第367話:結婚しないプロポーズ

 後ろからゆっくり抱きつかれて、前にまわってきた手が僕の腕をぎゅうとつかみ、黒井は「やまねこさあ」と抑えた声で繰り返した。

「・・・なに」

「ねえ、その・・・親とか実家のこと」

「・・・」

「それって今すぐの、話?」

 僕は、目を閉じてふるふると首を横に振った。っていうか、親の話からも自分の顔からも目を背けたいわけだけど、鏡には後ろから黒井に抱かれる僕が映っていて、そんなのは恥ずかしすぎる。

「・・・何かは、あるけど、今どうこうって話じゃない?」

 訊かれて、目をつぶったままとにかくうんうんとうなずく。

「じゃあ、何かあったら、その時は俺に言う?」

 ・・・少しためらったけど、一回、ゆっくりとうなずいた。

「それ、俺、どういう話か、何にもわかんないけどさ」

「・・・」

「とにかく何の話でも断るよ。直接、どこへでも行って、俺が断ってくる。お前誰だって言われてもどうでもいい。俺はたぶんそうする」

「・・・え」

「だからお前はそれ、心配しても悩んでも考えても意味ないよ。無駄だって。ほら、お前、無駄が嫌いじゃん?」

 ・・・。

 ・・・な、・・・何だって?

 お前が、断る?

 話がよく飲み込めない。

 でも、とにかく黒井が僕を励ましてくれているらしい(?)ことと、そして、何だか分からないけど、黒井ならやってしまいかねない感じがすることは分かった。

 ・・・返事の代わりに、僕の腕をつかんでいるその手に、自分の手を重ねる。

 何だよ、なんだこれ。

 思考が働かなくて、何をどう組み立てて、どう受け止めていいのか全然分からない。

 でも、クロが僕の味方で、僕の側にいてくれるつもりだということは、たぶん分かった。



・・・・・・・・・・・・・・



 親のことについて、誰かが味方になってくれるなんてことは夢にも思わない突拍子のない話だったから、その感触がなじむまでに、しばらく時間がかかった。

 まるで、チンチラだかミンクだか、触ったこともないような毛皮のコートを素肌の上に着てるような気分だ。

 もちろん、黒井の一言によって何もかもが解決したなんてことはないわけだけど、でも、完全に見ないようにして蓋をしてきたものに、亀裂が入ったような感じがした。


 僕がその、内部で起きている事象を見守っている間に、黒井は僕の眼鏡を取って、そして染みのついたアンダーシャツを脱がせた。

「え、あ、その・・・」

「だって赤いのがこっちにも付いたら、俺たち、抱き合ってたってバレるじゃん」

「・・・」

 今度は鏡を背にして、僕が黒井を壁に押しつけるような格好で、真正面から抱き寄せられる。

 素肌の胸元や腹に、タイピンやボタンが冷たい。

 何度か背中をさすられ、それから大きな手のひらが僕の頭をゆっくり、自分の肩口に着地させた。

「・・・あのさあ、ねこ。・・・俺、ね」

「・・・う、ん」

「実は・・・」

「・・・うん」

 頭を撫でられながら、少し夢見心地のままその声を聞き、喉の振動を間近で感じる。

 スーツはかっこいいけど、でもせめてYシャツ、いやベストは着たままでも構わないから、もう少し黒井の体温を感じたい・・・と思って、いたら。

「実は、俺さあ、・・・許嫁がいて」

「・・・、ふぇっ!?」

 思わずがばっと顔を上げると、黒井は目を泳がせながら口元を緩ませて・・・え、なに、いいなずけ?

 ・・・はあ!?

「・・・ど、ど、どういうこと?許嫁ってその、お、お前、こ、こ、婚約・・・」

「くはは、慌てすぎ。・・・嘘だよ。いやウソじゃないけど」

「へっ、ど、どっち!?」

「嘘っていうか、まあ勘違いっていうか」

「かんちがい?」

「その、昔、バレエやってたって言ったじゃん。そん時に、大先生に孫娘がいて、俺のいっこ下で、何回か、一緒に遊んだりしたんだけど」

「・・・そ、それで?」

「いやそれで、『クミちゃんはあっくんの許嫁ね』なんて大人が話してて、俺、それずっと信じてて」

「・・・」

「バレエやめてからはほとんど会ってなかったんだけど、小学、五年か六年くらいで、区の合同運動会があってさ、そこで突然見かけて、声かけて」

「・・・」

「それでちょっと、デートみたいに歩きながら、二人で話したんだけど」

「・・・ふうん?」

「いや、俺たち将来結婚するよねなんて言わないけどさ。この子なんだなって思って・・・その、案外可愛くなってたから、まあ悪くないかなって」

「へ、へえ?」

「でもさ、帰ってからお母さんと姉貴に話したら、『許嫁って何の話?』だってさ。俺、何かかっこ悪くて必死にごまかして、でも後から姉貴に訊いたら、別に、許嫁なんてただの冗談で、本当の話じゃないって」

「・・・まあ、そうだろうね」

「でも、それで俺、結婚しなくていいんだって分かって、すげえ嬉しかった。なーんだ、しなくていいんだって」

「そ、そんなにしたくなかったわけ?昔から」

「うん。だって結婚したらパパとママになってさ、そんなの主役じゃないじゃん。おい、気をつけろよって息子を見送る、・・・『パパ』としか、名前すら呼ばれない脇役じゃん」

「・・・お、お前は一生主役ってわけ?」

「ははっ、まあね」

「あ、そう・・・」

「・・・お前も結婚したくなくなった?」


 ・・・たぶん、僕の中で、マヤは眉根を寄せて首を横に振っていたけど、僕は「うん」とうなずいた。

「その、だったら俺も、一生・・・結婚しない」


 ・・・。

 ああ、言っちゃった。

 ・・・はあ。

 これで、結婚指輪の線は一生なくなったことになる。

 言っちゃってよかったのかな。でも、まあ・・・いいか。

 だって、黒井が小さく「やった!」なんてつぶやくから。

 何だかやっぱりそれってプロポーズされたみたいで、僕も心の中で「結婚しません。誓います」とつぶやいた。



・・・・・・・・・・・・・・・



 それから、黒井が僕の裸をじろじろ眺めてくるので、顔から火が出そうで、「シャツを洗うから!」と洗面台に向かった。

「・・・じゃ俺、先に戻るよ」

「あ、・・・そう」

「・・・やっぱその前にトイレ」

 ツカツカと靴音が響き、ばたんと個室のドアが閉まる。

 ・・・。

 冷たい水で顔を洗い、アンダーシャツの染みをペーパータオルで拭き取って着たら、ようやく少し落ち着いた。

 Yシャツの染みの部分を濡らして、洗剤をつけて流すと、赤がみるみる消えていく。

 ・・・何だか、自分の傷が癒えていくみたいで、ちょっと笑いが漏れた。


 ハンドドライヤーでシャツを乾かし、上着を着ていると黒井が出てきて、「行こっか」と。

 あ、なんだ、結局待っててくれたってこと?

 ・・・っていうか、そういえば、何分くらい中座しちゃったんだろう。

 思い出したら急に焦りが込み上げて、あの年末の喧嘩騒動がフラッシュバックする。さすがにもう二次会が終わってるということはないだろうけど・・・まったく、男同士だとトイレでいろいろあるからこういうことに・・・。

「あ、ねこ、ちょっと待って」

「え、なに?」

 ドアノブの下の鍵を開けようとしたところを止められて、振り向かされた。

「ねえ、あの・・・」

「え?」

「・・・」

 間近で見つめられて、唇が近づいてくる。

 「ちょっ、クロ・・・」とほんの少し顔を逸らしたら、欲しかった唇は、すっと横へ。

 あ、俺の馬鹿・・・と思った瞬間、耳の下辺りの首筋に、きゅうときつくそれが当てられ、ちゅうう、きゅるきゅると音を立てて吸われた。

「な、なに・・・っ!」

「んんっ・・・」

「いた、痛いってば・・・!」

 言うと、くふふと笑われて、ぺろりと舐められた後、また吸われた。何だよ、どういうこと?・・・あ、もしかして、さっきシャツを脱がせて僕のち・・・乳首を吸いたかったけど、吸えなかったから、とか?いやいや、やめろって、そういうの想像しちゃうとその続きまで考えちゃって、下半身が、戻るに戻れなくなるだろ!



・・・・・・・・・・・・・・・



 ようやく解放されて首に手をやったらべとべとで、ハンカチで拭き取ったら「見して?」と丁寧に見てくれた。っていうか、心配になるくらいなら加減しろって、吸血鬼のつもりか?

「ん、大丈夫」

「あ、そう。ま、まったく、何するんだよ」

 ようやく外に出て、静かな廊下で控えめに抗議する。もう、頭から星とかヒヨコとかが飛び出してきそうな感じで、このまま上のホテルに行って今すぐどうにかされてしまいたいという衝動を振り払わないと、息をするのすらままならない。

 とにかく、息を吸って吐いて、右足と左足を交互に出して・・・。


 早足で会場に向かうと黒井は後ろからのんびりとついてきて、会場前でやきもきして振り返ったら、あらためて、やたらにかっこよくてもはや呆れた。何だこのイケメン。

 この男が僕のたった一人の<相手>だというのはビジュアル的にはしっくりこないし、こういう場所でみんなの中心にいる<黒井さん>とも合う気がしないのに、それでも、どこか視点を少しずらすと僕たちが二人でいるのは納得できる気がして不思議だ。

「・・・何だよ、かっこよくて惚れた?」

「はあっ?・・・あ、ああ、その、三つ揃いがよくお似合いですね」

「ん、だから、スリーピース持ってないから、昨日わざわざこのベスト買いにまわったんじゃん。いっぱい試着してさあ」

「え、そうなの?」

 あれ、スーツ上下とベストで三つ揃いと呼ぶんだと思ってたけど、後から買い足すのは違うのか。

 っていうか、そういうの、ただ一式与えられるんじゃなく、自分で考えて一人で何でも買えるんだな、お前は。

 時々危ないしどうしようもないけど、この男はちゃんと自立、してるんだ。

「でも、その・・・かっこいいでしょ?」

「・・・はい」


 そうして肩を抱かれて会場に入って、薄暗かったから助かったけど、どうやらとっくにビンゴ大会が始まっているみたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・



 スポットライトが当たった新郎新婦が交互にビンゴのガラガラを回して、マイクで番号を発表している。

 「紙もらいに行こうよ」とそちらへ歩き出す黒井を「いいから、もう諦めよう!」と必死に止めたら、「え、なんで?ビンゴやりたいじゃん!」と言われた。いや、ビンゴ自体は僕でも安心して参加できて嫌いじゃないゲームだけど(当たったこともないけど)、でもつまり僕は目立ちたくないわけであって、そもそもトイレでプロポーズされていて(違うけど)用紙をもらい損ねたなんてこっちの都合なんだから、進行を妨害せずただ大人しくしてればいいんだってば!

 しかし、行こうやめようと押し問答していたら横からトントンと肩を叩かれ、「あの、山根君?これ」と、いくつか穴の開いたビンゴ用紙を手渡された。え、・・・ああ、森本くん?

「あ、いいって、気にしないで!」

「ううん、これ山根君の分。始まる時、いないみたいだったからもらっといた。途中までやっといたから」

「え・・・わ、悪いね、そんな」

「でも、山根君の分しかもらってなくて、その、黒井さんの分は・・・って、ああ、15番、15番だって!」

「あ、ああ、・・・あった!」

「おっ、それリーチじゃない?あれ、まだか、もう一個だね」

 15の数字部分を向こう側に折り込んで、やっぱり理路整然としたゲームは気持ちがいい。ふと、あの研修合宿で班長決めのジャンケンに負け、憮然としていた僕に森本が「代わろうか?」と声をかけてくれたことを思い出した。礼も言わず「いや、いい」とふて腐れたのが今となっては申し訳ない。

 しかし、「ね、森本さあ」と今度は黒井の(やや含みのある)声がして、あ、何だかまずい。

「俺の分の紙はないんだよね?」

「あ、ごめん・・・俺は、山根君の分だけしか」

「いいよいいよ、全然気にしなくて。これ、俺たち二人でやらしてもらうからさ、わざわざありがとう」

「いや・・・う、うん」

「一枚でもあって助かった、じゃなきゃ全然楽しめないとこだもんね」

「そう、だね」

 それから黒井は「もうちょっと前行こ。なっちゃんの顔がよく見えない」と僕の腕を引いた。

「え、なっちゃんって?」

「何言ってんだよ、新婦だろ?鈴木夏子さん」

「あ、そ、そうか」

 僕は振り向いて森本に「ごめん!」と片手を上げたけど、それに気づかれたらしくバシッと腕を叩かれた。いや、もしかしてこれ一生こうなのかな・・・なんて。

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