14章:あれ、何かが、おかしい
(「あの感覚」が沸いてこない僕は、どうなっちゃったんだ?)
第126話:ノー・ノー残月間、塀の裏の密会
三月。
会社は、始まってしまえば朝から晩まで働くだけだった。しかも、ろくに建設的なことなどない。何かのやり直し、誰かの尻拭い、どこかの上司のメンツのためだけの、どうせ意味がなくなる試算。売上、売上言う割には、数字に直結するような活動はしてない、というかさせてもらえてないのだ。いくつか声をかけられている顧客はいるのに、また顔出します、なんて言ったままになっている。
自社の紙袋に資料をどっさり入れて飛び回ってるかと思いきや、昼飯もろくに食えないままデスクに張り付けだった。ちょっと、月曜からこんなじゃ、今週、来週、どうなっちゃうの?上も無茶言い過ぎじゃないか?いや、考えてる暇ないか。手を動かすか。
ふせんで予定を立てる余裕もなかった。島をちらと見れば、佐山さんまでリストの手直しに駆り出されて、契約書の方は菅野が三課、四課を取りまとめている始末だった。
「や、山根さん、今話しかけても大丈夫ですか?」
「ん、どうしたの?」
「あの、これ、丸印ってやつですか?角印じゃなきゃだめとか、よくわかんないんですけど・・・。あの、佐山さんも島津さんも対応中で」
「え、ちょっと見せて・・・。ん、これは、どうかな。あっちの人に訊いた方が早いかも」
「あっちって、発注の人ですか?あたし、喋ったことないんですけど・・・。向こうのフロアに行けばいいんですか?」
「あ、違う違う。向こうには入っちゃだめなんだよ。何とか保持だの保護だのとかで、営業部は出入りできないんだ。だから、内線でさ、えっと・・・ふ、藤井さんって人にかけてみ?きっと、教えてくれるから」
「え、藤井さん、ですね。まさか課長とかじゃないですよね」
「違う違う。そんな偉い人じゃないから、大丈夫だよ」
「ああ、もしかして山根さんたちの同期の方?」
「いや、年下・・・菅野さんと、同じじゃないかな。だから、気負わなくて・・・」
「ふうん・・・」
僕の横にしゃがみこんで書類を胸に抱える菅野が、意味深な視線を寄越した。
「な、なに」
「まさか、山根さんの、噂の、彼女?」
「ちょ、ち、違うって。そんなんじゃ」
「横田さんから聞いたけどなー」
「だから、それ、誤解!あの野郎の言うこと信じないでくれる?あることないこと、まったく・・・」
「ええー?今度詳しく聞きたいなあー」
「ほ、ほら、電話!鳴ってる!」
「ああ、そっか、あたししかいないんだった!」
菅野は僕の机の電話を高速でつかみ、一瞬の間をおいて、「お電話ありがとうございます、株式会社・・・」とウグイス嬢になった。立ったまま前かがみで受話器を耳に当て、右手は僕にペンを要求してくる。位置的に、顔のすぐそばに制服の胸がくるわけで、ちょっと役得というか、許されるんなら胸でも尻でも触ってやりたい。もちろんそんなことしないし、後からそんな妄想もしないと思うけど、ああ、黒井だけじゃなくて、女の子でもいいんだなあなんて、また思った。
その日、仕事以外の個人的な会話といえばそれだけだった。菅野は特に黒井とどうなったかを自慢してくるでもなかったし、結局黒井とも話せていない。夜更けに帰宅して、明日があるのに電話するわけにもいかず、でも妄想する元気もなく寝た。
そのままノー・ノー残の水曜が雨で幕を開け、余計に憂鬱。もう、多少時間を取ってでもふせん制度を復活させることにした。これ以上、毎日こんなことを続けていられない。次々とどこかから押しつけられる仕事に流されて、黒井にたった一言メールする暇すらないなんて、耐えられない。
それで僕は、その日のふせんを完全に片づけたら、帰りの電車でメールをしてもいいというルールを作った。口を利かないだの、ふせんを片したらだの、勝手なルールばかりで反省もないけど、まあ、今度のは悪いことじゃないし、いいよね。
これが終われば、これを片せば、と思うとやる気もわいた。色とりどりのそれを剥がす度に、黒井に一歩近づくのだ。そしたら、帰りの電車で、何て書こうか迷う至福の時間が手に入る。何て幸せ!奴隷がほんのひとかけらのビスケットを巡って争い、勝利し、涙するような感じだ。その味は格別だろう。僕も早くそうなりたい。
・・・・・・・・・・・・
どうしてもその日中に出来ないふせんが三枚残った。
苦虫を潰したような顔でその三枚を睨むけど、どうにもならない。さすがに、その日中というのは無理があるみたいだ。17時を過ぎたらお客さんに電話は出来ないわけだし、物理的に不可能ということがある。でも、ルールはルールだからしょうがない。木曜からは、物理的に無理なことについてだけ、三つまで特赦の枠を設けることにした。ここで自分に甘くしてルールを拡張しすぎると意味がなくなるから、設定は慎重に、どんな角度から見ても相応の公平さ、公正さを保たなくてはならない。
帰宅して、家事がどんどんたまって、洗濯物やゴミが散乱してイライラした。休みまで、あと二日もある。片づけたいけど、でも、もう寝ないと、睡眠時間が五時間を切ってしまう。どうして会社でもうちでも、ただひたすら増え続けるエントロピーと戦わなきゃいけないんだ。熱力学の第二法則が宇宙の基本原理だからか。戦うというよりも、僕の体がエントロピー処理機になったみたいな気がしてくる。浄水機やら濾過装置みたい。僕の中にはイライラばっかり積もるけど、でも、ふせんさえ片せばメールが出来るんだ!それだけを頼みに、また起きて、重い足取りで会社へ向かった。
結局木曜日もふせんは片づかずじまいだった。三枚どころか七枚も残ってしまい、もう半ば諦めかけていた。ふせんを律儀に書いているせいで、忘れていれば誰かが何とかしてくれたり、結局やらなくてよくなったりすることまでやることになったし、それに、ふせんの管理という手間と時間もかかった。物事を正確には出来るけれども、それはあくまで時間というものを考えない場合の話だ。終電までに会社を出なければならないのだから、時間は有限なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・
頑張っているのに何となく敗北感を感じたまま金曜日。仕事がデキるっぽい気分なんかもはや皆無で、客先の担当者に「お疲れですね」と慰められる始末だった。会社イヤイヤ病は、朝の通勤時よりむしろ夕方の帰社時の方が高い数値を示していた。
社内の雰囲気が全体的にピリピリして、しかも疲労も重なって、横田と軽口を叩く感じでもなかった。空気が重苦しくて、どこかへ逃げ出したくなる。コンビニでコーヒーでも買ってこようかな。いや、帰ってくるのが嫌になるから、給茶機でいいか。
無意識に目が黒井の席に飛ぶけど、いなかった。たとえいたって声をかけられる雰囲気じゃないかもしれないし、もし一緒に給茶機へ行ったとしたって、いつもみたいに笑いあったり、少しじゃれたりしながらフロアを往復するような空気でもないわけで、ならまあいいやと思った。どうせ今日もふせんは終わらないだろうし、土日も疲れて何もしないまま終わるだろう。来週も再来週も、三月はきっと末日までこうで、しかも、四月だってどうせいっぴから忙しいんだ。もう、うんざりする。でも、こないだみたいに一ヶ月、一年、一生休みたいとは思わなかった。丸三日寝て過ごし、おまけであと一日休めれば天国だ。ああ、会社漬けになってしまえば、社畜ってほどじゃないけど、何だか磨り減って、こういう感覚に慣れきってしまう。え、ドイツ?むりむり、飛行機とか乗れないよ、疲れちゃう。ほんと、自宅の布団で八時間以上丸まって寝たいだけなんだよ。あとはせいぜいクレームがつかなくて、週に一回定時過ぎに帰れれば御の字ですから。それ以上別に、望むことなんか・・・。
・・・あ。
黒井がいた。
何だ、こんなところにいたのか。
フロアの端っこの、資料やコピー用紙の段ボールが積み上がった、その陰に隠れるように、ちらりと頭と足が見えた。夕方、発注をかけていた資料が大量に搬入されたようで、台車が何往復かしていたのだった。たぶん四月からコーポレート何とかが変わるとかで、商品パンフを一斉に刷り直したのだろう。そんなの社員だってよく分かってないのにお客さんにまで分かるわけないし、別に興味も無いだろうし、紙の無駄だと思うけど。
しかし、いくら何でも本当に危ないんじゃないかってくらい、頭上まで積み上がっていた。ちょっとしたお金持ちの家の塀くらい?ああ、そういえばもうすぐ3.11なんだし、この会社ももうちょっと防災意識というか何というか・・・。
好奇心に負けて覗くと、ちょうど塀の裏で黒井が座り込み、段ボールに背をもたれるところだった。窓のそばで、空気が冷えていて、照明さえ遮られて薄暗い。まるでパーテーションで仕切ったようにフロアから遮蔽されて、誰からも、見えていないみたいだった。
「お、おい、危ないって」
思わず声をひそめて、その隠し部屋に入った。
「・・・え、あ、ねこだ」
「こんなとこで何してんだよ。段ボール、倒れたらどうすんだ」
「だって、・・・探し物見つかんないんだもん。疲れた」
「と、とにかく寄っかかるな」
「大丈夫じゃない?ちょっとくらい」
黒井は緩慢な声で、ダイジョーブジャナイ?と語尾を上げた。大丈夫じゃないよ、もし上から五キロも十キロもある段ボールがその頭に落ちてみろ、頭蓋骨陥没骨折か脳挫傷で意識不明の重体に陥るかもしれないじゃないか。
「ほら、一緒に探してやるから起きろって」
いい子だから、こっちへおいで、とでも言いたくなる。ああ、そういえば僕は念願の相手に会ったのに、それほど緊張もしていないし、どきどきもしていなかった。まるで、普通の、友達みたい。
・・・ふうん。
それは、誰もいない遊園地を一人で歩いているみたいな、ぽかーんとした感じだった。へえ、友達って、こんな感じか。気安くて、一緒にいたら楽しそうで、抱き合ってキスしたい、とは思わない相手。キスしなくてもキリキリ焦がれない相手。無防備に座り込んでいる黒井を、かっこいいとは思うけれども、それ以上どうこうしたいとまでは思わなかった。ふうん。
スーツの膝をちょっと上げて、僕も不良みたいにしゃがみこみ、「で、何探してんの」と訊いた。気が抜けているからか、ふあああ、とあくびまで出る。
「えー、何か封筒だって。社内便のやつ、大量にいるから、頼んだとか」
「社内便?大きめの、茶封筒の?」
「知らなーい。・・・へへ、でもここさ、ちょっといいね。何か、秘密基地みたい」
「はは、そうだね。何かいいね。ちょっと息抜きできるかも。・・・はあ、さて、どこかな」
しゃがんだついでに下の方の段ボールを見ていくが、それらしき表示は見当たらない。大体がコピー用紙か印刷物っぽい。でも、A4が入る封筒なら、少し大きいから分かりそうだけどな。
「何だよ、急いでんの?」
「え、別に?まあ、コーヒー汲みに行くとこだったし」
「あ、俺も飲もうかな。でも、今はもっと美味しいのがいいや。ね、コンビニ行こうよ」
「んー、今日はやめとく。俺も疲れたし、そこまでの気力ないわ」
「・・・え、何か、素っ気ないじゃん」
「まあ、残業続きだしねえ・・・」
僕は立ち上がって段ボールの山に向き直り、「どうやって下ろす気だよなあ、もうちょっと何とかなんなかったのか?」と独りごちた。左手は腰に当てて、右手でひとつずつ箱をなぞっていく。違う、違う、これでもない・・・。っていうか、社内便の封筒なら発送部屋に置くんじゃないか?ああ、それがここに紛れてるからわざわざ探してるって話?まあ、とにかく探せばいいんだ。えーと、えーと・・・。
「あ、あった。これだ。社内便って書いてある」
「ほんと?」
「良かったな。ここなら何とか引っ張り出せそうだ」
端から二列目、下から四番目。その上に二個積んであって、その二個をただ下ろすのは大変だから、一番端の列を取り崩してスライドさせることにした。端だけ少し低かったから助かった。
「よ、いしょっ、重っ!」
黒井が手伝わないのは知っているので、勝手に作業を進める。塀の境目に立って、左の暗がりに疲れた黒犬、右には通常営業の島々が年度末の残業に励んでいた。
「・・・っ、よし。これで、こっちを・・・」
僕は目当ての箱を表側から少し黒井側に押し込んで、それから裏に回って引き出した。
「おい、これだよ。今取るからさ。で、これどうすん・・・っ」
・・・っ!!
いっっ、た・・・!
箱を引き出そうと段ボールの隙間に手を入れ、引っ張って、左手の指に鋭い痛みが走った。え、何?どれ?ああ、隣の、つるんとした箱じゃなく、蓋が糊付けされたみたいなやつの、蓋のフチか。斜め上に持ち上げるような形になって、ざっくり入っちゃったのか。だから、引くときに切れるんだってば!ひい、考えるだけで痛い、っていうか、考えた方が痛い。
箱を腹に抱えたまま、左目をつぶって歯を食いしばる。離すわけにもいかないし、取ってやると言った手前、痛いと騒ぐのもみっともなくて黙っていた。このまま「取ったよ」「ありがとう」で済めばそれでいい話だ。
とりあえず箱を床に下ろし、ろくに見ないまま左手を右手で覆ってきつく握った。肉体的ダメージより、精神的なものの方が大きいかも。すっと切れたとかすっぱりとかざっくりとかぱっくりとか嫌な形容詞が頭を駆け巡る。どうしてそんな、わざわざ傷口に塩を塗るような真似・・・ひい、塩とか!
「え、これ?サンキュ。俺見つけらんなかった」
「ま、まあ、いいって」
黒井が座ったまま箱を確かめる。ああ、僕はずらした箱を元に戻さなくちゃ。いや、もう最悪このままでもいいか。早くトイレに行って、水で流さないと。水をかけるのも、どうなってるのか見るのも気が進まないけど、やるしかない。そしたら、そうだ、発送部屋で絆創膏をもらおう。藤井の手に刺さったホッチキスの芯を思い出して、あれくらいなら何てことないのになあと思った。
「じゃあ、俺、これで・・・」
「ん、何これ。ねえちょっと待って」
「え、・・・なに?違った?」
「いや、違わないけど、これ、血?何か付いてるよ。って、え、うわ新しいよ何これ」
見ると、白い段ボールに、たぶん下ろしたときになすりつけてしまった血の跡。わあ、暗くて見えづらいけど、赤インクみたいな色なんだな。
「・・・インクじゃない?」
「だって、ほら、手に付くよ」
「・・・別に、中が汚れてなければ、それで」
「お前、こういうの好きじゃないの?何か、怖いじゃん」
「え、あ、そう、だね」
「・・・まさか、お前?」
黒井が僕の手を見て立ち上がった。うわ、気づくなって。何でもないよ、「せんせい、やまねくんがー!」って、みんなに見られながら保健室に連れて行かれるのは嫌いなんだ。一人で我慢して、帰ってからまたタオルで縛るから放っといてくれ!
「べ、別に、何でもない」
僕が床に散らかした箱をまたいで行こうとすると、「ちょっと、見せてみろ」と腕を取られた。いいってば!自分で見るのも嫌なのに、先に他人に見られるなんて・・・。
「・・・っ!」
腕を振りほどこうとして痛みが走り、思わず離した右手の手のひらが、血まみれだった。
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