(4日目:突然の告白、クロらしくない黒井、僕らしくない俺)

第263話:許された山猫

 やがて黒井は運転席にまわり、エンジンをかけ、車を出した。

 振動が心地いい。ワイパーの音が規則的で、もう眠りに落ちそうだ。

 何も考えたくなくて、ぼんやり眺めるワイパーが頭にインストールされて具現化し、きゅるきゅると左右に振れて僕から思考を遠ざけてくれた。

 目を閉じて、やがて黒井の声が聞こえる。「あのね、ほんとは・・・」って、その声が気持ちいい。


「お、俺、・・・ほんとに、今思い出したんだけど、実は、その、・・・キスを、してたんだよ、さっちゃんと」


(・・・なんだ、やっぱりあの寝言の『さっちゃん』と、キスはしてたんだ)


「小さいちゅう、だよ。あれは線香花火のことじゃなくて、俺たちがしてたことで、まるで、それに似てるって、だからそう呼んでたんだ。・・・その、それで、えっと・・・あの家でもしてたんだから、小学生、か。さっちゃんは、中学生、で。俺は、・・・あーたんって、呼ばれてた。そんなことも、今思い出した・・・」


(・・・あーたん、ね。ああ、線香花火、それであの時あんなに照れてたのか)


「あれは、確か仲直りのしるしでさ、俺がいつも機嫌直さないから、さっちゃんが『ちっちゃいちゅしたらなかなおり!』って・・・。たぶん幼稚園の前からとかだから、変なこととも思ってなかった・・・。ほんとに一瞬、唇の先が触れるか触れないかのキスで、小さければ小さいほどいいっていう・・・はは、でもどっかできっと、恥ずかしいし、イケナイことだって、思ってたのかも。だから俺は、キスなんてふつーだって、そんなの誰とでも、男とだって出来るって、いつの間にか、そんな風に・・・」


(いつも『キスくらい』って・・・ああ、帰国子女だの、何の関係もなかったんだな)


「ほんとにこんな、・・・こんな風に、なるとは、思わなかったけどさ。・・・ねえ、俺たち何回くらいキスした?・・・いや別に、お前が男だからしたとかないよ。そんなの関係なく・・・したかったからしたんだよ俺」


(回数は今覚えてなくて悔しいけど・・・おれだって、したくてされたくて、今だって・・・)


「ねえ、ねこ、寝ちゃった?・・・俺、ね、お前のこと・・・」


 ひろふみじゃなくて、こうじでいてほしいって、思ってる、みたい。

 だってお前は、おれの、やまねこじゃん・・・。

 それは、僕が言ってほしくて紡いだ幻聴だったのか、どうなのか。


 ふと、もういつ言われたのか昔のことみたいだが、僕が自分のことを「俺」じゃなく「僕」と言った云々について、何だか、思い出した。

 僕は、小学校でみんなが自分のことを「オレ」と呼び始めるのに乗り遅れて、というかそんな風にはなれなくて、ようやく中学に入るタイミングでこっそり「俺」デビューを果たした。しかし家ではそれが出来ず、だんだん主語もなくなっていって、でも自分を主語にして主張しなきゃならなかったのが、「学校を辞めたい」。

 <そういうのはだめなんだぞ>の<小二の僕>と<ひろ、甘えすぎだ>の<高二の僕>は地続きで、一人称の変更や反抗期で区切りがつくこともなく、隠したい、だめで甘えすぎな<僕>としてずっとそれは心の奥にあった。

 しかし、ミステリや小説では大人だって普通に<僕>という一人称で喋っていて、だから高二以降は、ミステリがすべてを塗り替えてくれた。家や思考の中での<僕>呼びも、僕の気持ち悪さも幻覚も金縛りも自殺願望も、本当はそうじゃないけど、「ミステリ小説が好き」という概念を経由すれば世間に立派に通用して、だから僕はその影に隠れて大学を卒業し、生き延びてこられた。

 黒井は、その欺瞞を、許さないようだけど。

 でもそれってたぶん、僕のことをただ知りたいって意味で。

 それに対し、今の僕はもうあまり、隠したいとは思っていなかった。


 そのうち黒井におぶられる感覚があって、離すな、つかんでろ!と言われながらどこかを上がって、どすんと落とされたら、もう寝た。寝た。夢も見ない。夢で死んでる場合じゃないんだ、眠いんだ俺は。



・・・・・・・・・・・・・



 ・・・るですよ、・・・って、もう・・・。

 ・・・ますか?どうしますか・・・?

 ガラガラ、と雨戸が開いたようで、眩しい、眩しい・・・。すう、と少し湿ったにおいが入ってくる。まだ眠い。暗いところ、もっと落ち着くところ・・・。

「うーん・・・」

 黒井の肩から、もう少し下へいって、胸に顔をうずめ、体を横向きにして丸める。一番落ち着いて気持ちのいい体勢。でも、膝で黒井を蹴らないように気をつけないと。そして俺も、蹴られないよう気をつけないと・・・。

 まだ眩しくて、布団をずり上げ、すっぽり頭からかぶった。クロの頭まで入れてやる。ああ、一緒だね。ここは潜水挺?もっと潜ろう、二人で深海生物を見よう・・・。

「まあ、暑くないんですか?まだ寝る気かしら」

 ちょっと、俺たちの船だから、ほっといてよ。

 掃除機なら後にして。今、気持ちがいいから・・・。

 ・・・。

 ・・・誰?

 部屋に、誰かいる。誰だっけ。

 ここはどこ?いつ、どこで、どうやって、ここは・・・。

「・・・あ、す、すいません!」

 飛び起きた。とりあえず謝る。誰だ、何だっけ、遅刻!?

「ね、寝過ごして、すぐに、えっと・・・!」

 和室だった。畳、押入のふすま、それから、和服の・・・。

「やっと起きましたか?あの、ちょっと出かけてきますから、お留守番しててくださいね。夕方には戻ると思うけど、お昼は適当に用意しときましたから、食べてください。それじゃあ行ってきますよ」

「は、はい、行ってらっしゃい」

 引き戸が閉じて、タン、タン、と階段を下りる音。やがて車の音がして、誰かが玄関に来て、「こんにちはー」「あらどうもー」のやりとりの後、ドアが閉じて、ガチャリと鍵がかかる。また車の音、そして、静かになった。

 僕は起こした体を静かに倒して、元のところにおさまった。


 そうか、夏休みだ。

 島根の家に来てるんだ。

 クロは隣で寝ていて、僕が頭の位置を少しずらすと「んん・・・」と手が伸び、それは僕の胸の上に置かれた。手のひらが一瞬動いて、ああ、隣の女の子にそうやってたわけ?少し口を開けて、気持ちよさそうに寝ている。明るいところで久しぶりに見ると、黒井は無精ひげを生やしていて、髪も乱れていて、こんな顔立ちの人だっけ、という感じ。唇は乾いて、でも鼻筋がすっと通って、やっぱりかっこいいんだ。

 僕は真上を向いて、天井の木目を見ながら、ただぼうっとした。あと五分、あと五分は、何も考えなくていいかな。このまま黒井に僕の心臓の音を、肺の上下を感じてもらいながら、あと五分、このまま生きていてもいいかな。

 ・・・五分を計っては、いないんだけど。

 つい自分に甘くて、結局十分だったり十五分だったり、でも永遠でないなら、どこで区切っても同じだけど・・・。

 何かがふっと身体の中でわきあがって、ぐるぐるして、胸がぎゅうと押さえつけられる感じがして、でも、黒井の手があるから大丈夫だった。大丈夫、落ち着け、俺にはクロがいる、信じても、いいんだ、いいって言った、だから大丈夫だ・・・。

 ・・・<甘えすぎだ>。

 違う、違う、いいって言った、クロは僕を許してくれた・・・!

 涙がこぼれないように、懸命に瞬きをしてこらえた。喉にせり上がってくる嗚咽を噛み殺し、にじむ視界で木目の模様だけを見つめた。



・・・・・・・・・・・・・



 だいぶ後から、一つの布団で抱き合うように眠る姿を思いっきり見られてしまった、と気づいた。あ、やっちゃった、でも、何だかあまり気にされてなかったような。

 ・・・さて。

 起きて、用意してもらったご飯を食べて、・・・もう、明日は帰る日だ。

 これから顔を洗って、歯を磨いて、シャワーを借りて・・・、ああ、やるべきことはいつものように一つずつ僕の前にやってくるけど、ちょっと、今はまだ、この一日を、次の一時間を、どうやって生きたらいいのか指針がよく分からない。クロに任せたいけど、またお前のやりたいように、なんて言われたらどうしよう。

 ああ、持ち帰った肝試しの品があった。

 あれを見ようか。まるでもう夢みたいに感じるけど、あれは現実だったんだろうか。

「んんー・・・」

 隣で黒井が伸びをして、うう、とうなり、ふっと力を抜いて、次の瞬間、「うあっ、ね、ねこ、やまねこ!」と掠れた声を絞った。

「ど、どうしたクロ」

「お、お前、ちゃんと」

 体を起こして、両手で僕の肩や腕をさぐる。

「よかった、ちゃんといた。もう行っちゃったかと、俺、ああ、よかった、先に行っちゃったかと・・・」

「大丈夫だ、いるよ。帰るのは明日だ、まだいるよ」

「・・・ああ、もう、明日のことなんかいいよ。今はもう・・・」

「あの、クロ・・・」

 黒井は僕を抱き寄せて、背中に手を回し、その頬を僕の首元になすりつけ、「よかった。それに、それに・・・」と言った。

「・・・それに、なに」

「なんか、俺、お前を知ってるみたいな感じがする。ずっと、前から、知ってたみたいな」

「・・・う、うん」

「お前はずっと、俺の一部だったみたいな感じがする」

「・・・うん」

「俺のやまねこ」

 ・・・。

 僕は、ああ、あの時死ななくてよかったなと思った。黒井の身体は温かくて、僕の好きなにおいがして、焦げ茶色の髪が綺麗だった。

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