第366話:ジェントルメンの部屋

 会場を後にすると、通路は少し冷えていた。

 喧騒から遠ざかり、一気に現実っぽさが漂うけれども、でも二人の格好は何だか非現実っぽい感じ。

 腕を引かれるがまま奥の薄暗い階段を上がって、絨毯敷きの廊下を歩き、<ジェントルメン>の表示のドアの中へ。金メッキのドアノブの下には同じく金色の鍵がついていて、中に入ると黒井はそれをカチャリと締めた。

「あ、あの・・・えっと」

「シャツ、洗えば」

「あ、ああ・・・」

 中は暗い色の大理石らしき洗面台と瀟洒なランプ、植物や絵などが飾られた、やや古めかしい造りの空間。・・・っていうか、トイレ自体のドアに鍵があるってことは、ここは今、密室?

 ・・・いや、だから、そうじゃ、なくて。


 ふと見下ろすと、ネクタイの横に、まるで心臓を撃ち抜かれたかのような赤い染み。

 ああ。

 そうだ。

 そうだった。


 ・・・クロは結婚なんか、一生、しないんだった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 シャツの染みを洗うべく洗面台の前で上着を脱いだけど、黒井は後ろで腕組みのまま壁に寄りかかり、脱ぐのを手伝ってくれるような気配もなかった。

 とにかく黒井は怒っていて、僕を責めていて、それは分かるけど、なぜなのかは分からない。

 僕が女の子と喋っていたから?

 はぐれたまま放っておいたから?

 ・・・しかし僕の方もたぶん、きっと心の奥では怒っていて、でもそれを見てしまうと何かに押し潰されそうだから、逃げて逃げて、またマヤにバトンタッチして見ない振りをしたんだ。


<俺は結婚なんか一生しない>


 ・・・。

 洗面台の横が濡れてないのを確かめて上着を置き、染みに付かないように慎重にネクタイを外して、その萌黄を丁寧にたたむ。


<誰がするかよ、したいヤツの気が知れないね>


 ・・・そっか。

 ・・・好きな人とひとつ屋根の下で一緒に暮らして、家具や小物を選んだり、献立を考えたり、それはどんな時間になるんだろうって・・・思ってた俺は、馬鹿だったってこと?

 同棲の先にはふつう結婚があって、もちろん、僕たちは本当に結婚することはできないけど、でも、その甘い匂いだけでも二人で楽しめたら・・・アップルパイの実物はどこにもないとしたって、永遠に腹は満たされないとしたって、それでも、二人だったら腹ペコでも楽しいんじゃないかなんてふんわり夢を見ていた俺は、やっぱりお前に失望されるどころか軽蔑されてるってわけだ。

 うん、でもまあ、間違ってない。

 自分に正直になってみれば、僕は確かに黒井を好きになった最初の頃から「たとえ両想いになっても結婚できるわけじゃないし」と卑屈になっていたし、黒井が千葉に行ってる間、桜上水の部屋で結婚指輪が欲しくて泣いた。

 僕にとって結婚というのは、社会的に見れば市民がたどり着くべきゴールであり、心理的に見れば誰かとの間の<形ある約束>だ。前者は望めないので後者を求めてきて、それは、あのディズニーの夜にひとつ叶ったわけでもある。

 左手の手首の、黒い腕時計。

 これは別に将来の約束ではないけれど、誰かと関係を結べているという事実が僕にとっては嬉しくて、そこへ来て「一緒に住もう」と言われたから、何となく、前者にも手が届くような錯覚を起こしてしまっていた。本当にはできなくても、せめて、気分だけでも味わったっていいんじゃないかと。

 ・・・本当の本当は、社会的なゴールも、心理的な約束さえも、意味はないって、分かってる。

 そんなのは上辺のきらびやかなお飾りであって、まばゆいけれども、結局そこにも実体はない。実物の婚姻届と結婚指輪があったって、それはただ見て触って安心したいだけのものであって、つまり、どうしても安心したい僕は、裏返せばいつも不安だってこと・・・。

 

 そして、「・・・ねえ、やまねこ、さあ」と、斜め後ろから、尖った声。

 鏡の中の、腕を組みかえる姿から顔を背ける。ついでに、Yシャツを脱いだら下のアンダーシャツにまでトマトが赤く染みていて、「俺はこんなに深く傷ついています」とでも言ってるかのようで恥ずかしい。

 そして、自分から発された声は、やけに事務的で乾いていた。

「うん、なに?」

 別に、黒井が結婚なんか眼中にないとしたって、そんなの個人の自由であり、僕がショックを受けるのもおこがましい話だ。

「一応訊くけど、さっきの話って、本当?」

「さっきのって、何?」

「お前と、女二人と・・・結婚が、どうこうって」

「ああ、一人はもう結婚してて、妊娠もしてて、もう一人も結婚予定で、だからそういう話題が出てた。・・・それが?」

「あのさ、『本当は、結婚したい』って、お前の声、聞こえたんだけど」

「・・・」

 ・・・そんなこと、やっぱり、言ってたのか。

 まったく、酔ってもないのに酔っ払いみたいだ。

「それさあ、ただ話合わせて盛り上がるために、適当に、ノリで言っただけ?」

「・・・」

 もしかして、黒井も僕の声にわざわざ聞き耳を立てていたのかなんて思うとちょっとこそばゆい気もしたけど、でも、そんなものは焼け石に水だ。

 黒井の声はもはや失望や軽蔑をこえて、悲しみすら混じっている。

 何だよ、自分が結婚したくないからって、僕の馬鹿な結婚願望で悲しまれる筋合いもない気がするけど。

「そんなこと言ったかな。でもまあ、多少は会話の成り行きで、いろいろ・・・」

「何なの?本当なの、そうじゃないの?っていうか何なんだよその態度、え?」

「・・・態度って、いや、お前こそ急に突っかかってきて何だよ」

「突っかか・・・、っ、なに、・・・い、いいから質問に答えろよ」

「なんで突然キレられなきゃなんないのか理由が分からない」

「・・・っ、はあ?お前こそ、何だよ、急に!」

「いや、そっちこそ何を訊きたいのか質問の意図も分からないし、べ、別に、俺の答えがどうだろうが、どっちにしろ、お前には関係ないだろ?」

「はあ?何が関係ないって?」

「だって、悪いけど、大声だったからこっちも聞こえたよ。お前が、『結婚なんか一生しない』ってさ・・・、お前は一生誰とも結婚しないわけだし、だったらこっちがどうだろうが、別に、何も・・・」

 言い終わる直前、黒井が息を吸い込んで、でもそれはキレる感じじゃなくて、震えるような緊張だった。

 ・・・。

 ・・・あれ。

 何となく、雰囲気に違和感がある。

 まさか?

 もしかして、もしかしたら、黒井が言ったのこそノリや成り行きのウソであって、クロは、僕の「結婚したい」もウソなのかどうか確かめたかったということで、つまり、ま、まさか、僕は今プロポーズ的なことをされようとしている!?

「なっ、なに?その、とにかく、それが何だっていうの?」

「・・・おまえは、結婚、したいわけ」

「・・・いや、だから、それは」

 ど、どうしよう、結婚したいですって、これ僕から言うべきなのか!?こんなに詰め寄られながら、今、このトイレで?

「言えよ。まさか、俺に何も言わないつもり?」

「あっ、それは、その」

「いつしたいとか、するとか、あるわけ?」

「いや、ま、まだなにも!」

「・・・でも、いつかはしたいってこと?」

「え、っと・・・」

「あのさあ、俺はさあ、結婚とか、元々興味ないし、これからもないし、誰に言われようと、誰とも結婚する気は一切ないんだけど」

「・・・え」

 あれ、やっぱり、振られた・・・。


 鏡の中の黒井と、目が合った。

 でもその目はすぐに伏せられて、「おまえは、ちがうって、こと・・・?」と小さな問いが漏れた。



・・・・・・・・・・・・・

 


 もしかして、クロの言う結婚と、僕の言う結婚が、何か噛み合ってないような気がして、だから誤解を解けばいいだけなんじゃないかと、そう思った。

 そして一瞬、その思いは共鳴して、何となく凍っていた空気が溶けて、二人とも同じ気持ちになったと思う。

 でも、だけど、黒井が何かの可能性に気づいて、諦めたようなため息の後、「なんか言われてるってこと?」と少し投げやりな声が響いた。

「え、言われてる、って・・・?」

 僕はすがるように訊き返し、そして、その答えを聞いた後、同じ色のため息をついた。

 

 ・・・親に何か、言われてるってこと?

 ・・・地元に帰って来いとか、見合いしろとか?


 ・・・。

 一瞬戻って来そうだった淡いアップルパイの匂いは全て消えて、今はただ、喉の奥が苦しい。



・・・・・・・・・・・・・



 さっき隣のテーブルで、僕は黒井の声しかろくに聞いてなかったけど、地元の新潟に帰った阿久津の話がそんなことだったらしい。今は一人暮らしだけど、ゆくゆくは実家から徒歩五分の新居、実家は二世帯で兄夫婦がいて、そこには娘が三人、でも男の子がいないので早くも期待されているとか。

 今度は僕が壁に寄りかかって腕でも組みたい気分だったけど、洗面台に手をついて鏡に映る自分の顔から目を背けることしかできない。

「もしかしてお前もそういうの、あるの・・・?」

「・・・」

「本当は結婚したいわけじゃないけど、しなきゃなんないとか、そういう・・・」

「・・・」

 ああ、うん、分かった。

 黒井が言ってる結婚は本当に現実的で実際的で法律的な意味での結婚であって、そういう話なんだったら、僕だってするつもりもないし、っていうかしたくたってできるものでもない。

 だからさっきの噛み合わない話はやっぱり誤解なんだけど、でも、今の黒井の問いはまた別の話であり、それを完全に否定することもできなかった。


 ・・・前に、電話で言われたことを思い出す。

 親父の具合が悪いから戻って来いとか、孫の顔が見たいとか、紹介できる人はいないのかとか・・・。

 何もかも有耶無耶で、お盆は他の人の家に行くから帰れないと言ったきり、結局何の連絡もしていない。

 ・・・紹介だなんて、できるわけがないだろ。

 夏休み、仲良くなった同僚の実家にたまたま遊びに行ったってわけじゃない。

 好きになった男の家族に会ってみたくて、それで告白されて帰ってきて、何を紹介できることがあるんだ。


「・・・ねこ、どうなんだよ」

 促されて、自分が頭を抱えたまま固まっていることに気がついた。

 まったく、これじゃまるで、しばらくしたら俺は実家に帰って親の面倒を見ながら身を固めます、それは変えられないので悩んでいますとでも言ってるみたいじゃないか。

 ・・・そんなつもりは毛頭ないしそれほど具体的な話でもないわけだけど、でも意味合いとしては、結局親からはそういうことを期待されているんだろう。

 ただ、「そう言われているけど断っている」のか、「そう言われていて何となく受け入れている」のか、後者じゃないと言いたいけど、でも決して前者とも言えない。

 このスーツと同じように、何となくいつの間にか押しつけられて、でもはっきり否定することもできないでいる。

「ねえ、何だよ、どういうこと?」

 訊かれて、何か説明したかったけど、口が開かなくてただ首を横に振った。

 親の話はしたくもないし思い出したくもないし、そして、意味はともかく「付き合っている」と報告済みの黒井のお母さんと比べたら、こっちはまだ何もかもを隠していて、それは後ろめたくて申し訳なくて、そのことに向き合うこともできないのがさらに情けなくて顔が上げられなかった。


「やまねこ、お前さ・・・」

 黒井が、後ろから近づいてくる気配。

 でも、その声はもう尖っていなかった。

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