第26話:代理プレイと、帰還

「よく、分かんない」

「うん。でもさ、こーちゃんは、りょーくんのこと、好きでしょ?」

「・・・」

 りょーくんて、誰。

 黒井の、ことか。

 ・・・今も、好き、なの?

 誰が、誰を?

「あーごめんごめん。ちょっと先に行き過ぎた。ま、飲んで飲んで」

 言われるがまま、苦い液体を飲み込む。また胃が熱い。

「もしかして、こーちゃん、何も食べてないでしょ」

 緩慢にうなずく。たぶん、食べてない。

「あーそんなで飲んだら倒れちゃうよ。何か食べなきゃ。ちょっと待ってて」

 みーちゃんとやらは席を立って、どこかへ行ってしまう。炎が揺れて、世界が揺れて、結局元に戻る。揺れたまま異次元へぶっ飛んで行けばいいのに。

 すぐにみーちゃんは戻ってきた。

「ほら、これ!」

 何か、箱が僕に投げられる。慌てて手を出すが、すり抜けて落ちた。

 手を伸ばして拾う事が出来なくて、見つめる。小さな箱。食べ物?

 ・・・カロリー、メイト?

「嫌いだった?メープル味、美味しいよ。悪いけど今キッチン使えなくて」

 みーちゃんが隣まで来て、拾ってくれた。優しいのだ。

「ほら」

 丁寧に手渡される。中を開けて、ビニールまで破ってくれる。

 カロリーメイト。

 ・・・ツリー。

 マフラー。

 山猫。

 棒状の物体を口に入れようとするが、落ちていった。涙と一緒に。

「え、え、ごめん!どしたの?嫌だった?」

「・・・チョコ味じゃ、ない」

「あ、チョコが好きだった?」

「・・・くれた」

「え?」

「あの時、ああ、あの日。くれたんだ、クッキーのお礼だって。朝。ツリーの前で」

 涙が、勝手に出てくる。熱い。

「何か、食べかけでさ。何こいつって、思って。食べかけよこすかよ、普通、って」

「りょーくんに、もらったんだ?」

「そう。もらって、それで・・・」

「それで?」

「山猫」

「ヤマネコ?」

「俺のこと、山猫だって、写真、見た。ぴこぴこ」

「う、うん?」

 涙がぽとりぽとりと、手の甲に落ちてくる。どっから出てるんだろう?

「だから俺も、あいつのこと、黒犬だねって。そしたら、喜んだ」

「こーちゃんがヤマネコで、りょーくんが黒犬?」

「そう」

「ツリーの前で?」

「そう」

「それまで、あんまり喋ったこともなかったのに?」

「うん。ほとんど、ない。いや、その前から、山猫だとか言ってたけど、まともに話したのは、クッキーのとき」

「で、クッキーのお礼の、次の日、カロリーメイト?」

 僕はうなずいた。泣いたりして、恥ずかしいやつ。

「あちゃ・・・」

 みーちゃんは額に手を当てて、天を仰ぐ。ま、そうだよね。ドン引き。

「こーちゃん、そりゃまずいよ。ぼくから見てもまずい。ねえ、りょーくんって、何だろう、天真爛漫なタイプでしょ」

「うん」

 ま、聞いてりゃ分かるでしょ。そうだよ。

「初めて喋って、次の日にはもう山猫と黒犬で、すぐに下見で、ここ、でしょ?うわあ・・・」

「なに?」

 僕は口をとがらせた。何か文句あんの?

「いやね、それ、まずい始まり方。いや、まずいっていうか、直滑降?こーちゃん、つまずいたっていうより、それね、崖から落ちたんだよ」

「落ちた」

「そう。りょーくんってね、すごい、魅力的なの。奔放で、くるくる変わって、気持ちで動いてるタイプ。あんまり下心とか計算ってなくてね、そのまんまのひと。裏表がないっていうか、まあ、子どもっぽい」

「そのとおりだけど」

 当たってる。

「でしょ?知らずに、誘ってくるんだよね。こっちが勘違いするほどに」

「・・・」

 そのとおりだけど。

「気まぐれで、困ったでしょ」

「・・・」

 無言の肯定。

「途中までは、うまくいってたの?」

 たぶん。いろいろあったから、よく思い出せないけど。

「じゃ、こーちゃんが今こうなってるのって、直接きっかけがあった?」

 ・・・どれが直接の原因なのかは分からない。

「多分ね、まあ、すれ違ってるんだよ」

 ま、そうなんだろうね。すれ違いすぎて、もう、会えそうにないけど。

「あとね、問題は、こーちゃんが、りょーくんのこと勘違いしてるってこと」

「かん、ちがい?」

「あのタイプはね、こーちゃんが思ってる以上に、何だろう、自由なんだ。ぼくも一人知ってるんだけど、ちゃんと話したらね、もうびっくりしたよ。世界が、違うんだ。見えてるものが、根底から違うの。同じルールなんか、一つもない。そういう風に思ったことない?」

「・・・どう、だろう。買いかぶってる、とか、言われたっけ」

「うん。他には?」

「・・・したいこと、するだけ、なんだってさ」

「あちゃー」

「でも、本当に、したかったのかな。あんなこと」

「あんなこと、・・・って?」

「・・・キス」

「もうしたの!?」

 みーちゃんは驚いていた。あは、そんなウブじゃないって。

「でも別に、そんだけなんだ。あいつがただそういう気分になっただけ。俺のこと好きとかじゃなくて」

「そこだってば」

「え?」

「たぶんね、りょーくんの世界の時計って、ぼくたちと違うんだ。一瞬一瞬なの。その場その場の世界なの。だからさ、その時したかったことって、気まぐれとかそういうレベルじゃなくて、真実なんだよきっと」

「よく分かんない」

「とにかく、正直に向き合うことだよ」

「もう無理だよ」

「何で?」

「絶対もう嫌われた。終わったんだ」

 悲観的な言葉が勝手に出てくる。

 そう決めてしまいたいだけなんだ。信じて頑張るとか、もう無理。

 カロリーメイトの箱を持ったまま立っていたみーちゃんが、隣に座って、僕の肩を抱き寄せた。

「大丈夫だって。まだ直接言われたわけじゃないんでしょ?」

「そう、だけど」

 ふらりとして、みーちゃんに寄りかかる。みーちゃんは僕の頭を自分の肩に引き寄せて、髪を優しくなでてくれた。

 黒井じゃ、ないんだよね。

「ごめんでもなんか勘違いしそう」

 早口で言う。それでも、体は動いてないし、みーちゃんも動かない。鼓動が、速くなる。生きてる、らしい。

「今だけだよ。今は、ヤマネコさんじゃなくてこーちゃんだし、いいんだよ。僕はりょーくんの代わり。ねえ、そうしよ?」

 代わり?代わり、なんて。

 みーちゃんが囁き声で言う。

「何て、呼ばれてるの?」

 黒井が?俺のこと?

「・・・ねこ」

「・・・っ、それ、やばいよ。うん。ぼくでも、無理かも」

「そう、だろ?」

 同意してくれて、嬉しいよ。

「ほら、いいよ。したいこと、してくれて」

 手を、握られて。ああ、これがあいつだったら、いいのにって。

「・・・したいことなんか、ない」

「じゃあ、されたいことは?」

 う、鋭いなあ。あれ、何で?腹がひゅっとする。

「ねこ、さあ。俺が今、したいことしても、いいよね?」

 え、何か、頭が勝手に、黒井の声に変換するんですけど・・・。

「俺、お前と、キスとか、したいよ?」

「や、やめ・・・」

 ふっ、と強く吹き付けて、みーちゃんがろうそくを消した。暗闇。目がちかちかする。

「こうしちゃえば、わかんないじゃん」

 声、とか、口調まで、違う。

「だめ、って・・・ば」

 俺、何て声、出してんの?

 体の力が抜ける。

 そのまま、床に落っこちた。

 すぐ、上からのしかかってくる体。僕の両手首を頭の上できつく押さえて、首筋に、耳に、息がかかる。

 もっと、もっと乱暴にしてほしい。

 全力で抵抗しても、抗えないくらいに。

「ねえ、ほんとのこと、言ってよ・・・」

 言えるわけ、ないだろ?そんなこと。

「大丈夫だよ、俺、たぶん、もっとすごいこと、考えてる・・・」

 でも、その場だけなんだろ?ただの、衝動的な、ものだろ?

「ねえ、俺とどうしたい?俺に、どうされたい?」

「・・・もっと」

「うん?」

「もっと、強く・・・乱暴に、されたいよ」

 一瞬の空白。

「・・・わかった」

 上擦った声。しゅるしゅると音がして。何だろう、紐?手首が、縛られていく。椅子の脚に、固定されて。

 シャツのボタンが強引に外されていく。そして、下も。足をひねって抵抗するけど、どっから?ってくらいの力で押さえつけられて。

 あそこが、空気に触れる。次の瞬間、冷たいものに握られた。

「ひ、い」

「俺も、さ、我慢、・・・できない」

 何か熱いものが身体のそこかしこに触れる。息が荒くなる。

「ねこ、好きだよ・・・」

「そんな、うそ」

「うそじゃない。うそなんか、ついたこと、ない」

「そう、なの?」

「ぜんぶ、ほんとだよ。信じて」

「だって、言ったじゃん。お前、言ったじゃん」

「なんて?」

「変な気持ちにならないでってさ。俺が、変な気持ちになるの、やだったんだろ?」

「それは・・・」

「だって、そうだろ?あの時、お前が抱いてくるから、俺、もうだめンなって、変な気持ちになっちゃうから、って、言ったじゃん。そしたら次んとき、また抱いてきたくせに、お前・・・」

「違うってば」

「何がだよ」

「だってねこさあ、変な気持ちになって、それでどうしたの?」

「え?それは・・・やばかったから、離したよ」

「だからじゃん」

「え?」

「俺だって、怖かったんだって。お前に、拒否、されんの」

「・・・」

「俺、抱いてたかっただけなんだよ。それだけ。お前に、離されたくなんかなかったんだ」

「なに、それ・・・」

 そう、なの?

 俺が変な気持ちになると、離しちゃうから?

 そんなこと、ある、わけ。

「おかしいかな?でもそうなんだ。我慢、できないから・・・」

「キス、とか、しちゃうわけ?」

「・・・うん」

「したいから?」

「うん」

「俺と?」

「したい人じゃなきゃ、しないよ」

「それって、俺とキスしたいってこと?」

「それ以外、ないよ・・・」

 頬に、耳に、首筋に。荒い息と、乾いた唇。

 キスの、記憶とか。

 あの満員電車とか。

 匂いまで再生されそう。

 胸が、苦しい。

「ねえ・・・どうして?」

「・・・ん」

「どうして、お前、クロじゃないの?」

「・・・」

「どうして、お前が、今、クロじゃないの?俺の聞きたいこと、全部言ってくれるのに。このまま、最後まで、・・・俺、覚悟、出来ちゃうのに」

 みーちゃんの動きが止まる。

 ほんと、そっくりだった。唇に、キスしないでくれて、ありがとう。


 しばらく、呼吸と、痙攣。

「あは、・・・ぼくが、だめンなりそーだった」

 僕の胸に顔をうずめて。本当に恥ずかしそうだ。

「ごめん」

「止まるの、結構、大変、だったよ。こーちゃんも、やばいって」

「なにが」

「あんな、こと、言われたら。・・・乱暴にされたい、とか、もう、飛んじゃうとこだった・・・」

 言っちゃったんだっけ。

 ああ、うん。

 言ってしまえば、ちょっと、楽になったかも。

「あの」

「ん?」

「手首。取ってほしいんですけど」

「・・・どうしよっかな。ぼくも、崖から落っこちそう」

「えーと」

「大丈夫、ちゃんと帰すからさ。こっちはプロだよ?」

「・・・どうも」

 手首が開放されて。起き上がったら。

 何か、楽になった。

 あの、アリジゴクの底に戻ると思ったけど、今は、普通の気分でいられてる。

 不思議だ。床がある。大丈夫だ。これ以上、落っこちない。

 怪しい地下の店の、テーブルの隙間の床の上で。

 半裸で、寒いし、手首も痛いけど。

 でも、何か、大丈夫なんだ。

「あ、そっか。プロと言った手前、お金もらうからね」

「・・・何それ」

「だめだめ。こういうのはね、ちゃんともらわなきゃだめなの。そうじゃなきゃ、ぼくとこーちゃんの、プライベートな行為になっちゃうでしょ?」

「・・・別に」

「ううん。だって、こーちゃんは、これからりょーくんのとこに戻るんだから。浮気はダメだよ?」

「・・・戻れる、かな」

「言ったじゃん。向こうも、好きじゃなきゃ、しないんだって」

「今は?」

「確かめなきゃ、分かんない」

「確かめるの?俺が?」

「それ以外、ある?」

 みーちゃんがまたシュッと音を立ててマッチを擦る。ろうそくの明かりで、現実に戻ってきた。シャツのボタン、いくつか飛んじゃってるじゃないか。

「はい、二万円」

「・・・ふむ」

 安いのか、高いのか。財布を見たけど一万円しかなかった。「これしかない」と差し出すと、また、見もせずに丸める。

「ったく、この手首、どうしてくれんの」

「でも、良かったでしょ?」

 みーちゃんが、微笑むから。

「・・・良かった」

 僕も、笑った。

 え、笑うのとか、何年ぶり?ってくらいに。


 大丈夫。もし振られても、生きていけそう。

 地獄を見てきたんだから、強くなってる。

 僕はみーちゃんから借りたベンチコートを着て、もう朝になりかけてる外に出た。みーちゃんが見送ってくれる。

「はい、これ」

「え?」

「さっきの、縛ったやつ」

 ネクタイ、だったのか。手渡されて、気づく。

「これ・・・あいつの」

「え?」

「はあ、俺、これで縛られてたのか」

「・・・まずかった?」

 本気で悪そうな顔をする。ありがとう、それで、十分。

「いいんだ。うん。これ、返しに行くよ。何に使ったかは、言えないけど」

 目を見合わせて笑う。

 歩き出す僕の背中に、また場違いなほどの大声で、「毎度あり!また来てねーー!!」と。

 そして、お約束みたいに、どこかから、女の声。


 みーちゃん、うっさい!

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