第24話:失恋、年が明ける
ツタヤに寄ってみても、何も目に入っていない。コンビニに寄っても食欲はゼロ。
結局何も買わずに家に帰った。
一度腰を下ろしたら固まったまま何も出来なさそうだったので、とにかくシャワーと着替え、歯を磨くところまで済ませた。
あとは、布団に入る。
テレビでも見ようなんて、やっぱり、これっぽっちも思わないじゃないか。
眠ろうとしても、何かを考えてしまいそうだったので、絶対の意志で、羊を数えた。いつの間にか、寝た。
翌日は午後に起きて、何もする気がないままカップ麺を作るも、匂いだけで気持ち悪くなり、おかゆで済ませた。頭が麻痺しているうちに、と思って、すぐ寝た。何度かトイレに起きて、そのうち、昼夜の感覚が分からなくなった。
テレビもつけず、携帯も見なかったので、本気で今日が何日なのか分からない。アナログ時計は五時半を指しているが、この暗さは朝か?夕方か?前寝たのは何時だったっけ?カレンダーを見つめたって、答えてはくれない。ピーといって電池が切れ、携帯も死んだ。はは、一人になった。いや、前からか。
飽きるほど寝て、頭痛でまた寝た。トイレ以外の全てのことが滞っている。こんなの生活じゃない。
僕は、自分を見失った。
指一本、まともに動かせない。どうやってやっていたのか、思い出せない。
義務的に炊いた米を噛んで飲み下し、頭痛薬を飲む。
薬で頭がぼうっとして、また、耳鳴り、そして幻聴。やがて妄想と幻覚のはざま。
自分の危うさが少しだけ分かる程度にはまともだが、それ以上にはならない。夜、近所が騒がしくなったときに、もしかして新年ってやつかもしれないと思った。
そういうの、まだやってたんだ。
遠い世界。
こんなんじゃダメだと思って何度か、何かをしようとした。思いっきり泣ける映画を見たり、中毒性の高いオンラインゲームでもやってみたら?
でも、すぐに、思考は先回り。
映画を見終わったら、その次の一時間をどうやって過ごせばいいの?
ゲームをやり続けて、レベルが上がって課金して、何を目指せばいいの?
ねえ、その先のひと時も、どうせ今と同じ気持ちでしょ。
なら、何をしたって、意味ないじゃん。
何も、変わらないよ。
感情の起伏がない。擦り切れている。自分を責めても、慰めても、全てが他人事。
薬を飲もうとしてケースで手を切り、すっぱりと切れた皮膚を眺めて何分か過ごした。血がにじんで、固まる。一連の変化を見届けて、絆創膏を貼った。それをしている間だけ、落ち着いていた。奥にある何かを表面上に見る代償行為。よく言うリスカってこれ?と思い当たったときだけ、少し驚いて、感情が動いた。伸びきったゴムのような気持ちに一瞬弾力が戻ったが、それも、その時だけ。すぐ元に戻る。もがくことすらない、アリジゴクの底の底。
一度だけ外に出て、無理矢理に雑誌を買ってきた。
ぱらぱらと眺めて、その時は普通に読んだ。へえ、とか、何それ、とか。
読み終わると、それきりだった。
昔のマンガも引っ張り出してみたが、結果は同じ。やればやるほどむなしくなる。たぶん今宝くじが当たろうが、女とセックスしようが、僕の弾力は戻らない。ちょっとずつ試したって、その結果の確からしさを証明するばかりで。
これって、鬱病?
うん。気づいて驚いたときだけちょっと新鮮。でもそれだけ。やっぱり、それだけ。
何病だって、もうどうでもいいよ。
ああ、次の一分一秒を、どうやって生きたらいいんだ。
どうしてこんなに、馬鹿馬鹿しくて深刻なんだ。
傍から見れば、男が一人、家でごろごろ正月休みを過ごしているというそれだけのことだ。それ以上のことなど何も起きていない。
でも、僕の中身はもう、何もない。
今まで誰かいたはずなのに、もう空き室で、戻ってはこない。がらんどう。
どうしてこうなった?
僕があまりにも弱いだけ?
反省して努力してやり直すとか、そんな元気はない。あはは、何たって、もう、起きていたって、自分の頭の重さを支えるのが精一杯なのだ。気を抜くとすぐ、眠くて舟を漕いでるみたいに倒れてきてしまう。眠くないのに。
あれ、どれくらい寝てない?もう分からない。
常に胸が締め付けられてる感じ。おしっこしてる時だけ、気が楽。やらなきゃいけないことをちゃんとやっている実感。十秒くらいで終わっちゃうけど。
会社は、辞めるっきゃないなあ。
こんなんじゃ、行けないもん。もう、どこにも。
僕はもう終わったんだ。営業終了。お疲れ様でした。何の感慨もないけど。
まだ死ぬ気はしないけど、孤独死とか、迷惑掛けて、ごめんね?
・・・本当にどうしちゃったんだよ。聞いても答えはない。人生につまづいたとしか、言いようがない。
会社とか、生活とか、全部ほっぽって、無人島にでも行けばいいのかな。
貯金全部下ろしてきて、北海道の山の中で暮らそうか。
やれないことじゃない。物理的に、出来ないことはないんだ。
でも、たとえそれが全てとんとん拍子に出来たとしても。
その時、僕は今と同じ顔して、ベッドだか草むらだかに寝てるだけだ。場所が変わっただけ。会社員という肩書きを捨てたって、何も変わりはしないんだ。地球上のどの緯度、経度にいたって、僕の胸の心臓が、アリジゴクの底の底なんだから。
だから、こうやって、中途半端に布団に転がっている。何時間姿勢を変えてないんだろう。どこかが痺れているけど、それがどこだか分からない。
・・・はくしゅん。
あ、寒いのかな。暖房も入れていない。
くしゃみの瞬間だけ、おしっこと同じ、何かをしている実感。これも、一秒で終わっちゃうけど。
何をしても今と同じなら、何をしても無駄だ。
意味がないなら、意味はないか。
どこにもいかない堂々巡り。もう、尿意さえ、よく、わかんない。
少し眠った。足先が冷たいまま、感覚がない。エアコンのリモコンを目で探すが、見当たらない。諦めた。別に温まったって、この状況がよくなるわけじゃないし。足なんか、冷たくたって、温かくたって。
しばらくタブーにしてきたけど、もう、黒井のことも考える。
あいつが悪いんだとか。
あいつは悪くないんだとか。
もうどっちでもいいのか。
今、突然ドアを蹴破って入って来て、僕を抱きしめてくれたらいいのに。
ちょっとだけ、鼓動が速くなる。
でも、それだけだから、まあ、それだけだ。
鼓動が戻る。
まさか、携帯にメールが入ってたり、しないかな。でも電源を入れて何もなかったら、もう完全に立ち直れない。あれ、まあ、今と同じか。じゃあどっちでもいいか。
どっちでもいいなら充電をしようと思うが、体が動かない。鞄のある玄関まで行く体力もない。首すら動かないのだ。立って歩くなんて、無理。
いいじゃないか、失恋ってことで。
相手が男だろうが女だろうが、片想いの相手とうまくいかなくなった、それだけだ。僕の恋が間違っているとか、理由にならない。米山さんと同じだ。ただダメだった、ってだけ。みんなそれを乗り越えてるけど、僕は棄権しそうってだけ。
さて。
もう考えるネタもないな。
息でも、するか。
吸って、吐いて。
眠くもないし。
食欲もない、性欲もない。
何もしたくない。
うん、何もしてない。あれ、欲求は満たしてるのに、つらいな。何でだろ。
また、羊でも数えるか。今は、羊だけが、生き甲斐だな・・・。
・・・・・・・・・・・
頭がかゆくなって、ようやくシャワーを浴びた。風呂を沸かす気はしなかった。とにかく頭と顔を洗う。久しぶりだなあ。少しだけさっぱりする。でも、さて、さっぱりした体で、これから何をすればいい?うん、気持ちよかったなら、もう一度入るか。たぶん、そうしたら、今後一生、僕は永遠にシャワーと脱衣所を行き来するだろう。もう、一歩足を出すにも、指針がないのだ。
裸でしばらく突っ立って、ここで抜いちゃおうかなんて考えて、握ってみても、何も感じなかった。
だめだな。もう、どこへも行けない。
どうしちゃったんだ。百回目の問い。答えは出ない。
放っておいたら、本当にいつまででもここに突っ立っているだろう。ここで裸で突っ立っているという、この状況以上に良い状況が思い描けないのだから。
・・・服くらい、着るか。
裸より少し良い状況だろう。それくらいは認めても構わない。なら、クロゼットの方に歩けばいいんだな。たぶん、また十秒後くらいに何かを着たら、この指針も終わってしまうけど。
クロゼットの前に脱ぎ散らかされたスーツ。あの夜から一ミリも変わらずここに脱ぎ捨てられている。
黒井の、ネクタイ。
手を伸ばそうとするけど、どうせ離すんだと思ったら、握っても意味ないかと思った。
まあ、そういう、使い方をしないなら。
いやいや、首とか吊れないよ。疲れちゃう。
そうと決めれば、生き甲斐も出来るんだろうけど。
結局数十秒ネクタイを見つめたまま過ごした。さて、ここからどうするか。
せっかくここにいるんだ、何か、出来ないか。
服を着て、出掛ける。
どこへ?
コンビニに行ったって、帰ってくるだけだ。三十分後にまたここに立ちすくむのだ。意味がない。
もっと、遠く。
海にでも、行く?
たぶん、砂浜に立ちすくんで朝が来て夜が来て、どうにも出来ない。
黒井のうちに押しかける?
物理的には出来るんだけど、今の僕には、黒井を前に言う言葉が何もない。
「それで?」って、言われたら。
帰ってきて、またここに立ちすくむだけだ。じゃあ行っても変わらない。
でも、何か、しなくちゃ。
足が、せっかく温まったのに、すぐに冷えていく。でもまた風呂に入っても、また同じこと。
だめだ。
何かを決断して実行する以外にない。何でもいいから。
何十秒か逡巡して。
落ちているスーツを、そのまま着た。冷たい。
黒井のネクタイはポケットに突っ込んで、皺だらけのスーツで、部屋にいても仕方ないから強制的に家を出る。うん、それが狙いだ。行く以外ないなら、行く以外ないのだ。
鞄は持たず、財布だけ。カードがあるから、とりあえずどこへ行っても何とかなるだろう。
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