第3話:居酒屋「みつのしずく」へ
「五千円札くらいすっと出てこないかね」
「いや~、出そうもなかったね。っていうか、入ってなかったね。五百円なんか、百円玉だしね」
夜、八時前。本社から来た黒井と西口で待ち合わせて、件の居酒屋に向かった。
僕はといえば、午後もずっと上の空だった。会議と資料づくりと顧客情報整備作業で、何度となくミスをしながら必要最小限だけを終わらせて、手伝ってほしそうな何人かの視線を無視して出てきた。何となく、忘年会の下見の付き添いなのだという説明はしなかった。はしゃいでるように見られたくなかったし、どうせ、別に、それだけなのだ。つまり、またその場限りの突発的なイベントであり、居合わせた者だけが翌日顔を見合わせてクスクスとして終わり。そういうイベントに自分なんかがたまたま参加できたところで、何だかいい気になっても、その後は「黒井さん」が忘年会を仕切って、すべては予定調和だ。たぶん今日誘われたのだって、他にいなかったという、ただの消去法だろう。だから僕は、わざわざ忘年会にまつわる詳細を聞いてみたりはしなかった。僕が知らないままですべては決まって、終わっていくのだから。
「だからさ、悪いんだけど四千円超えたら自腹になっちゃう」
「いいよいいよ。俺そんな、飲まないし」
「そうなの?」
「うん、別に。黒井さんは?酒豪?」
「いやいや。ってか、黒井さんってやめてよ、そんな」
「え、そう言われても」
「そうそう、やまねこと黒犬でいいじゃん」
「黒犬さん?」
「うーん。あ、そうだ、そのお前のじいさんちの犬はさ、名前何だったの?」
「え、あー・・・」
「あ、ちょっと待って。それ分かるわ。俺分かる。・・・クロでしょ」
「そうだ、った、かな。あ、たぶんそう」
「じゃあそれで」
「それでって?クロ?・・・じゃあ、クロさんで」
「クロさん。いいね、何か刑事っぽい?地道な感じ?」
雑踏にまみれて、距離が少し離れた。オフィスの廊下でなく外を歩くと、人に歩幅を合わせるのは難しいことだと気づく。彼は僕より少し遅い、というか、余裕がある。きっとこういう色々な事態やイベントに場慣れしているんだろう。僕なんか、会社の人と二人でマック以上のところに入ったこともないのだ。
・・・・・・・・・・・・
居酒屋を目指して、どれくらい歩いただろうか。徐々に人通りは少なくなり、雑居ビルの雰囲気が怪しくなり、やがて会話は途切れた。
黒井は何度も印刷した地図をにらみ、通りを何回か往復して、ようやく安っぽい小さなネオン看板を見つけた。
「ここ・・・?」
「住所は合ってる」
「本当に、その、何だろう、俺らの会社の忘年会向き?」
「違うだろうな、明らかに」
風俗とか、犯罪(麻薬その他)とかではない、しかしアングラな空気。怖くはないが、異様な感じ。僕は肘で黒井をつつき、無言で首を横に振った。万が一、内装がどれほど小綺麗でコスパがよく料理が美味しいとしても、こんなところに四十人からサラリーマンがぞろぞろ連れだっては、浮きまくる。今の僕たちだって十分ににアウェー臭がぷんぷんしているのだ。
「まずいか。まずいかな」
「まずいよ」
「ナシか」
「ナシすぎるよ」
「どうしよう」
「どうしようって、下見だろ?本番でこれはないんだから、律儀に下見したって意味ないよ」
黒井はもう一度地図兼クーポンを取り出し、僕にも見せた。僕はこうして路上に立っているだけでも居心地が悪くてしょうがなかったが、仕方なく見るだけ見た。
「蜜の雫、新宿店、クーポンサービス・・・忘年会ご予約お早めに・・・美味しいお酒でワイワイ騒げる・・・今なら飲み放付でコース30%オフ・・・」
僕はもう一度黄色とオレンジのネオン看板を見る。「みつのしずく」とPOP体のひらがなで書かれた店名の後に小さく矢印が斜め下へ続き、「B1」の文字。
「・・・同姓同名じゃね?」
「いや、住所はここなんだって。ほら、番地が」
「あ」
そうこうしているうちに、まさにその地下階段から人が上がってきた。呼び込みだろうか?ネクタイなしのツヤツヤした黒シャツ姿の、金髪唇ピアス男。
「お兄さんたち、ふたり?」
僕たちはめいめいに「あ、いや・・・」とか何とかつぶやき、目を伏せた。
「あ、そういうんじゃないんだ?」
金髪がこちらに歩み寄る気配を察して、黒井が「いや、すんません」と手を軽く挙げ、僕の肘を取って歩き出す。何かされるという空気ではなかったが、とりあえず、新宿大手オフィスビルサラリーマン5年目の僕たちとは異なる世界だ。
背中から、夜の街角とも思えない大声が追ってくる。
「ごめんねー!!その気になったら、また来てよ!!」
彼にとってはここがホームグラウンドであり、庭なのだ。直後に別の場所から、女の金切り声で、「みーちゃんうっさいよ!!」
かくして僕は黒井に腕を取られたまま早足で元来た道をたどり、みーちゃんの世界からいつもの新宿へ帰ってきた。見慣れた景色に囲まれれば、今のは一体何だったのか、と。
適当なビルの敷地内に入ると、植え込みに鞄を置いて、僕はマフラーを解き、黒井は握りしめていた地図兼クーポンを開いた。
小さくて分かりづらい住所表記の横に手書きで大きく番地が書いてあった。二人とも無言でクーポンを見つめた。そして僕はふと、真っ白な頭で、しかし違和感を感じ、黒井を引っ張って電灯の下へ移動した。そして二人はほぼ同時に発見した。番地が、手書きでは「3」と書いてあるが、印刷ではそれがかすれた「8」であったことを。
思わず顔を見合わせ、笑った。
「何だよ、おま・・・」
「だってさ・・・ええ?」
「あはははは・・・」
「なっ、はははは・・・」
大爆笑。ビルの警備員が遠巻きにこちらをちらりと見たが、金曜の夜の新宿ではこのくらいの酔っぱらいは通常営業だ。ただ、酔ってもいないし夕飯も食いそびれているけれど。
「ひいい、お、お腹痛い・・・」
「そ、その、くーぽ・・・」
「なんだよくーぽってよおまえ、くーぽってなんだよ」
「くーぽん、だろ、言ったよ、くーぽ・・・ん!!」
「ん、じゃねえよ、しゃべれてねえええ」
僕がクーポンの紙を取ろうと手を伸ばすと、腹をよじって笑う黒井が腕を引っ張るので、体当たりで反撃した。あとはなぜかクーポン用紙の取り合いになり、笑って力の入らない右手と、腹を押さえる左手と、ふらふらとままならない足取りで、最後には相手の上に覆い被さってひいひいとようやく息を吸い込んだ。
「ば、ばかじゃねえの俺たち」
「ばかだよ。ばかだけど、あの店も、詐欺だろ」
「俺たちみたいな馬鹿を罠にかけてんだよ」
「かかるとどうなんの?」
「そりゃ、その、変態なことになんだよ」
「なんだそれ」
僕はふと目についた自販機を指さし、歩きだした。黒井もすぐ察して歩き出す。しばらくは「いやあ、むりだわ」「お前今年の変態アワードね」「お前がだよ」と意味のない軽口を叩きながら、発作のように思い出し笑いを繰り返した。僕は笑い疲れた顔面の筋肉を休ませながら自販機を呆然と眺め、財布を出した。
「あ、小銭ない」
「おごりますよ、ここは俺に任せてください」
「別にいいって」
「いやいや、この二千五百円で」
僕は思わず吹き出した。
「夕飯ポカリかよ」
「二本でも三本でも」
「お前、中山さんに何て言うんだよ」
「あ、そっか、下見。本物の方へ行かなきゃか」
「今から?」
時計の針は、九時半過ぎ。行けない時間ではないが、どうにも、今更だ。
「やまねこさ、家どこだっけ?何線?」
「京王」
「え、俺も」
「そうなの?どこ?」
「桜上水」
「いいとこ住んでんじゃん」
「そっちは?」
「たませんの手前」
「多摩センター?遠っ」
「どうせ遠いよ」
「実家?」
「いや、実家は千葉だけど。最初たませんで就職する予定だったのがギリギリでポシャって、まあこっちでも通えるから、そのまま・・・」
入社前の十二月からインターンに入ったがすぐに予定は未定になり、結局その会社自体が立ち消えとなって・・・と、のっけから社会人生活につまづいた積もる話もあるのだが、別にそんなこと話しても何にもならない。
さて、これから本物の蜜の雫へ行くのか、別のところで軽く夕飯か、あるいは帰るなら同じ電車に・・・と考え始めたところで黒井のスマホが鳴った。何やら親しげに話し始め、「あ、いや今ちょっと、後でかけるから」と言うので、僕は反射的に「あ、俺はそろそろ、いいよ気にしないで」と遠慮のジェスチャーをしてしまった。それで結局「じゃあ」「うん、それじゃ」で別れた。
あえて混んだ電車に乗ると、誰かと話した緊張感はだんだんと落ち着いていった。無駄に長い乗車時間にも、それなりの利点はあるのだ。
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