第128話:何もない、何もない、何もない
歩きながら、理屈という絆創膏、思考という包帯を傷口に巻くべきか、まずそこから足踏みをした。そもそもこれが傷なのかどうかという判断があり、そして、傷だろうがそうでなかろうが、僕がどうしたいのか、ということがある。嫌なら何とか軌道修正を試みるし、でもそうでないなら、何もする必要はなくなる。今のこの気持ちを、どうしたいんだろう。分からない。分からない・・・。
何もかも忘れて、寝てしまいたいような気もする。なかったことにして、土日、他のやりたいことをしたらいい。
でも、そうは、いかないんだろう、な。
仕事と違って、心は、気持ちは、ふせんを貼って置いてくるものじゃない。だってこれが、それ自体が僕なんだから。
僕は傷ついた左手と重たい僕自身を引きずって、何とか家までたどりついた。卵を落としたインスタントラーメンを五分ですすって、どんぶりを流しに置く。ゴム手袋をしてスポンジを取り、洗剤をかけた。いつものようにスポンジをくしゅくしゅ握って泡立てようとして、「っつ・・・!」と目を閉じる。そうだ、左手は握れないって、手袋しながら思ったばかりなのに。
右手で泡立てた洗剤がどんぶりに一滴、二滴落ちて、ラーメンスープの表面にすっと透明な円が広がった。それを見てなぜか、急に、力が抜けて、僕は何かまずいと感じ、ゴム手袋を外してその場にしゃがみこんだ。
はは、何だろう。
化学反応で広がった円は、浄化なのかそれともぽっかり開いた穴なのか。さっと広がったその速さについていけなくて、めまいがした。
・・・黒井の前で、気が抜けてあくびとか、しちゃったんだ。
たった二週間、残業が続いて磨り減ったからって、ねえ、あんな焦がれてた恋心まで、磨り減って、擦り切れたわけ?
・・・え、もう、・・・ないの?
まさか、ちょっと疲れてるだけだよ。大丈夫、すぐ戻る。・・・戻る、よね。
急に頭が冷えて、いてもたってもいられなくなった。脱ぎ散らかしたスーツのポケットを探り、財布を出す。中から、あの写真をもどかしく引っ張り出した。
・・・。
黒井の、親しげなウインク。相変わらずかっこいい。
・・・でも。
かっこいい、だけだ。
そんな・・・、まさか、そんな。
この人をオカズに、何回抜いたと思ってんだ!
おい、そんな、嘘だろ?ほら、思い出してみろ。キスしたり、抱き合ったり、<一緒に>いっちゃったり・・・したじゃ、ないか。その度に一喜一憂して戸惑ったり、舞い上がったり、真剣になったり。いいこともつらいことも、それでも、どこからわいてくるのか分からない無限のエネルギーで、乗り越えてきた。お前がいなきゃ生きてる意味がないって、疑いもせず、一分の迷いもなく、そう言えた。お前が死んだら俺も死ぬって、他の選択肢なんて、他の未来なんてなかった。
それなのに!
違う、きっと違うって!
今、風邪を引いてるだけだ。感覚が鈍くなってるんだ。ヒッグス場の対称性みたいに、本当は隠されているだけなのに、まるで破れているように見えてるだけだ。大丈夫、計算上は破綻していない。きっと、冷水で本当の痛みを覆ったように、そう、疲れてるだけなんだ。
・・・なくなってなんか、ない、だろ?
炎が、消えようとしてるの?それとももう、消えて・・・戻らないの?
歯も磨かずに布団にもぐりこんだ。秩序は守られず、なし崩し的にいろんなものが破綻していく予感。それでも起きあがれない。頑張れそうにない。
・・・振られた、わけじゃない。
振られたんなら泣けばいいけど、この、あてのない喪失感はどうしたらいいの?まだ信じられないけど、直視するのが怖いけど、手を突っ込んだらきっと、ないって、本当は分かっていた。信じない振りの次は傷ついた振り、その後は傷ついていない振りで、自己防衛を施すつもりでいる。僕が今どうあがいたって、結果はもう、封筒に入ってるんだ。でも、いったい、いつから?
そのくらいは、考えたっていいような気がした。お願いだ、他にすがるものがない。それくらいは許してくれ。・・・誰に、言ってるんだか。
とにかく、電話で喧嘩して、それから次に会社で会ったとき、黒井が「俺もごめん」とささやいて、胸が痛くなった。その後・・・。
その後?
ああ、何も、ないのか。
メールも出せなくて、二週間、いや、十日ちょっと、何の接触も持たなかった。今までこんなに長く、あったかな。何だかんだで毎週のように何かしてきたような気もするけど、いったいどっちからどのようにして一緒にいたのか、もうよく分からなかった。
たった、十日・・・。
そんなんで、消えちゃうような、恋じゃ、なかったはずだろ?おかしいなあ、人生、かけてたのに。俺は、お前に、本気だったのに。
これなら、振られた方がマシじゃないか?はは、何か、いろんな振られ方があるっていつも感心してたけど、まさか振られてないのに恋が終わるなんて選択肢があったとはね。
・・・あんなことされて、違和感しか、感じなかったなんて。
そんなの、僕じゃない。そんな僕は、僕じゃないよ。トイレでキスされたときは、そうじゃない、伝わってない!って泣いたけど、今度は、伝わってないのは僕の方だ。
あの時は、こう思った。酔ってもないのにキスなんかされて、普通の友達だったら、気色わりいって突き飛ばしてるぞ、って。相手が僕だからそうなってないって、自覚してる?してるんなら、僕をどうするつもりでそれをしてるの?してないんなら、突き飛ばされてないことを、どう理解してるの・・・?
今回だって状況は同じだ。僕はまた同じ戸惑いを感じたってよかった。いや、感じてなかったわけじゃない。どんなつもりでそれをしてるんだって、思わなかったわけじゃない。
でもそれを、焦がれるような気持ちで、「俺のこと、好きで、やってるの?」って、その本音が、奥に、なかったんだ。
ああ、睨んだのは、それを知ってたからだ。そんなことされても届いてない、もう、届くあてがここにない、って、八つ当たり半分に、訴えてたんだ。
中身が、ないんだ!
ねえ、お前も、俺のこと好きなんだよね?もう言っちゃうよ。好きじゃなきゃこんなことするわけないよね?・・・それなのに、もう、今更だよ。「おかしいよ」って、確かに黒井に、「好きって言わないままこんなことするの、おかしい」って意味で言ってたんだけど、でも、もっと大きな意味で、この状況に対して言ってたんだ。戸惑いというより憤りに近い、だって、お前も好きなら両想いなのに、何で、今そうなってないんだ。おかしいよ、おかしいだろ!!
・・・。
中身が、なくて、スカスカって。
ああ、これ、電話で喧嘩した時にお前が言ってたことだ。
出来たことが、出来なくなって。いつの間にか、消えてしまって。取り戻そうとして、失くしてない振りなんかして。
え、これのことなの?魔法の石がもう光ってないって、僕は簡単に「そんなことない」って言っちゃったけど、え、これが、また戻るって、信じられる?
だめだよ、本当にスカスカだ!
胸を強く押さえたって、お前に抱きしめられたいって感覚が、引っ張り出そうとしたって、臨場感なんか皆無なんだ。まったく、上辺の、ハリボテだ。こんなんじゃ勃ちやしない。下手くそなAVより笑えない。出来ていたことが出来ない、それって、また頑張ればとか、そういう次元じゃない。
出てこないものは、出てこないよ。だって、無いんだから!!
未だに、未練がましく、疲れて勃たないだけだろって、苦笑いの僕がいる。やめとけよ、本当にそれを思い知ったとき、苦しみが増えるだけだから。精神的なまな板の鯉になって、切り刻まれるのを、いや、料理する価値もないって、真っ二つでゴミ箱に捨てられるのを、待つばかりなんだから・・・。
・・・・・・・・・・・・
それでも、疲れていたから、寝た。
寝て、起きてみても、魔法みたいに元の状態に戻っていることはなかった。あれだけ、あれだけ、もう黒井のいない人生には戻れないって、思ったくせに。この裏切り者、薄情者。嫉妬でいいから出てこいよ。・・・出てこないよ。
そういえば、朝、勃ってたんだろうか。もうよく分からない。もしかして、インポになった?あはは、ますます笑えない。黒井は普通の友達ってことにして藤井とつきあおうにも、これじゃだめだ。何だろう、病気かな。それならそれで構わない。名前と理由がついてれば、もう、何だって。
食欲もなくて、賞味期限切れのヨーグルトだけ食べた。どうしよう、俺、このままなのかな。もう一生男にも女にも勃たなくて、会社に行くだけの人生なら、・・・そんなの、いらない。別に人生、セックスしたいってだけじゃないけど、でもだってそんなの意味ないじゃん!
あの写真を見た方がいいのか、むしろ見ない方がいいのかよく分からなかった。いや、もう電話しちゃったらどうかな。・・・いやいや、無理だよ。ごく普通に仕事の愚痴を言って、だべって終わったら、もう泣きそう。いや?涙も出ないか。泣く必要もないんだ、ただの友達なんだから・・・。
・・・。
友達としてお前とつきあうなんて、はは、面倒くさいよ。おかしなことに付き合わされたり、自分勝手だったり、部屋が汚かったり、耐えられないよ。お前の言うとおりだ、どうして今まで付き合ってこれたのって話だ。そりゃ、好きだったからだよ。・・・もう過去形かい、俺。
でも、いったいどうしてなんだ。何があったんだ。せめてはっきりした理由でもあればいい。それが分かれば復帰できる、などとは思わないけど、せめて納得したい。
・・・喧嘩して、あいつが嫌になった?
近づきすぎて、相手の嫌なところが見えてきた?
嫉妬したのをまだ引きずってる?
会わない間に、飽きた?
別々に抜くだけじゃ満足できなくて、もう諦めた?
菅野の身体を想像して、やっぱり女の方が良くなった?
・・・。
一番それらしいのは喧嘩だけど、そうじゃないと思う。だって「俺もごめん」って言われて、「さみしくて」ってつぶやかれて、あのとき確かに胸が痛んだんだ。今だって、ほら、うっすらと。人にそんな風に思われるなんて今までなかったし、まるで捨てられた子犬に懐かれたみたいな気持ち。「ごめんな、飼えないんだよ」って、え、本当かな。あの時本当にそう思った?自分には応えられないって、たとえ求められても無理だって、そんな気持ちじゃなかったはずだけど。
・・・捏造、してる?
脳みそがもう、改竄に着手した?
僕の人生から、黒井への、焦がれるような純愛を、自分でも引いちゃうような変態性を、なくそうとしてる?過去に遡って、なかったことにしようとしてる?
おい、どうしてだよ。俺はあれで満足してた。別に、僕がどこかの国の王子で、どこかの姫と結婚するって話じゃないんだよ。諦めなきゃいけない恋じゃないんだよ。告白できなくたって、あのままで良かったんだ。強制的に締め出すほどの理由なんてないはずなのに、ねえ、何で!?
ノートを開くけど、焦って、手が震えて、何も書けなかったし、そもそも何を書いていいのかも浮かばなかった。物事を整理してきちんと対策を立てたいけど、頭は真っ白だ。こないだ書き込んだ、カレンダーと二人の時系列の羅列だけが僕の唯一の頼りだった。これがなければ、もう記憶はあてにならないから、そのまま濁った沼に沈んでしまうところだ。ノートを焼いてなくてよかったと心底思った。もう、これだけしか、ないんだ。
僕が、本当の本気で生きた、三ヶ月。
そしてその、相手。
・・・何で、腹が、透けないんだ。
ひゅうって、ならない。
焦りばかりが募って、胃が痛いけど、でもこれじゃない。
・・・まさか。
この腹が透ける感覚すら、忘れてしまうのか?
そして、もしかして。
黒井が僕の目を覆って、雪が降って、ああ、ここだって感じたあの寂寞も、分からなくなってしまうのか?雪が積もった屋上で、あいつと向かい合って、何度でも感じられた、あの感じ。3Dの立体視のイラストみたいに、いったん焦点が合えばくっきりと見えた、あの場所。僕がそこから来て、そこへ帰る場所。
思ったより、早いのか。
何かのプログラムが作動して、修正パッチが当てられたのか。
黒井がいない人生に、戻されるの?振られてもいないのに、拒否されてもいないのに?何だよ、それなら、いっそ玉砕してればよかったの?その後で身体が強制的に忘れようとするなら意味も分かるけど、何で、何で・・・。
いっそ告白していたら、と想像して、でもやっぱり「そ、そんなこと言っちゃうわけ!?」とドキドキすることも、なかった。頭の中で出てきたせりふは、僕:「俺お前のこと好きなんだけど」黒井:「まじで?」・・・それ以上続かない。
こんな茶番、やってられるか。禁断の、それ以上の想像・・・つまり、僕が告白されたら、というバージョンも全く同じだった。はは、僕が、僕の本気を、汚していく。あれこれ探りを入れて、メスを入れるほど汚染がひどくなって、神聖なものまで白々しい茶番に変えていく。何これ、すごいプログラム。僕は恋の余韻を楽しむことすら出来ず、座り込んで、黒井がくれたコンポを指でなでた。それも汚す気がして急いで離した。未練がましく、「これは、俺が熱出したとき、あいつがくれたものだ!触るな!」なんて必死な気持ちが出るかな、と思ったけど、出なかった。本当に思ったことは、処分するとき高値がつくよう綺麗な状態を保っておこう、という、最低な理屈だった。
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