擦り合わせて温め、また時計の左手首を右手で押さえる。
廊下の先を、黒井は大股でゆったり歩いていた。組んだ両手が天井へ上がって伸びをし、ぶらんと元に戻る。少し広めの肩幅、細めのズボンのせいで余計スタイルがよく見えるんだ。
小走りで追いついて、その、左腕。
肘の少し上あたり、胴体との隙間に手を入れて、その腕をつかんだ・・・というか、ひっついた。
「んんっ?」
「・・・」
「なに、ねこ・・・」
・・・何と問われても、答えられない。
えっと、何だっけ、とにかくクロがいたから寄っていった・・・。
腕を組むというか、しがみつくような勢いでくっついていると、そのさらっとしたシャツの下の体温が感じられる。薄い水色というのが寒々しくていけないけど、脇の下に近い腕は温かい。
「・・・どうした?・・・まさか具合悪い?」
「う、ううん」
そして黒井はちょっと訝りながらも、微笑みを交えて「・・・なんだよ?」と、それはまるで猫撫で声。
・・・ああ、甘い。あったかくて、あまったるい・・・。
しかし裏口へのドアを開け、黒井は躊躇なくその次のドアも開けてしまうから、向こうに人がいて僕は慌てて手を離した。
「あ、お世話になっておりますー」
今日はいつもの配送担当原西氏ではなく、たまに来る八百屋のようなおっさんで、黒井は何も動じることなく「あ、どうもー」。僕は無言で会釈しながらバインダーを渡し、もう冷えてきた両手の指先をまた擦り合わせた。
受け渡しのやり取りが終わり、オフィスの廊下とはドアで隔たれた空間に、二人きり。
「・・・やまねこ?」とあらためて顔を覗き込まれるけど、僕は横を向いた。腕にひっつくのは躊躇なくできたのに、本人とコミュニケーションするのは照れるし、もうよく分からない。
「ねえ、どしたんだよ、さっきから」
「・・・」
そうやって、ちょっと首をかしげて、眉根を寄せたり口角を上げたり、ああ、クロってこんな顔だっけ。目も鼻も口も、まったく特徴のない総合的イケメンフェイスなんだ。こうして見ると、僕はクロの顔よりも身体のいろんな部位やシルエットの方が見慣れているかもしれない。
「ねーこ?」
「・・・っ」
「何だよ、・・・ん、キス?」
目を細めながら顔が近づくので、僕は一歩引いて慌てて首を横に振った。そ、そうじゃない!
黒井がぱちぱちと瞬きをして僕を見るので、どうしよう、何か言わないと。
「・・・な、なんか」
「うん?」
「・・・さむくて」
「えっ、なに、風邪?」
「ううん、違う・・・。手が、なんか、急に、いや、わかんない・・・」
「うん?どういうこと?」
「なんだろう、自分でもよく、・・・どうしちゃったんだろう」
両手を擦り合わせて、それを胸の前で抱えるようにして、何だか、告白直前の女子みたいだ。
「具合が悪いのとは、違う?」
「・・・うん、たぶん」
しかし、言いながら、手が冷えるような感覚とはまた別の違和感に気づいた。
・・・僕が、自分の体の不調らしきものを、素直に口に出している。しかも、その正体もよくわからないのに、それをきちんと説明しようとしていない。自分の中で理屈を咀嚼してから打ち明けたり相談するのじゃなく、ただ、何となく、喋っている・・・。
どうにもまずいような気がして、僕は「行こうか」と、ジュラルミンを持とうとした。
でもその銀の取っ手がやっぱり冷たそうで、手を引っ込める。
「・・・手が痛いの?」
首を振る。
「なんか、怖いの?」
首を振る。
「・・・持ってほしいの?・・・ねこ、俺に、甘えてるの?」
首を・・・。
・・・あれ?
・・・・・・・・・・・・・・・・
黒井はジュラルミンをオフィスに持って帰ると、すっと左腕を伸ばして曲げ、腕時計を見て「あっ、俺行かなきゃ」と出かけて行った。それから僕は一人で中身を開けて、今更ながらに、ああ、黒井は今まで腕時計をつけていなかったんだ、と思い当たった。スーツも鞄も靴もソツなく揃えているくせに、実用的にもオシャレ的にも、またビジネス的にも大切なアイテムである腕時計をしなかったのは、何となく、時間に縛られたくなかったからだろうかなんて考えてみる。そしてそれを今つけ始めたのは、・・・<もういいんだ><ここでいい>というやつなんだろうか。
それからキャビネ前で佐山さんと島津さんと、ディズニーの思い出に浸るかと思いきや二人ともわりとドライで、今後件数の増えそうな面倒くさい契約の件。ああ、そうそう、やたらあっちこっち面倒な割に益がない、あのキャンペーン、そういえばそんなのあったっけ。
自席に戻ったら、メールで三回目の新人同行を確認。相手は、夏の歓迎会の時<女子会>よろしく二人だけで盛り上がっていたの女子のうちの一人。まあ決まったものは仕方ないし、なるべく最小限で済ませる以外にない。
電話を受けていくつかスケジュール調整をし、案件のランクを修正して、外回り。会社という営みを自分の真ん中にセットしてしまえば、まあ、いつもどおりのルート営業だから、それなりにこなすことはできた。キャンペーンがどうの、同行がどうのと文句は出るけれども、基本的には入社してからずっと同じことの繰り返しだから、やればやるほど経験値が増えるばかりで、まあありがたい。自分の中の状況が目まぐるしく変わる今、いや、今年なんかは、特にありがたいと思った。
帰社して、西沢からタレントだかアイドルだかの女の子の好みの話と、横田から我が社のストックオプションがパーになるらしいという不穏な話。どちらも一ミリも興味がわかないけど、「俺、今ちょっと両想いの恋人が出来てしまって、それどころじゃないので」などとは言えないから、興味深そうに拝聴した。
・・・・・・・・・・・・・・
何だかぼうっとしたまま火曜日。あのジュラルミン以来黒井を見ていなくて、冷たいものを触れない症候群も少し落ち着いている。少し早く終わったら一緒に帰りたいと思うのに、こういう時に限ってグループ長から微妙に大変だけど取りやすそうな案件をまわされたりして、時間が取れない。
・・・甘えている、か。
僕は黒井に、甘えている、いや、甘えたがっているのだろうか。
義務を果たさないまま弱音を吐き、うまいこと言って、あるいは言いもせず周りに手伝ってもらうことを「甘えている」と呼ぶんだと思っていたが、・・・僕のこれは、何なんだろう。
八月にクロに告白されて、二ヶ月も経って僕も告白をして、何かが結実して成就したわけだけど、・・・その変化は水面下で行われているようで、表面の僕は腕時計を見てじんわりとその満足感や優越感に浸ったり、妙にそわそわしたりするばかりだった。
・・・・・・・・・・・・・・
水曜日。
昨日から降り出した雨は本降りになって、せっかくノー残なのに、今日はどうなるだろう。
朝、例の新人同行の女の子が事前の確認に四課の島までやって来て、まるで芸能人が<楽屋にご挨拶に伺う>みたいな慣習になっているらしい。「えっと」と「あのー」を遮らないように相槌を打ち、やっぱり飯塚君がいいなあとか、可愛い菅野が懐かしいなあなどと失礼なことを考えながら確認作業を終えた。
そして女の子が新人の島へ帰っていき、ひと息ついて、手元の資料を見る。
・・・って、これ、今あの子が持ってきたものじゃないか。
手間だけど返しに行かなきゃと腰を上げ、ああ、待ち合わせのとき相手の顔が分かるようにするための<楽屋ご挨拶>でもあるのに、全然顔を覚えてないやと思いながら一番遠い島へと追いかける。あのちょっと堅太りのポニーテールだよな、と早足になった時、ふいに、横の島から飛び出してきた誰かにぶつかった。
「あっ、すいませ・・・」
「・・・っと、ごめ・・・あ」
黒井だった。
「あ、ご、ご、ごめん」
急に何て言っていいか分からず、とにかく手を上げて謝る僕。振り返った黒井は「え、ああ・・・」と放心気味で、「じゃ・・・あとで」とはにかんだ笑みで去っていった。
ああ、びっくりした。
そりゃ、同じオフィスで、隣の島で働いてるんだから、こんなこともある・・・けど、朝から好きな人に・・・こ、恋人に会ったという喜びと、このオフィスでそれを誰も知らないというスリルや刺激と、そして、この自分にそういう相手がいるという優越感と。
・・・っていうか「あとで」って、今日のノー残のことかな。
僕はすっかり足取りも軽くなり、女の子に「これ、忘れていったよ」と爽やかに(自分的には)告げて、ゆっくり四課に帰った。横目で見ると、三課の席に戻っていた黒井は何やらてきぱきと仕事をしていて、クロが仕事をしているなんてかっこいいなあなどと馬鹿なことを思いながら自席についた。
・・・・・・・・・・・・・・
夕方、外回りの最後で<終わったらローソン待ち合わせ>とメールが来て、ようやく二回目の銭湯に行けるだろうか、しかしそれを想像したら風呂に入る前から顔が赤くなりそうだった。
・・・は、裸を、その全裸を見るなんて、やっぱりどうかなってしまいそうだ。
そんな想像をしてしまったら仕事に身が入るはずもなく、何度も契約書と明細を読み返す。まったく、<お互いの裸が見れるから>銭湯に行こうなんて、よ、よく考えたな。男女ではこうはいかないところだ・・・。
い、いや、男女なら、ラブホに行けばいいだけか。
えっ、いやだから、僕たちはあくまでプラトニックな関係であって・・・。
・・・下半身がちょっとまずい感じになってきて、色気もへったくれもない契約書に目を戻し、欲情という言葉すら忘れそうな相手先の担当者にそれを渡して、今日の山場は終了。・・・仕事の山場はね。
帰社して、あえて三課は見ずに契約の後処理をし、一式を佐山さんに渡す。離席ついでにグループ長に捕まったけど、全部明日でも間に合うことだったので「ハイ了解ですオッケーです」とそそくさと切り上げ、いやいや、今日は忙しいので・・・!
そうしてようやく仕事を終え、19時前。
どきどきしながらローソンに向かい、先に来ていた黒井の姿を見たら、頬が緩むのを止められなかった。いつもなら緊張でゲシュタルト崩壊を起こし、近づいていく足が止まりそうになって軽いめまいすら起こしそうになるのに。
今日は、何だかもう、嬉しくて駆け寄っていった。その存在がやっぱりあったかくて、ぬくもりに触れたくて仕方がなくなってしまう。
「クロ!お、おつかれ」
「よう、おつかれ」
行こ、と背中に手を回され、少し押される体温に、至福を感じた。どうにか意識を取り戻し、「な、何だよ、急いでるわけ?」と問うと、「まあね」の答え。
そして、「今日は・・・俺んち寄っていって」と。
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