第125話:デキてるはずの二人

 月曜日、久しぶりにちらりと三課を振り返ると、こっちを見ていた黒井がにやりと笑った。僕はぎくしゃくした動きで前に向き直り、背中にその視線を感じてチリチリした。うるさいうるさい、<はい>なんて返事したからって、そうだとは限らないだろ!言われるまま誘いに乗って、そんな恥ずかしいことしたなんて、証拠もないのに責め立てるなよ!・・・いや、今のこの反応が証拠になってるか。っていうか、今暗黙のうちに、やっぱり二人とも本当に<一緒に>してたって、無言の肯定か。いや、あいつが僕のことからかってるだけ?自分はしてない?・・・やると言ったらやる男だそうだし、あの顔は多分、したんだと思う。何それ、もう・・・。

 朝礼が始まったので、今度は僕が後ろ姿をチクチク眺めてやる番だった。しかし、そしたら一瞬、背中に回した左手でピースマーク。くそ、やっぱりこっちが照れるのか。隣の菅野が「ん?」って顔でこっちを見るので、「何でもないから」と小声で返した。

 いろいろともういっぱいで、溢れそうなのに、粗利を計算していると椅子を蹴っ飛ばされ「コーヒー」といつもの一言。反射的に立ち上がるけど、何て言っていいか、言葉が出なかった。蹴るなよって?それともおはよう?それとも、ごめん?

 黒井がさっさと歩き出すので、後を追った。その髪とか、肩とか、首の傾げ具合とか、そんなのを全部いとおしく思いながら眺めた。自然に、「ひどいこと言ってごめん」と声に出た。

「え?」

「いや、だから」

「気にするとこ違うよ。謝るなら、先にいってごめん、だ」

「・・・っ、お、俺、先になんか」

「そう?じゃあ一緒?」

「そ、そこまで知るか」

「俺はちゃんと、直後に送ったよ」

「あ、朝から、何の話?」

「くくっ、爽やかで、楽しい、話!」

 歩きながら肩でどつかれて、「何だよ」とどつき返したら、「少しはカタブツが丸くなった?」と肩に手を回された。そのまま引き寄せられ、頭と頭がごつんと当たる。そして、聞こえないくらいの小声で、「俺もごめん」とささやかれた。その後に、「・・・さみしくて」とつぶやいた、ような、気がした。


 それからコーヒーを汲んで席に帰るまで、感情と身体の衝動を抑えるのがこんなにきつかったことはなかった。抱きしめて、泣いて「ごめん」と、その黒犬の頭を撫でてやりたい。いつもこっちを振り回してくる傍若無人のくせに、こうしてたまに弱いところを見せられたら、もう本当に何もかもをかなぐり捨てて、お前の望むことを何だってしてやりたくなる。張り裂けそうな胸を押さえて、苦い液体を飲んだ。ああ、嫉妬とかして本当にごめん!・・・でも、あれは、あれは無理だったんだ!ちょっと苦笑いが漏れた。横田に「何すか、気持ち悪い」と言われた。

「うん、俺、結構気持ち悪くて」

「そうだね。大丈夫?」

「だめだね。相当、きてるよ」

「・・・だろうね。ミーティング、始まってるよ」

「・・・え、うっそ。お前は?」

「俺もう、出かけるから」

「マジで?早く教えてよ!」

 島を見回すと、誰もいなかった。焦って冷や汗が出てきたけど、尻の財布に触れて、一瞬深呼吸した。あの黒井のウインクを思い出せば、「どうでもいいじゃん、死ぬわけじゃなし!」と励まされる。それからオマケで、「それに、俺がいるし?」と言われれば、もう腰砕け。そうだ、たかだか僕がミーティングに数分遅刻したところで、世の中に影響なんかあるまい。出世のエリートコースを目指してるわけでなし、焦ることなんかないじゃないか。


 結局課長から嫌味をひとこと言われただけで済んだ。っていうか状況はそれどころじゃないらしく、三月の数字が大幅に修正されたようで、課長も支社長から突っつかれて大変みたいだ。どうやら二月の数字がかなり順調で、そのせいで三月、行けるところまで行こうというような方針になったらしい。会社ってやつは、順調でも不調でも結局社員の尻を叩くのだ。

 課長も納得はしていないようだが、とにかく前倒しで取りやすいところから取る、何が何でも三月中の売上を立てる、滞留債権を解消する、ということで、新たに案件が割り振られた。今週中に試算を上げて、三月から本格的に忙しくなるからそのつもりで、と。え、三月はノー残業デーもなくすって?おい、コンプライアンスはどうした。あれだけ騒ぎになって、徹底するとか何とか・・・。はあ、水曜に物理の勉強会とか、やってる暇ないのか。帰りがけにカフェに寄って、ただ二人で本を読むだけだって楽しいのにな。いや、もう、楽しいっていうか、めろめろ?・・・ああ、それがなくなったって話なのか。にやけた顔が真顔に戻った。ううん、週末しかないってこと?僕は真面目な顔で手帳をめくり、三月のカレンダーをチェックした。隣に座っていた鹿島が何となくそれを一緒に見て、小声で話しかけた。

「今から一ヶ月で何が出来るんだよな」

「・・・ですよね」

「しかも決算期だよ?もっとヒマな時に増税してほしいよ」

「ノー残なしで、展示会までやるって」

「ふん、この連休が唯一の休みどこだね」

「ああ、春分の日」

「・・・春だやね」

 まだまだ寒いけど、一ヶ月先、春は来ているのだろうか。きっと残業で疲れ切っているだろうけど、連休、遊ぶくらいの体力は残ってるかな。いや、遊ばなくたっていい、お前のうちで、昼寝するだけだって。え、まずいか。春の陽射しの中で、お前の寝顔をすぐ横に見ながら、眠れるわけないか。その髪や、耳や、頬にキスして、首筋、鎖骨、そこまで下がったら折り返して、喉仏をなぞり、顎、そしたらとうとう、その唇に・・・。

「じゃ、そういうことで、三月乗り切りましょう!解散!」

 我に返って、何度か瞬きをした。・・・今の妄想、外に漏れ出てないよな?それはまるで白昼夢のようなリアルさで、写真みたいに脳裡に焼きついた。すごいな、何だか妄想のレベルも精度もアップしてるみたいだ。課長に「頼むよ?」と声をかけられ、「はあ」じゃなく「やりますよ!」と答えるくらいには、<きてる>みたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 二月の最終週、うちの会社の悪いところで、いいことは先送り、悪いことは前倒し。これからしばらくなくなるから、と思っていたノー残が前倒しで消えて、カフェの夢も潰えた。別に、他にやりようはいくらだってあるし、と息巻いていたが、そうして余裕のある振りをしていると意外と何もなくて、一週間が過ぎようとしていた。無視しても、避けてもいないのに、どうして接触できないんだ?二、三回ニアミスがあったくらいで、いつものコーヒーすら行けなかった。もちろん四課と同じく三課だって数字だ予算だと追い立てられていて、しかもうちの課長より中山課長の方が野心というか、功名心があるから、締めつけは更にきついようだった。

 まだもう少し大丈夫、と思っていると大体いつの間にかそうでもなくなっていて、木、金は帰りがほぼ午前様だった。今まで立てていた三月の割り振りが全面的に変わって、しかもそれが日替わりに書き直されて、本社と、支社長と、各課長レベルでも認識が微妙に違って、僕たちヒラは振り回されるばかりだ。仕上げた提案書がイチからやり直しで、課長すら「すまんな」と謝ったほどだった。ちらと振り返って垣間見る黒井の顔も、PCや資料を睨んで眉根を寄せている表情が多くなっていた。思案顔で、ゆるりと曲げた人差し指を唇に当てているのがそそられる、なんて、思ってる余裕もなくなりつつあるけど。


 土日は睡眠と家事に追われて、メールも電話もしなかった。妄想力がアップしているせいで、それで満足してしまうのがいいことなのかどうなのか。

 そのかわり、藤井から<ノー残、そちらでもなくなりましたか?>という旨のメールが来て、当たりさわりのない愚痴混じりのやりとりをした。向こうの業務部では四月から大幅な人事の改編があるようで、さすがに事務で転勤はないだろうが、冷や冷やしているとのこと。何となく、メインディッシュや好物を最後まで取っておくみたいに、黒井のことは宝箱にしまっておくような感じがあった。そうして密封して安心してしまうと妙に余裕ぶりたくなって、藤井に社内報のことをそれとなく訊かれ<まあ、あいつとは、ちょっとね>なんて恥ずかしい返信。


<まさか年末の喧嘩騒ぎって、山根さんだったんですか!?それで、相手が、黒井さん?>


<え、そっちまで伝わってたの?やだなあ。でも、ほとんど尾ヒレだからね?>


<更衣室で、そちらの女性陣が、ちらっと・・・。そんな先入観なら、もっと警戒してましたね。まさか、あの噂のご当人だったなんて。しかし、あの人は・・・何か、納得です。保険に入るべきは、そもそも山根さんの方でしたね>


<そ、そうかもね。こないだも喧嘩して、頭蓋骨割るとか言われちゃって・・・いや、電話でだよ。冗談、だよ、たぶん>


<あら、頭蓋骨とは、剣呑、剣呑。でも、少し解るかも、しれません。苛めたくなるんですね。どうかご健在で>


 ・・・い、苛めたくなるって。

 僕は、黒井先生に乱暴に髪をつかまれて、床に頭を押し付けられたことを思い出した。うん、やっぱり、僕も僕だし、あいつもあいつだ。普通、行き過ぎたおふざけだってあそこまでしないし、されたらさすがに「いてえな!」となる。もしかして、あいつがSで、僕がMなのかな。・・・そういえばリゾットを作りに行って、指の傷を見たときにもそんなこと、言ってたか。そしてあの時は確か、僕がおやすみのキスをするとか言っちゃって、あいつが「早く!」なんて、目を閉じたりして・・・。

 ひい。

 え?これ、今こしらえた妄想じゃ、ないよね。

 現実の、本当の、記憶?

 ちょっと自分でも信じられないくらいの、何ていうか、え、僕たちっていつからこういう関係なの?あのトイレのキスだとかは、もう突発的な事件として何度も反芻しているからむしろ特別視しすぎて、そういう、ヘンなことだとは思えないフシがあった。でも、こういう何気ない日常においても、あのノートにわざわざ書き記すほどでもない小さな<ヘンなこと>は、もしかして、いっぱいあるわけで。温泉行くとき、バスでチュッパチャップスを二人で舐めたりとか、病院に付き添ってもらって、帰り道、彼女ごっこでキス直前までいったりとか・・・っておい、大丈夫か?

 藤井とやりとりをしたせいで、ちょっと、客観的になったらしい。

 ・・・いや、これは、デキてるでしょ。

 この二人、絶対デキてるよ、うん。そうじゃないなんて、おかしい。おかしいね、でも、そうじゃないんだ。あはは。

 何だか自分の記憶なのに、えらく遠く感じた。遠いし、ほんの先月のことなのに、若い。<本番>以前の僕たちはまだどことなくトモダチっぽくて、初々しいような気がした。

 ・・・今は?

 関係が進んだかといえば、確かに進んでいるんだと思う。でもだからって、不動の親友の地位を築いたかといえばそんな自信はなくて、毎日、毎週、<情熱と幻滅>の繰り返し。想いの強さだけは変わらない、いや、強くなってる気がするけど、でも当然、好きなときにキスできるような関係になってるわけでもなく、決定的なものなど何もない。

 ああ、だからこそ、求める気持ちが強くなるのかな。

 そこにあれば安心するけど、ないかもしれないと思うと、不安で、恋しくて、追ってしまう。そういうことなんだろう。


 急に会いたくなったけど、もう、何もしてないのに日曜が終わるところだった。また一週間が始まる。先週より忙しい一週間が。スーツで、忙しくて、コーヒー行けるか行けないか、じゃなく、普通に会って部屋で抱き合いたい。・・・え、違うか。現実と、妄想のクライマックスが直結してしまった。でも、せっかく仲直りできたのに会えないなんて、ひどくない?せっかく、一緒に、いけたのに。

 僕はその時のメールを見て、また興奮を解き放った。もしかしたら、もしかしたら今この瞬間も、お前と。そう思ったら、すぐいってしまった。

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