第25話:「みつのしずく」のみーちゃん
結局、駅に行って、結局、いつもと同じ電車に乗った。
新宿行き。
何月何日か知らないが、空いている。時間は、22時32分。
乗ってしまえば後はそのまま。座って、着いて、降りる。
途中、桜上水では、降りられなかった。冷めた目で放心するばかりで、何も出来なかった。
新宿で降りたら、あとは体が覚えている方向へ、勝手に歩いた。スーツで歩いている人間もあまりいない。っていうか、人もあまりいない。
会社に来たって入れないんだし、まあたとえ入ってもしょうがないんだし、そのまま歩いて通り過ぎる。
あとは、どこをどう歩いたのか、よく覚えていない。
鞄を持たないで歩くのは、スカスカするな、とか、考えていた。
そのうち、通りの雰囲気が変わって。
ああ、これ。
黒井と行った、「みつのしずく」だ。
まあ、何というか、未練がましいなあ。別に、来たって、通り過ぎるだけだけど。
その時。
あ、あの金髪男だ。口ピアスの。今日は銀色のベンチコートで、くわえタバコ。
「あ、お兄さん。来てくれたんだ」
何だよ、スルーしてくれよ。覚えてないくせに。
「あれ、ワケあり?なになに、こじらしちゃってるの?」
タバコを足で踏みつけて近寄ってくる。うざいなあ。
僕が無言で歩き去ろうとしても、男はなお食い下がってきた。正月からそんなに客引きすることないだろう。
「ねえってば。あの彼は?」
反射的に、男の顔を見てしまった。一瞬でそこを突かれる。
「うん、一緒にいたじゃない。お兄さんより、ちょこっと背が高くてさ。ね、彼と何かあったんでしょ」
本当に、覚えているのか?あんな一瞬。
「分かってるって!うん。はいはい。大丈夫大丈夫。ぼくもね、こういうの慣れてるから。任せて?」
「・・・っ」
「いいのいいの!話は中で聞くから」
言葉を遮られ、強引に肩を押される。振り切ろうとするが、空腹のせいか体に力が入らない。
「心配しなくていいって。別にさ、取って食いやしないよ。正月で貸切だから、もうタダ同然でいいって」
「・・・っ」
「違う違う!そういう店じゃないから。今ぼくしかいないの。何も心配要らないって。心配なのはお兄さんの方だよ?もう、フラフラじゃない」
後ろから肩を押され、地下への、「みつのしずく」への階段を降ろされる。
・・・何か。
たぶんものすごいまずい状況なんだろうけど、もういいかと思った。たとえマグロ漁船に売り飛ばされたって、今より悪くはならないのだ。監禁されて殺されたって、裸のままクロゼットの前で何百時間も突っ立っているよりマシだ。
男は甲斐甲斐しく何か言いながら僕を店の中に引き入れた。
薄暗い。
何となく、バンガローみたいな雰囲気。鹿の首みたいのが壁にかかっている。
「ま、ま、座ってよ。ちょっと寒い?まあいいよね」
言われるがまま、椅子に座る。木のテーブルと、長椅子だった。スキー場の小さな食堂みたいな感じで、他にもいくつか似たようなテーブルが並んでいる。不揃いだが、外国っぽい雰囲気は統一されていた。床にはいくつもの段ボール。
奥へ入っていった男の、声だけが届く。
「実はね、まだ大掃除終わってないの。だから今日はほんとはお休みなんだけど、お兄さん特別ね。今飲み物持って行くから」
まあ、勝手にしてくれていい。別に、どうでも。
はは、一人で、入っちゃった。みつのしずく。
「よい、しょっと。はい、氷ないけど、寒いからいいよね」
男が僕の斜め向かいに腰を下ろす。
広口のグラスに、茶色い液体。ウイスキー?
「あの」
「いいのいいの!奢りとは言わないよ、二千円ぽっきり」
男は手を差し出す。よく意味が分からないまま、手を見つめていた。
「はい、財布くらい持ってるでしょ?二千円置いてくれればそれでいいからさ」
ああ、お金を払うのか。二千円?二万円でももう、気にしないけど。
僕は財布から二千円を出した。男はろくに見ないまま丸めてポケットに突っ込む。
「はい、毎度。そしたら飲んで飲んで。ね、貸切だから」
「はあ」
「あ、ぼく?みーちゃんって呼んでくれる?」
聞いてない。
「本名はね、みつきっていうの。ひらがなで、みつき。それで、みつのしずくって名前もそこからとったわけ。お兄さんは?名前」
「・・・」
え、名前?
なんだっけ。
「ま、本名じゃなくてもいいけどさ、お兄さん、じゃ、ねえ。じゃあ、こーちゃんって呼んでいい?わけは訊かないでよ。いいでしょ、ここだけの仮名ってことで」
はあ、勝手にして。
言ったつもりだが、声には出ていなかったらしい。
「いいね、こーちゃん。ほら、とりあえず、持って」
みーちゃんは自分のグラスを持ち上げた。僕も、持てば、いいってこと?
「はいはい、かんぱーい」
カン、とグラスが当たる。ああ、グラスすら、重い。
ほんの一口、口に含んだ。ウイスキー、なんだろうな。味なんか分かんないけど、飲み込んだ胃が熱くなってくる。
薄闇に目が慣れてきたが、そこでみーちゃんが、テーブルの上の小さなろうそくに火をつけた。マッチをこする仕草が様になっている。そのオレンジ色の火のおかげで、せっかく慣れた目が、光で、瞳孔が絞られる。明るいけれども、炎以外は逆に、よく見えなくなった。
ふと見ると、みーちゃんは、長い前髪に隠れているけど、顔は意外と若いみたいだった。もしかしたら、ずいぶん年下なのかもしれない。ぼうっと見つめていると、声を掛けられた。
「ああ、こーちゃん。重症だね。いやいや、ぼくも経験あるから、分かる。分かるけど、ちょっとまずいね」
「・・・」
「もしかして、初めてなんじゃない?」
「へ?」
「あの、彼のことだよ。ちょっと背の高い彼」
「ああ」
黒井のことだ。
「彼、じゃ、なんだよね。名前・・・勝手につけるね、りょーくんでいい?いいよね」
もう、何でもいいよ。
「りょーくんはさあ・・・」
「あの」
僕はたぶん初めてまともに声を出した。っていうか、何日ぶり?
「なに?」
「・・・何の、お店?」
僕は何をすればいい店なんだろう?
「あ、だからさ、今日は開けてないし、気にしなくていいよ。それに、元々こういうお店だし」
「こういう?」
「そ」
「どういう?」
「だから、何だろうね、何でもしていいわけ。で、今こーちゃんは、ぼくが話聞くことが必要でしょ?だから、そうすんの」
「・・・別に、いいよ」
そんなこと、してくんなくて。
「でも、他にやることないでしょ?ぼくが聞きたいから聞いてるだけだから、付き合ってよ」
何だか、黒井みたいなことを言う。黒井じゃないのに。
「・・・別に、いいけど」
言ってること、おんなじだな。
「とにかくさ、こーちゃんは、その、りょーくんに最初に会ったのって、いつなの?」
「・・・」
さあ、入社の研修の時には一緒だったはずだけど。よく思い出せない。
「じゃあさ、こないだここに来たとき、何してたの?どこ行くところだったの?」
「え、あれは・・・忘年会の、下見?」
「ああ、忘年会ね。下見なんてするんだ」
「何か、ついてきてくれって」
「頼まれたの?」
「・・・まあ」
「同じ会社の、一緒に働いてるひと?」
「うん」
「でもさ、あの時。あ、ぼくね、そういうのってパッと見ただけで大体分かっちゃうんだけど、あれ、ちょっと距離、あったよね。すっかり慣れた関係、じゃなくて。普段一緒に仕事してるわけじゃなかった?」
「・・・隣の、課?」
「ふむ。あんまり話したこと、なかったの?」
「うん。突然、電話来て」
「電話で、忘年会の下見、一緒に来てくれって?一緒に幹事やってたの?」
「いや、あいつが、幹事で」
「こーちゃんは?」
「・・・平民?」
「あはは、平民か。面白いね。なるほど、で、突然誘われてこーちゃんは驚いたんだ」
「・・・うん」
「何か、きっかけはあったの?声を掛けられたのって」
「・・・何だっけ。ええと、その前の日に・・・クッキーをあげた」
「手作り?」
「まさか。誰かのお土産。そう、残業のとき、腹減ったっていうから、あげた」
そうだった。ああ、ずいぶん昔のことみたいだ。いつも寝る前に何度も反芻してたあの日のやり取りなのに、もう、うっすら覚えてるおとぎ話みたい。
っていうか、何でこんな話、こんな知らない人に。
まあ、どうでもいいのか、もう。
ここで立ち上がって帰ったって、同じなんだから。
「じゃあクッキーあげたのがきっかけになって、次の日、下見ってことになって、それでここに一緒に来たの?」
「そう」
「店、間違えたんでしょ」
「まあね。あいつが、そう、番地書き間違えてて」
「あの時にね、もう、ぴんと来てたんだよ。こーちゃんと、そのりょーくんのこと。だから声掛けたんだ」
「え、なんで?」
「まあまあ。こう見えてぼくもね、いろいろこじらせてきた人間だよ。雰囲気で分かっちゃうの」
ろうそくの炎が少し揺れる。みーちゃんの顔の陰影がふわりとして、めまいがしてる錯覚。綺麗な、顔してるんだ。若いのに、先輩なんだって。
じゃあ、聞いてみようか。何の先輩だか知らないけど。
「・・・どう、見えたの?」
「ふたりのこと?」
「うん」
「あのね、りょーくんの方が緊張してた。こーちゃんは、その、気を悪くしないでほしいんだけど、こういう場、慣れてないでしょ。だから、おのぼりさんみたいに、びくびくして」
「まあ、そうだったよ。何されるかって。でも、何で、あいつの方が、緊張してたの?」
「こーちゃんのこと、好きだからだよ」
・・・。
ん?
誰が?
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