第129話:明日は三月十四日

 コンポにも触れないもんだから、家の中でCDウォークマンを聴いている。藤井からもらったものなら何の抵抗も感じなかった。藤井と付き合えって言ってるのか、この身体は?

 こうなるともう、ノートも写真も押入の奥にしまいこんでしまうしかなかった。せめて捨てないのは万が一にも流出したら困るからで、焼かないのは、恋人との思い出を焼くような、そんな、苦笑いと少しの涙、みたいな気持ちじゃないからだ。僕だって失恋の果てにはそんなことをしてみたい。揺れる炎と、灰になっていく写真なんていう、儀式めいた象徴による感情の整理をしたらいい。でも今は、整理するべき感情もないし、燃やすことによる感慨もない。・・・あ、乾燥が終わってる。アイロンかけなきゃ。


 コンポを部屋の端に追いやって布をかけ、ノートと写真とカシミアと、借りっぱなしの服、そして<部分と全体>をしまったら、黒井の痕跡なんてなくなってしまった。たまった家事に追われて土曜が終わり、日曜の午後が空いたので、久しぶりにツタヤまで出かけて、海外ドラマでも見ようかという気になった。昨日の焦燥はどこへやらで、すっかり落ち着いている。・・・だって、明確な理由もなく内部から勝手に失恋させられて、流す涙もなくて、浸る思い出も触れたそばから茶番にすり替わって、もう、出来ることがないんだもん。っていうか飽きた。面倒くさい。アリジゴクにも落ちてないし、こうして街に出ればやりたいことはいっぱいあった。ドラマや映画も見たいし、新しいシャツや靴も欲しいし、面白そうな小説の新刊も出ている。ワインに手を出してみるのもいいなとか、へえ、ワインセミナーか、こういうの、意外と婚活してる若い女性が多かったりするんだよな・・・。

 いろいろと物色して、ああ、こういうの、彼女や友達とウインドウショッピングとか、楽しいんだろうな。藤井はあんまりそういうタイプじゃないかな、菅野とだったら楽しそうだ。カラオケくらい男友達とも行くとか言ってたし、誘ってみる?・・・黒井がいなきゃ来ないかな。っていうか、黒井がいたか。あいつだって友達なんだから、買い物くらい誘ってみるか?

 ・・・何かがずきんと痛んだ気がして、慌てて探すけど、もうなかった。

 どちらにしろ、今日の今日で誘えるわけもなく、結局気になってた映画を一本借りて、あとは適当なマフラーを買った。もう時季はずれで、何だか僕の趣味じゃない柄だったけど仕方ない。まあ、新しいものに挑戦してみるのもいいんじゃない?・・・それで大体変なセンスの服になっちゃうから、いつものに落ち着くんだけどね。

 それからジーパンを衝動買いして、そのまま履いて帰った。何とかのニョッキだかいうおしゃれなデリの総菜にスパークリングワインで、映画を見ながら夕飯。素晴らしい!

 借りてきた映画は<ユージュアル・サスペクツ>で、古いけどやたら評価の高いやつだ。ううん、何で外人はただ部屋で座ってるだけで様になるんだろう?っていうかこの部屋のインテリアの問題だな。僕の部屋も、せっかく一人暮らしなんだし、もうちょっと何とかならないか。女の子を呼べるくらい、とは言わないけど、せめて映画を見るとき視界に入って興醒めしないくらい。

 映画を見終わって、前評判どおりすっかり騙されて、「やられたよ」と独りごち、ワインを飲み干した。あとは適当にテレビをつけて、洗濯物をたたみ、靴を磨いた。何だ、別に悪くないじゃん、日常。どこへも行けないって、別に、行く必要もないんじゃね?会社へ行ってれば残業代も入って、週末の買い物や、ちょっといい感じのインテリアを集めていくくらいは出来るわけで、十分じゃん。ま、あとは彼女だね。・・・あ、その前に、ちゃんと勃起しないとね。



・・・・・・・・・・・・・



 月曜日。朝は<まとも>だったけど、やっぱり終電間際で帰って、どうにも元気にはならなかった。いや、こんな、疲れてるし、うん。ちょっと不調なだけだって。別にそんな予定もないんだから、焦る必要もないんだし。

 そう思いつつちょっと心配になって、ふと思い出すとため息、だったけど、火曜からも残業続きでやがてそれどころじゃなくなっていった。もう、客先で何でそんな、大したことじゃないのに言ったの言わないのと騒ぎ立てるんだよ。あんたらがちゃんと話し合ってないだけだろ。っていうかそんなことどうでもいいから、今何をしなきゃいけないのか決めるべきだろうが。まったく、本来の要請ではないとか筋が通らないとか、理屈ばっかこねて、やる気あんのかね。ほら、事務のお姉さん方が困ってるじゃないか。実際システム使うのはこの人たちなんだから直接訊けば済むことなのに、「上を通して」「本社を通して」ばっかりだから話が進まないんだよ!「こうしていただきたい」じゃなくて、「こうしないとオレが怒られるんで!」って言ってくれれば協力しようとも思うのにね。誰一人本音を言わないまま何の指針もなく、数字の羅列だけが意味もなく横滑りしていく。いったいこの時間の浪費は誰のための何なんだ。

 ・・・とまあ、かくいう自分も本音をぶちまけるわけもなく、「ここまではこちらでやらしていただきますんで」と妥協、妥協。ごっこ遊びだとでも思うしかないね。

 

 遅くに帰社して、ちょっと気まずいけど課長に報告。怒られるだろうなあと思ったら、他にもっと重大な問題が発生しているらしく、「もうちょっと、うまいことまとめとけ」で済まされた。怒られたり、怒られなかったりも相対評価なんだよね。もっと小さいことをもっとこっぴどく言われることもあるってのに、理不尽なもんだ。ま、それを分かってるなら気にしないという選択をしろってね。

 本当に起きている問題なんてどこにもないし、誰も困っていないのに、大の大人が寄ってたかって困っている振りをして、ああだのこうだの深刻ぶってるだけだ。それは分かってる、でも僕がそのルールから抜け出すことは出来ない。しかしまあ、そういう状況にならないためには、最初の段取りをきっちりつけて、相手方の会社や担当者レベルの性格を見極めて、こっちのペースに持ち込んで、問題が起こらないようにするしかないってことか。今のこの状況を解決できるのがデキる人なんじゃなく、こうならないよう、そこに焦点を当てて始められる人がデキる人なのか。ふう、こんなことにようやく気づくなんて、馬鹿だなあ。本当、馬鹿正直に、運用する現場目線でのフローでシステム組むこと考えてないで、契約をスマートに終わらせて、判ををもらうってことだけを考えればよかったんだ。見てるとこが全然違った。それじゃあ、噛み合わないわけだよ。厳正な勝ち負けじゃなくて、プロレスのように、観客を沸かせて、盛り上げて、いいパフォーマンスをするってことが大事だったんだ。リングでの戦いを通して、客席や、テレビの向こうや、翌日のスポーツ新聞の見出しを考えるってことだったんだ。

 ・・・ま、分かったからって身についたわけでもないから、明日からすぐどうこう出来るわけでもないけどさ。

 


・・・・・・・・・・・・・



 あっと言う間に木曜日。いろいろとてんやわんやなおかげで、四課だけでなく、SS部やセミナー部や、発注の藤井や他の女の子とも話したり、それに加えてお客さんからも電話が入って、僕にしては広大な接触範囲だった。ラジオの周波数を合わせるみたいに、相手によってちょっとずつ会話のトーンを変えるのが、面倒だったり、スピード感が心地よかったり、やっぱり後から「言わなきゃよかった、恥ずかしい」と思ったり、しかしそれでもみじめな記憶に浸るひまもなく次が来るから、チューニングにも慣れざるを得なかった。苦手なことでも、ある程度続けてやっていれば最低限のコツはつかめて、素晴らしい応用は出来なくても、基礎の一手で切り抜けられるもんだ。しかもどんどん相手は変わるから、それ以上出来ないってことを悟られる前に立ち去って、明日になれば忘れている。

 ・・・明日。

 あ、ホワイトデーだ!

 危ない、すっかりそんなこと忘れていた。一応もらった相手には返さなきゃ。っていうか、個人的にもらったのは藤井と菅野だけだから、それだけだけど。しかし、終電間際で帰る毎日で、いったいいつ買いに行けっていうんだ。ああ、日曜に買っておくんだった。まずったなあ・・・。


 外回り中に、地下鉄から地上に出て、ああ、目の前に高島屋があった。藤井からチョコをもらったとき、デパートの地下がどうとか言ってたのを思い出し、そのまま吸い込まれるように中に入った。あれ、でも藤井は他のがほしいとか言ってた?いいや、時間がない、とにかく菅野の分と二つ、それらしいのを買っておけばいいだろう。

 中身も見ないまま、それらしいコーナーでそれらしい包装とリボンのものを買った。藤井と菅野が顔を合わせることもないだろうが、万が一更衣室なんかで同じ箱が見えても悪いから、出来るだけ違う感じのものを、一つずつ。僕ってなんて気が利くんだろう。まあ、よく考えたら藤井からのが本命という保証はないわけで、同じ義理チョコなら気を遣う必要もないんだけどね。いや、ほら、藤井が好きな男は僕かもしれないけど、本当の本命の<女性>は他にいるかもしれないわけで。というのは、僕の隣でクッキーを選んでいるショートカットの、全身真っ黒でタイトな服の女性の目つきがあまりに真剣だったから、ああ、そういうこともあるのかと思い至ったのだ。

 ああ、それどころじゃない、急がなきゃ。

 僕は二つの紙袋からそれぞれ中身を出して、ぐちゃぐちゃにならないよう気をつけて鞄に入れ、紙袋も丁寧にたたんだ。こんなの二つ提げて客先に行けないしね。ああ、あと佐山さんにも適当なコンビニのお菓子を買わなくちゃね。ああ、菅野はともかく藤井は呼び出さなきゃ渡せないのか、もう、毎日アポばっかりだな・・・。「あ、お世話になります、お忙しいところすみません・・・!」はいはい、どんどん、流れていけ。ホワイトデーにお返しが発生するような、異常気象の年なんだ。考える暇も、立ち止まる暇もなく、自分の奥なんかほっといて、走り抜けてすっ飛んで行け・・・。


 帰社して、菅野の分のクッキーは、明日忘れないようデスクの引き出しにしまっておいた。本人は佐山さんに質問中。っていうか、制服の女の子たちまで絶賛残業中だ。

「疲れました。・・・まだ木曜ですよ?長くないですか?今週」

 菅野が帰ってきて、ため息混じりにつぶやいた。

「いやあ、まあ長いっちゃ長いけど、あっと言う間だよ俺は。ほら、昨日のあれでもう、時間がよくわかんなくなっちゃった」

「ああ、言ってましたね。大変ですねー営業さんも。あたし絶対無理。こじれたら、もういいです!って言っちゃう」

「言えたらいいよねー。俺も言いたいよ。菅野さん言ったことあるの?」

「え、ありますよ。何か前、オーディションでいいとこまでいって、レコード会社行ったんですけど、直前まで行って急にああだこうだ言われて、何それって、じゃあもういいです、って帰ってきちゃった」

「へえ、すごいね。っていうか、オーディションとか、そういう単語人生で出てこないね。すごいなあ・・・」

「そ、そうですか?でもまあ、それでお金稼げてたら本当にすごいんだけど・・・」

「今はここの残業代?」

「えへへ、そうそう。ここでね、がっつり貯めて、また四月からいろいろ応募しようかと」

「ふうん。頑張ってね」

「頑張りますよー!あ、今からサイン欲しいですか?」

「え?・・・あ、じゃあ、ここに書いといて」

 僕は適当な、シュレッダー寸前の裏紙を出して、皺を伸ばした。

「・・・ひどーい。でもいいや、書く。書くもんねー」

 ・・・残業中に女の子がいるのも、ちょっと、いいかも。人がいっぱいいると残業の効率も下がるけど、でも今は、こうして人がいて、ちょっと話しかけると残業の仲間意識を分かちあえて、ラジオのチューニングも慣れてる時期だから楽しかった。一人と話すと沈黙を埋めるようにまた話したくなって、横田とだべり、鹿島のオヤジギャグにツッコんだ。そして毎度のように詰まるプリンタをのぞき込んでは、取りに来た三課の小嶋に「あのさ、あと一枚出てないんだけど、早くしてくれる?」と真顔でせかされ、「はい、すいません・・・って、俺業者じゃないっすよ!」「え、そうだっけ」「四課の山根です!」「・・・知ってるよ」と笑った。怖い人かと思ってたけど、案外冗談が通じる人なんだ。

 

 そうして、客先でのトラブルやイライラを、何となく部室みたいな雰囲気の残業で紛らわし、トイレで歯を磨いて帰宅したらバタンキューだった。・・・週末には、また映画やドラマを借りよう。土曜は家事で終わるけど、日曜は、もしかして、藤井を誘ってどこかに行くのも、ありなのかも。まあ、ホワイトデーの成り行き次第でかな。あ、っていうか呼び出しのメール忘れてた。朝イチでも間に合うかな。考えているうちに寝た。また一日、過ぎた。

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