第127話:今、恋をしていない
うわ、お前、これまずいって!
そう、言われると思った。
その、ちょっと引いた感じが嫌なんだよね。あり得ないミスをやらかしたときみたいな、相手が壁を作る瞬間。ミスなら相手にも迷惑かけるかもしれないし、こっちが悪いんだからしょうがないけど、こんな、ただ僕が自分で怪我しただけのことで、「うわ」って言われたくない。別に保健室に付き添えなんて誰も言ってないし、僕が痛いだけで他の誰にも迷惑かけてないのに、まるで僕が悪いみたいな雰囲気になる。・・・だから、痛みは一人でゆっくり味わうのに限るんだ。僕だけが痛いんだから、一人のものにさせてくれ。
・・・。
黒井は「うわっ」とは言わなかった。強引に引き寄せて右手を見て、違うと分かると左手をつかんで、それを、見つけた。諦めて無言で手を差し出す。みっともない醜態をさらして、気まずいったらない。僕は右手の血を見つめて、黒井の方は見なかった。滴り落ちるほどじゃなし、別に、大丈夫・・・。
「・・・っ!」
声を、必死に、抑えた。
痛みと、そして、温かい熱。僕の目の前で、僕の左手の薬指が、黒井の口の中に消えていた。
な、やめろって、汚いから!
舐めときゃ治るとか、そういうことじゃない!別に、いいって、そんなことしてくれなくたって。一人で何とかするよ。そんな、主人を心配する犬みたいな、顔・・・。
・・・。
は、していなかった。
他の指に付いた血が、その口の周りに、微かな赤を残していた。
「いっ・・・!」
ついに声が漏れるほど、舌が、強く傷口を、執拗になぞった。藤井が僕の指を舐めた時のような、少し甘いタブーみたいな雰囲気はない。主人を慰める犬じゃなくて、お前は、血に飢えた狼か。思わず口元をきつく押さえた右手から、鉄のにおいがした。
目をつぶり、奥歯を噛みしめて痛みに耐える。薬指の、ちょうど関節の部分。力を抜いて、されるままにするしかない。まな板の鯉は、ただひたすら堪え忍んで、解放されるのを待つだけだ。少し涙でにじんだ目を半分開け、僕は、まるでソースを舐め取るみたいに舐められ、じゅるりと吸われながら、無遠慮に口から引っ張り出される指を、ただ見ていた。
ヒリつく指を自分の身体の領域に戻し、無言で立ち去ろうとするとまた腕を取られた。少し、睨みつけたかもしれない。いや、僕に限って、痛かったことを責めてなんかいない。ただ、・・・ええと、何だろう。ただ・・・。
・・・それが何なのか、あれ、自分でも分からなかった。
「・・・なに」
それだけ小声で問うた。黒井は僕の顔をまっすぐ見ると、塀の真ん中、完全な死角へと、何歩かずれた。
黒井は言いようのない表情で僕の前に立ち、ゆっくりと僕の顔に手を近づけて、指の腹で乱暴に口元を拭った。
「・・・とれないよ」
ひそめた囁き声はもう凶暴な狼ではなく、でもごくふつうの「取れないよ?」ではあり得なかった。僕がさっき睨みつけた感覚も、この黒井の声と表情も何なのか分からないまま、今度は黒井の顔がゆっくり近づいてきて、僕は動けなかった。
見定めるように目を開けたまま、この間の美容師さんが前髪を切った時みたいに、黒井は僕の顔ではない何かを見ていた。そのままその何かを覗き込むように、僕などいないかのようにさらに近づいて、僕の伏せた目は視界の端に、その長い舌が出てくるのを見た。
目を閉じている間に、唇の上と、下とで、二回舐められた。熱く湿った舌が斜めに動いて、その後は唾液で濡れた皮膚がすうと冷えた。目をゆっくり開けるといつの間にか出していたハンカチで、口元を拭かれた。・・・右手で押さえたせいで付いた血を、フロアに出ていく前にこんなやり方で拭いてくれたのは、親切だと思えばいいの?・・・そんなわけ、ない。
・・・こんなの、絶対、普通じゃない。
絶対、絶対、普通じゃない。
「・・・おかしいよ、こんなの」
僕は突っ立ったままささやいた。黒井の頬に付いた微かな赤を無意識に見つめながら、諭すようにもう一度「おかしいよ」と繰り返した。
黒井はそれを聞いたけれども、無視して床から箱を抱え上げた。そして、「手伝ってくれて、助かったよ」と、わざとらしい大声で塀の裏から去って行った。
・・・・・・・・・・・・・・・
トイレの洗面台で冷水をかけ続けた。感覚がなくなるまで延々と、冷たさによる痛みが本来の痛みを覆い隠してしまうまで。
よく見てみると、形容詞では<ぱっくり>が近いみたいだった。水を止めるとすぐにじわりと血がにじんで、ジリジリ、キリキリとした、目覚まし時計みたいな痛みがその周辺を覆っていく。・・・もう、疲れた。帰りたい。
とりあえずは湿らせたティッシュを巻き付けて、その上から絆創膏をすることにした。トイレを出て発送部屋に向かい、電気を手探りでつけ、絆創膏の箱を持って小さな折りたたみ椅子に座る。はあ、とため息をついた。疲れた。もう眠い。これから残業を済ませて終電に乗って家まで歩くのが億劫すぎる。ここでいいから寝たい。こんな埃まみれの床でいいから、寝てしまいたい。
古びた長机に突っ伏して箱をもてあそんでいると突然ドアが開いて、どうせ黒井だろうと思って緩慢に顔を上げたら、違った。
「な、何してんの、こんな時間に?え、山根くん?」
封筒を持っておそるおそる入ってきたのは、大月さんだった。セーターの上に毛糸のマフラーを二重に巻き付けて、ネクタイもしていない。何だか風来坊って感じだ。
「お、お久しぶりです」
「あ、ああ、こんばんは」
「どうも」
「で、どおしたのこんなとこで?あれ、具合悪い?」
「いや、別に疲れてるだけなんです。ちょっと、手を切っちゃって、バンドエイド貼ろうと」
「え、大丈夫?カッター?」
「いえ、段ボールの、フチで、すっぱり」
「うわっ、痛っ!聞いてるだけで痛っ!」
「血がいっぱい出て」
「うっそ!痛い痛い!大丈夫?いやー、ひどい。ひどい話聞いた」
「・・・見ますか?」
「いやいやいや見ない見ない!もう勘弁して!」
「あ、すみません、仕事の邪魔しちゃって」
「あ、いや、そういうわけじゃないけどさ。と、とにかくお大事にね」
「はい。すいません。お疲れさまです」
大月さんは封筒を所定のボックスに入れ、「ひいい」と言いながら出て行った。
デスクに戻ってもしばらく血はにじみ、やがて乾いて、ティッシュと絆創膏が赤黒くなっていった。チリチリした痛みとの同居にも慣れ、そういう存在が指の上に貼り付いているんだと思ってやり過ごした。
仕上げた契約書と粗利計算書を持って課長席へ行き、「これなんですけど」と渡して、課長が目を上げようとした瞬間、「はあ?」と素っ頓狂な声が上がった。課長がPCに顔を近づけ、「何言ってんだ?」と。
「ど、どうしました」
「はあ?何よこれ。昨日言ったこと、なんも通ってないじゃん。意味ねえじゃん」
課長は指でPCの画面を乱暴にはじき、椅子に反り返った。どうやら本社のお偉方からのメールらしい。
「もう、ちょっといろいろ、いったん保留だわ。ちょっと考え直し。落とし所が違うよ・・・。あ、山根悪い、それちょっと後回しにしてくんない?あのね、来週一番で本社会議だからさ。これもう、言うこと言わないとだめだわ」
「そう、ですか」
「あの、適当に切り上げてね。また、やった後から違うとか言われてもさ、こっちだって時間も人員も限られてんだから」
「は、はあ」
「いや、こっちもね、今どこまでやれって言えないんだわ。あっちもこっちも違う話しやがって、うん、ま、いいや。あー、みんなもね、適当に切り上げて下さいね。来週また、お前それくらい済ましとけよ!って言うかもしんないけどね。先に謝っときましょう」
苛立ち混じりの笑いで席を立って、同じメールが来ているのであろう三課の課長の元へ行ってしまった。何気なくそれを目で追って、そのまま、三課で頬杖をついて眠そうな黒井を見る。課長同士が連れ立ってどこかへ消えると、辺りの空気が緩むのが感じられた。
課長なんか、僕の些細なミスじゃないミスなんかどうでもいいくらい、上から下から横から、大変なんだろうな。たぶん今だって、本音ではブチキレくらいのところまでいってたのかもしれない。それでも、怒鳴ったりわめいたり机を蹴っ飛ばしたりもせず、「切り上げて下さいね」なんてことまで言えるんだ。すごいと思う、思うけど、仕事ってそこまでしなきゃいけないんだろうか。そんな気を回せることが、会社を調整していくことが、人生の価値なんだろうか。
全くそうは思えない僕は、こうして会社の歯車になったって、給料以上の何をも受け取らないし、得ないし、得られないんだろう。でも、じゃあ、会社じゃないとして、僕は何をどこで得る、得たいという人生なんだ?会社なんて嫌だ、意味がないと愚痴ばかりで、しかし人生の価値をどこに置いているのだろう?
ちょっといろいろ、いったん保留。
課長に言われたとおりにすることにして、僕は今やりかけのこと、終わったことをふせんに書いてデスクに貼り、月曜の僕に遺した。どうせこれから三十分くらいで三々五々みんな帰り始めるんだから、みんなが帰りやすいよう、先陣を切ってあげることにした。勤怠入力をして、PCを閉じる。課長がいない間に、しれっと、そそくさと、「お先でーす」で外に出た。廊下でハンカチを左手に巻きつけて、歯でぎりぎりと縛ると、何だか安心した。
・・・・・・・・・・・・・・
マフラーの下のネクタイを緩め、電車に揺られた。本当はビールでも飲みたいけど、買う元気もない。
左手はコートのポケットで入院中。そういえば、大月さんにはやっぱり「うわっ」と言われた。全てが終わってから、自分から言い出す分にはそう言われても全然平気なのだ。まあ、その場で咎められるか、後から「実はさ」と自分で言うかでは全然違うか。でも、どうせ全ての物事はいつか「実はさ」になっていくわけで、だったらキリキリするなよ自分、と思った。・・・いつか、全ては、そうなっていく。ふう。
心にわだかまっているのは、どうやら結局、黒井の奇行じゃないみたいだ。
ああ、自分の皮を剥ぐのが、少し巧くなってきているな。
ニヒルな笑みが漏れる。だって、そうじゃないか。
いつもなら、黒井があんなことをしたのはどうして?と散々考え散らした挙句に、じゃあ、それについて僕はどう感じてるわけ?とようやく問いかけるわけだ。自分の、奥の、自分にも見せない本音。
しかし、もう一足飛びだ。長々前置きをしている元気も時間もない。今日中に考えなければ霧散して、きっとまた来週、あるいはいつか、同じことを繰り返すだろう。さっき僕が睨んだ理由も、黒井のあの囁き声も、きっと根っこは同じなんだ。今つかんでおかなければ。
・・・。
ポケットの中で左手を握ってその関節の傷口を広げ、痛みと共に時間を巻き戻す。僕の指が切れ、隠したけれども気づかれて、舐められた。「おかしいよ」と言ったが無視されて、僕はいつも以上に困惑している。そう、こんなの普通じゃない、と強く思った。おかしいのは僕じゃなくて、あいつの方だ、と。
でもそれは、きっと、何か別の意味なんだ。だって、黒井がおかしいだなんて、批判も非難もする気はない。そんなの、トイレでキスされたときから知ってる。そうだ、黒井は変わってないんだ。じゃあ変わったのは、僕?
もちろん、あの頃からいろんなことがあって、それで僕は黒井のことをもっと・・・。
いや、違う、ずれてきてる。そうじゃない。この気持ちは、このもやもやは、そこじゃない、恋じゃない・・・。
・・・。
恋じゃ、ないのか。
ああ。
僕はあの時、普通の友達としてあいつに接していた。そんなの、初めてってくらい、自然に。でもあいつはあんなことをしてきて、それを、僕は「普通じゃない」と思った。普通の友達としての僕が、普通じゃないと感じた。恋の盲目から逃れ、藤井とメールした後みたいに客観的になって、あの時は「僕たち、もうデキてんじゃない?」と浮かれたけど、さっきは、「普通じゃない」と、淡々と思った。言ってる意味は同じだが、でもこの違いは何だ?
それが、恋心?
黒井に恋してる僕は、たとえどんなヘンなことをされたって、それは「普通じゃない」イコール「特別な関係」、となって、浮かれるばかりだ。それを思えば今だって、微かに胸が、ぐうっとなる。余韻のように、微かに。
そして、今日は。
二週間ぶっ続けの残業に疲れ、黒井と会えない日々を過ごし、ふせんが片付かなくてメールすら出来なくて、それで、念願の黒井に会っても、もう何とも思わなかった。
そうか。
遊園地の、静かで、ぽかーんとした、あの感じ。
誰もいない。
あのまま指を切らずに終わっていれば、気づかなかったかもしれない。やり過ごしていたかもしれない。
でも、ああ、僕はもう今、気づいているよ。言葉にきちんと変換して、理屈を追う前に、心は気づいている。今度はしっかりと、胸が痛んだ。
・・・。
さっきの僕は、黒井に恋してなかったんだ。
あんなことをされてなお、あんな刺激にさらされてなお、反応しなかったんだ。
それ、は。
突発的な、ただの、一時的な、ものなのか。
ああ、もう怖いけど言葉にするしかない。そうだよ、コンビニへの誘いを断ったあたりから、きっと本当は気づいていた。そして、指を舐められて僕はその男を睨みつけ、口元を舐められて、「おかしいよ」と訴えた。
・・・今、僕はお前のこと好きじゃないんだよ。
いつからなのか、そしていつまでなのか、それは分からない。でも、今に限った話をすれば、キスまがいのことをされたって、心臓が跳ねなかったんだ。顔がにやけないんだ。帰って布団に入ったって、思い出して妄想に耽ろうと、思わないんだ!
・・・。
電車を降りて、ふらつく足取りで改札を通る。定期はいつもどおり「ピッ」と鳴るのに、僕の心はちっとも「ピッ」じゃない。どうしてこうなっちゃったんだろう。どうして。どうして・・・。
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