第262話:隠されていた記憶

「それくらいのこと、って言われた。ねえ、お前は学校を辞めたいって思ったことある?それを親に言ったことある?」

「・・・え、え?・・・あ、あるよ」

「どうなった?何て言われた?」

「や、辞めて、何がしたいのかって」

「・・・それで?」

「えっと、何だったかな、世界をめぐって、こう、動物とか、自然とか研究する、博士になりたいって」

「はっ、ずいぶん幼稚な夢だな、それ小学生?」

「・・・な、わ、悪かったな、それが金髪高校生だよ!」

「はあ?そんなの、無理っていうか、聞く耳持たれるわけないだろ。・・・で?馬鹿にされて終わった?」

「そ、そりゃ博士は無理だったけど・・・結局それで、あれこれ話して、・・・ドイツに行くことになった。まー君が・・・あ、その、叔父さんが、いたから」

「・・・はあ?何それ。お坊っちゃまは違うね。ドイツにいる叔父さん?そういうのって実在するんだ。・・・で、結局学校は?」

「・・・高校を、留年して、一年の予定だったのを二年にしたからいろいろあって、結局戻ったけど中退で、うちで勉強しながら大検受けたりで」

「へえ、そんなに無茶苦茶したのに、よくこんな、家族でお盆なんか・・・、ああ、そうか、女性陣は味方してくれたんだな?親父さんと戦った?」

「・・・え?戦ったっていうか、まあ、それがいいそれがいいって追い出されたっていうか、ドイツで時計の職人になれとか言われて、興味ないって突っぱねたら拗ねるし」

「・・・」

「叔父さんの方が、俺のこと分かってくれて好きだったんだよね。もっと、芸術とか、哲学とか、西洋のそれだけど、分かっててさ。いつもそういう話してくれて」

「・・・」

「あ、いや、だから、俺の話じゃないってば。で、お前は何で学校辞めたかったの?」

「・・・お前みたいな、ご大層な理由じゃないよ」

「・・・ねこ、どうしたんだよ。突っかかってきたって、キレないで聞くよ」

「だからその猫っていうのは何なんだ。そんなかわいらしいやつはここにはいないだろ。ただ・・・ええと・・・、友達がいないから、学校は嫌だって」

 僕はそして、あはははは!と乾いた空笑いをした。声に出して言うとなんて情けないっていうか、馬鹿だ、そいつは馬鹿だ!

「いや、お恥ずかしいね。まったく、申し訳ない。博士の方がよほど、よっぽど、高尚で素晴らしいよ。さっきは馬鹿にして悪かった。このとおりだ」

「・・・やめて、よ」

「いやあ、何だろう、その後ミステリに逃げたんだろうね。ほら、周りの誰も読んでない、ちょっと難しそうな本?そういうの読んでるヤツだって位置づけで自分を確立して、誰も訊いてやしないのに、一人でいる理由を、大義名分をひねり出して・・・」

「え、な、何でだよ。お前、一人で何でもやるんだって、一人の方がいいんだって・・・」

「そりゃ一人の時間は一人がいいけど、学校でみんなといる時間なのに一人だったら気まずくて、そんなのうまくやれないダメ人間の恥さらしだろ?あの時、なぜだか急に、原因もないのに本当にふいに孤立して、それでクラスの誰が俺と口を利かなくなって、誰と誰が体育館まで一緒に移動しなくなったかなんて、そんなことを毎日気にしてるんだぜ?どこのアホだよ。昼休みは、国語の、古文の教科書を読みながら一人で弁当を食うんだ。そのうち、パンを五分で食って寝るようになった。グループ作る時とかだって、どうやって誰に入れてもらおうかって散々悩んで作戦練ったりして・・・。でも、夏休みが明けたら、もう大丈夫だ。俺はミステリに救われた」

「そう、か・・・。で、でも、どうしてそれが、ミステリなの?結局俺が訊きたいのはそこで、別に、ゲームでも、歴史でもSFでも何でもよかったの?」

「・・・さあ、ねえ。死体が出るのがよかったんじゃない?」

「だから、何で・・・」

「友達がいなくて、みんな死ねばいいと思ってたんじゃない?」

「・・・」

「はは、ドン引き?お前には及びもつかない人生?どう、好奇心は満たされた?面白かった?」

「・・・だ、だから、俺は」

「しつこいな。俺はあの時、もう無理だと思ったんだよ。これ以上まともには生きていられない、ごく普通の学校生活を送るなんて俺には到底無理な話じゃないかって、どうして自分は今精神病院にいないんだって、愕然としたんだよ」

「・・・と、友達が、いなくて?」

「それはまあ、きっかけというか、表面の事象で、でもそれでもっと本質的なものに気づいたんだよ。俺はみんなと何だか違うし、みんなの言ってることの、事実とか理論理屈以外の部分がよく分からないし、どこか違うところに生きてるって。でも、精神病院ですら無理だと思った。部屋のじゅうたんをじっと見つめたまんま、出家して山にでも籠もるか、でもそれも無理そうで」

「・・・」


「死のうとしてた。自殺、しようと」

「・・・」

 僕は、うちで死ぬのも、もちろん学校も嫌で、それで、何の関係もない場所を探していた。

 あれは高二の七月、期末テストの前。学校は早めに終わるから、ただ、首をくくれそうな場所を求めて知らない駅で降り、住宅街をうろうろしていた。日中の日差しが暑くて、セミが鳴いて、カバンはテスト勉強のための教科書や辞書で重くて、熱射病の頭痛で朦朧としながら、それでも陽が傾くまで何日も探した。学校を辞めるのが<甘えすぎ>だというなら、あとは、死に場所くらい一人で見つけるしかない。

 だって、たとえ学校を辞められたとしたって、でも、精神病院だろうが何だろうが毎朝起きて、食べて寝て、社会も生活も続く。結局<頑張り続けないと>生きていけない。理屈ですべて理論武装して、毎日気を抜かずにふせんを貼り続けないと、いとも簡単に脱落してしまう。

 僕は学校になじめなかったというよりも、<この世>になじめなかったんだ。


 結局、安心して死ねる場所もなくて、僕は本屋でたまたま手に取ったミステリに着地して、その中でいくらでも、死んで、殺して、殺されて、発見して、どうして死んだのかを日記を見られるみたいに探偵に推理され、懇切丁寧に説明され、自分を切り裂かれるように真相が暴かれて、僕はその渦に吸い込まれていった。

 本の中の死体や異常な犯人たちにまみれていると、自分がいるところはおぞましい異界ではなくふつうのことなんだと思えて、安心した。死体がグロければグロいほど、犯人が異常であればあるほどよかった。学校や社会なんかより、僕にとってはよほど健全でまともで理解ができる場所。社会から無言で要求される共感とか思いやりとかを持つ必要もなくて、それが僕にはないってことを補うために理論武装しなくてもよくて、残酷で非情であっさり死ねて、社会のためにやってる理論武装を<冷たいところがある>とか言われなくて済む場所。

 ・・・いや、本当は、それだけじゃない。

 罪悪感を、消してくれたんだ。

「僕の罪悪感を消してくれたんだよ。これでいいんだって自分を肯定できた。死のうとしてた罪悪感、決行することもなくのうのうと生きてる嫌悪感、・・・いや、本当はもっとある。もっとあるんだ、もっと昔に、見たくない、見たくもない・・・」

 黒井は僕に手を伸ばしたが、僕はそれを振り払い、突き飛ばした。お前が触っていいような身体じゃない。僕は汚れている。

「汚くて気持ち悪い死体だって、でも死んでしまえば意識はなくなって、ただの物質になって、だから、物理も、俺を安心させてくれたんだ。俺だって死んだら、こんな汚い中身が出ても、誰に見られたって、でも俺はいないんだから、綺麗も汚いもない、ただの物質で・・・」

「お前は汚くなんかないよ。どうしてそんなこと言うんだ、俺、そんな風に思わない・・・」

「汚いんだよ!気持ち悪いんだよ!だから罪悪感を感じてるんじゃないか。だからいつも、だめだだめだって自分を抑えてるんじゃないか。そうじゃなきゃ、お前みたいに奔放に生きたいよ、生きてるよ。そうなってないのは、だから、そうだからだ。物事の因果だ。帰結だ」

「お、俺、お前を苦しめてる?俺がいると、お前はつらくなる・・・?」

「気にしなくていい、これは俺の問題だ。俺の人生だから、俺が全部責任を持って引き取る。お前には責任も、何も、及ばない」

「ああ、またそれだ。一緒にやるって言ったのに、違うの?俺は、お前の人生に登場してないの?こんな、いろいろやってきたのに、そんなのってひどくない?」

「ひどいかひどくないかは知らないし、逆に、そこはお前の責任で何とかしてくれ。俺は元々こういう人間だし、俺はお前から何か頼まれることはあっても、頼んだ覚えはない。俺からは何も頼んでないはずだ。だって俺はそんなことを言われないために、絶対に、極力自分からは何も言い出さないようにしてるんだから」

「・・・っ、お、俺には、言えよ。お前のこと汚いなんて思ってないし、そんな、後から責めたりしない。いいじゃんか、な、何なんだよ!?」

「さっきキレずに聞くと言った」

「・・・っ、てめえ、もう!」

 黒井は今度こそ僕の肩を窓に押し付け、揺さぶり、上から押さえつけた。僕は半分座席からずり落ちながら、黒井を見上げた。

「・・・俺のこと、信じられるって、言っただろ。あれは嘘?お前は嘘つきなの?」

「・・・そんな、ことは」

「だったら信じろよ。それこそ自分の言葉に責任を取れ!」

「信じることと、俺の人生の範囲を自分で決めるのは別のことだ」

「くそ、理屈ばかりこねやがってド畜生・・・、もう死ねよ、お前なんか俺が殺してやる」

「・・・鞄に、果物ナイフが・・・俺も、くすねてきた」

「はは、いい根性」

「上等?」

「上等じゃねえ!」

 ・・・っ。

 黒井が拳で、エア・ナイフを僕の脇腹に突き立てた。ぐっ、苦しい、寝た体勢で、前かがみに体を折れなくて、ただ痛みに耐えるしかない。拳はあばらの上をごりごりとこする。へえ、刺した後、中をぐりぐりする気なんだ?趣味がいい!

「・・・っ、う、ううっ、え、演習は、終わりか?どうぞ、本番を・・・」

「もう犯してやるかこの野郎」

「・・・それも、いい。めちゃくちゃに、してくれ」

「・・・じゃあ遠慮なく!」

「・・・っ」

 太ももに膝が食い込んで押さえつけられ、シャツの下に手を入れられて、優しく這い回ったかと思うとさっきの脇腹をぐいとつかまれ、息が詰まる。上から身体ごとのしかかられて、狭い座席で身動きは出来ない。「覚悟しろよ、抉ってやるから」と耳元で低く怒鳴られ、荒い息で耳を強く噛まれた。そしてとうとう股間に伸びた手が、ズボンの上から僕のそれを乱暴にまさぐる。

「・・・どうだよ、こんなことされて!」

「したいなら、何でもしろ。構わない、何をされたって」

「勃ってんじゃんか」

「仕方ない、不可抗力だ。僕が触らせたんじゃない・・・」

「同じだ、お前がそうさせた。同じことだ」

「違う!俺は身動きが取れない。俺じゃない。俺じゃない・・・!」

「こんな時だけ逃げんのか?別に、いいだろ、認めろよ・・・!」

「う、あっ」

「気持ちいいですって、認めろよ!ちゃんと人間だろ?いつまでも他人面してないで、触ってくれって言えよ!」

「誰が、言うか・・・!言ってない、そんなこと言ってない・・・、気持ちいいよ、でも触らせてない。違うんだ、僕は見せただけだ。悪気はなかった、そんな気はなかった。触ってくれなんて言ってない。あそこに違うものがついてるって言うから、見せてやっただけだ・・・!」

「・・・」

「お願い、もう許して。悪気はなかったかって、それはもうわかんないよ。あったのかもしれない。僕は変態だったのかも。でも、お前とこうしてるのだって、男同士でヘンタイなことしてるのだって、・・・でもこれは違う。俺はきっと、男ならいいと思ってる。男同士、見られたって、触ったって、罪にはならない、怒られない。お前は男だし年上だし、される分には、俺が悪いことにはならない・・・え、だから俺、お前とこういうことしたいの?いや、違うと思う、思いたい!」

「・・・お前」

「・・・大丈夫だ、分かってる。ちゃんと分かってるよ。別に、無邪気に、何も分かってない鼻タレのガキみたいに、そうしたわけじゃない、あれはもう二年生だよ。あの娘は登校班の一年生だった。僕に罪はないのに誤解されて可哀そうって話でもないんだ。僕はもう分かってた。それがイケナイ行為だって、あの娘がびっくりして、僕のアレに手を伸ばして、じっと見開いた目を見て、ちゃんと分かってた。そういう欲求があるんだ。僕は自分を見せたいんだ。気持ち悪い、他人に理解できない自分を、本当は見せてやって、怖がらせてやりたいんだよ。・・・だから、見られたくない。自分から何もしたくない。されるのはいいんだ。強く押さえつけて、僕が抵抗できないように、俺からは何も出来ないように、そうやって犯して。タオルで、腕を縛ってよ。目隠しと猿轡もしてよ。水責めもいいよ、今度は足が、つらないように・・・」

「・・・できない」

「しなくていい。放っといてくれ。いつの間にか親が知ってたんだ。告げ口されたんだ。そういうのはだめなんだぞって、でも具体的に何がどうだめかは言わないから、僕は泣いてごめんなさいを言って、でも何に謝ってるんだろう、きっととにかく僕が気持ち悪いのがだめで、もう存在自体だめなんだろうって・・・」

「そんな」

「だから絶対、もう絶対、何も、何一つ漏らすもんかって、でもわかんないから、ルールがあるなら絶対それに従おう、理論理屈どおりなら誰からも責められないって・・・なあ俺って気持ち悪いんだよ、でも頭の中だけ、思うだけなら、考えるだけなら・・・!」

「もういい、もういいよ・・・!」

「捨ててくれ、どっかへ。さっきのとこ、奥の、手術室に、置き去りに」

「・・・お前、しゅじゅつしつって、言えてない」

「え、俺、何て言った?」

「しゅるつしつ」

「いいじゃん、惜しいよ」

「言えるまで連れてかない」

「しゅじゅちゅしちゅ、しゅるつすつ、しゅーつしつ・・・?」

「全然だめ」

「しゅじゅつしちゅ・・・言えないよ」

「言えないね、下手くそだ。キスしてあげる」

 ・・・。

 同情、なんだろう。僕が変態だって言ったから、自分もそういうとこがあるんだって、慰めてくれてるんだろう。黒井は親切なんだ。

 舌が熱い。お前の味がする。

 ・・・甘い、苦しい、気持ちがいい。

「・・・っ、ねえ、また、飲ませてよ。喉が渇いた。お前の唾液、飲ませてよ・・・」

「だめだ、ねこ、今度は俺にちょうだい。お前から、そうして」

「何を聞いてるんだ、だから、嫌だって」

「俺になら大丈夫だ。ねえ信じてよ、俺には見せてよ。俺は見たいし、そういうお前が欲しい」

 そう言って黒井は僕を抱き起こし、真正面から向き合って、濡れた唇がまた重なった。

 僕はだいぶん躊躇いながら、しばらく唇だけを合わせていたけど、やがてわいてきた欲望のまま、自分のそれを黒井に流し込んだ。ごくりと飲み込む音で力が全部抜けて、僕は黒井の肩に頭を預けた。

「・・・クロ」

「なに」

「肝試し、怖がらせてごめん。俺の気持ち悪い世界、やっぱりお前に見せてやりたかったんだよきっと。あとあれは虫が死んだんじゃなくてまた俺の耳鳴りだったんだ。右耳が、おかしいんだよ。でもお前に噛まれて、痛くて気持ちいい・・・」

 黒井は僕の頭を自分の肩に押しつけて髪をなで、そのまま右耳を指でなぞった。低く掠れた囁きで「俺には見せて、俺だけに、見せて・・・」と繰り返すので、ひたすらに僕のそれは熱く疼いて、本当に見せたくて仕方がなかった。

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