第300話:予告編と、一人癖
帰宅して電話、のはずだったが、どうしても我慢できなくて、先にネットでドラマ<ハンニバル>の予告編を見た。
・・・殺人犯の心理に共感し、完全にその人物になりきって、犯罪現場を再現してみせる異能の捜査官、ウィル・グレアム。上司のクロフォードはその精神状態の不安定さを心配し、万全の態勢で捜査に臨めるよう、優秀な精神科医にバックアップを頼む。
これまでのレクター博士シリーズの原作を振り返ってみると、グレアムが主役で、逮捕した博士の知恵を借りて別のサイコキラーを追い詰める<レッド・ドラゴン>、そしてクラリスがほぼ同じことをする<羊たちの沈黙>、その続きで、ヨーロッパに逃亡した博士とクラリスと敵との三つ巴の攻防を描く<ハンニバル>、そして最後が博士の幼少期から青年期までを描く<ハンニバル・ライジング>となっている(すべて映画化もされている)。今回のドラマは、時系列でいうと<ハンニバル・ライジング>と<レッド・ドラゴン>の間の話になり、グレアムが博士を逮捕せず、逆に博士がグレアムのカウンセラーになっていたら・・・という独自アレンジがなされている。
映画版<ハンニバル>ではクラリス役の女優が替わっていてちょっと残念だったし、そしてそれ以上にラストが改変されていたのでもはや原作とは別物という感じだった。あれから十年以上も経って、こうしてまたレクター博士の物語が出てきてくれて、なおかつ主役にまた別のクラリスではなく、今度はウィル・グレアムが選ばれたのが僕には嬉しい。クラリスも非常に魅力的なキャラクターだけど、僕は自分に少し似た、地味で疲れた雰囲気のグレアムが結構気に入っていたのだ。疲れに疲れて、新しい家庭を作ろうとするのにも不器用で、結局証拠品のファイルに立ち返って徹夜する羽目になる。いつも頭痛薬を飲んでいて、人付き合いが嫌いで、直観捜査と言いつつその内容はどこまでも物理的であり、木に付けられた傷ひとつの違和感をどこまでも追及する、その地の足のつき方に僕は憧れた。
そして、予告編を、たっぷり二度見た。
その五分間は、僕を、以前の自分に少し引き戻した。
それは、黒井と会う前の僕。仕事にトラブルがなくて、一番安い生活用品を過不足なく揃えておけばそれが幸福で、海外ドラマのミステリだけが楽しみだった数年間。
僕は、それだけで、充足していた。
海外ドラマの猟奇殺人の事件現場が、僕のゆりかごだった。
だけど、今は・・・。
・・・充足の、ゴールも、数値も、僕の中になくてよく分からない。<正しいお付き合い>のルールブックも降って来ないし、黒井に「俺にも見せて」と言われても、何を見せていいのか、それが見せられるものかどうなのかも分からない。
僕が、あのかっこいいイケメンの「黒井さん」と付き合ってるって?
・・・何か、間違いみたいな気がしてくる。電話番号は知ってるみたいだけど、付き合ってるなんて本当だろうか?
そういえばかけろと言われていたので、かけてみることにした。
「・・・あ、もしもし?」
出た。黒井の声だ。本当に出た。
「あ、えっと」
山根ですけど・・・、と言いかけて、止めた。
違う、それじゃない。でも何て名乗ればいいんだ?
「ねこ、家着いてんの?熱、出てない?」
「・・・え、熱は、だいじょうぶ」
ねこって、僕のことだっけ?
「ねえ、お前、今は普通のお前なの?電話しろとは言ったけどさ、電話だとよくわかんないんだよ」
そうして黒井は、今日は何日だとか、明日の仕事は何だとか、お前は何歳だとか訊いた。見当識くらいある・・・という言葉は出てきたが、非常階段でキスしただろと言われたら、そんなの妄想なんじゃないかとしか思えなかった。僕が会社の非常階段で黒井とキス?・・・記憶は、あるけど、それが本物みたいには思えない。
「じゃあその前、昨日熱を出したことは?」
「あ、それは確か、頭痛で、熱が出て、薬飲んで寝た」
「俺に電話したのは?やっぱり思い出さない?」
「・・・分からない。ごめん、きっと薬が効きすぎて、酩酊状態だったんだ」
「お前はキスでも酩酊しちゃうの?」
「・・・え、何だよ、それ」
「クスリとキスでぶっ飛んじゃうの?」
「・・・っ、変なこと言うな。人をそんな、ジャンキーみたいな」
「呼び方は何でもいいよ、でもお前、とにかく昨日の夜からちょっとおかしいんじゃない?」
「・・・それは、だから、熱が出たからで、薬を飲んだからで、今日も病み上がりだからってだけだ・・・きっと」
「本当に?」
「・・・た、ぶん」
「俺、別にお前のことオカシイとか病院行けとか言いたいんじゃないんだからさ、ちゃんと聞いてよ」
俺は味方なんだから・・・と、黒井は言った。
・・・味方、なんて、僕にいたんだっけ。
そういう人が、僕に、いたんだっけ?
「・・・クロ?」
「うん」
「いや、実は・・・」
「うん?」
「ちょっと、どうだろう。別に、いや、・・・た、ただの、気分だよ、こんなの。・・・普通、だろ?」
「何が?言ってよ」
「いや・・・ただ、・・・ただ俺が気になってる海外ドラマの予告編を見たってだけで、それで、ほら、俺はミステリが好きで、ずっと好きだったわけで、しばらくそういうドラマは観てなかったから、ちょっと懐かしくなったりするなんて普通だろ?そういえば去年はよく観てたななんて、普通だろ?」
「・・・う、うん」
「それだけだよ。予告編を見て、そういえば俺は去年はずっと、いろんなドラマ観てたなって。ただ、それだけの生活だったって、思い出して、それで・・・」
そういう気分を思い出して、だから、「山根ですけど」って名乗りそうになるなんて、別に普通だろ?それで電話しながら自分の手なんか眺めて、血管の緑や紫が生々しく見えて、指を動かそうとしたら動くだなんて、これは何の現象だろう・・・と、思いつつ、電話の相手はそういえば誰なんだなんて考えるの、普通・・・だろ?
「それで?」
「・・・あ、ああ。だから、えー、今年は・・・いや、その前。お前に、会ってからは・・・、全然、ドラマ、観てなくて」
「・・・う、ん」
「観る、暇がなかったっていうか、観てる、場合じゃなくて・・・あ、いや、別に、何だ、そういう・・・」
お前のことが、好きになって、恋をしていてドラマどころじゃなかった・・・とは言えない。
「それ、俺が色々、振り回したから・・・ってこと?」
「あ、えっと、まあ・・・」
「・・・え、それで、今、久しぶりに観たくなったってこと?」
「・・・ま、まあ」
「お前は、ドラマが、いいってこと?」
「・・・え」
「俺より!?」
「・・・は?」
黒井は電話の向こうで、「えっ」とか「ちょ・・・」とか「あれ?」とか言った。もしかして、ドラマに嫉妬してる?しかしこれはいったい何の会話なんだ?
・・・・・・・・・・・・・・・
何のドラマなの、と訊かれて。
変に隠すのもおかしいし、正直に<ハンニバル>と答えた。
「・・・それって、俺が本読んだやつ?」
「・・・あ、いや、・・・原作の、それじゃない。原作とは違うオリジナルストーリーで」
そうだ、黒井は小説の<ハンニバル>を、読んでたんだ。あの、<本番>の建物の中で、そう、脚立に乗って月を見ながら、煙草を吸いつつろうそくの明かりでそのページをめくっていた・・・。
・・・と、いうのは、単なる僕の想像だけど。
指先ほどの灰とロウのしずく、そして窓から落ちたらしき本のしおりからの推理に過ぎない。
それに、煙草を吸いながら読んだのはヘビースモーカーのリスベットが出てくる<ミレニアム>のはずか。<ハンニバル>はその前に、真っ先に読み終わっていたんだっけ。
しかしその光景ははっきりと僕の脳裏に刻まれていて、僕にとってはむしろ、自分があの建物で過ごした時間よりもしっかり思い出せる記憶だった。
僕にとっては、この身体が過ごす時間よりも、頭の中で想像した時間の方が、しっくりとおさまるような気がする。だから、思考を伴わない身体だけの時間は、ふわふわとして宙に浮く。何事にもしっかりと思考が付随していなければ、書記がいなくて議事録もなく、司会進行もない会議みたいになって、何のために何をしているのかよく分からなくなってしまう。
「・・・せてよ」
「・・・えっ?・・・ご、ごめん、何だって?」
ああ、聞いてなかった。クロの話を聞いてなかった・・・。
・・・クロって誰だっけ?
「だから、そんなに面白そうなら・・・俺にも見せてよ」
「えっ、面白そうって?」
「・・・そのグレアムって主人公がいいんでしょ、お前は」
「・・・あ、まあ、その」
話したのか?ドラマのあらすじを・・・いつの間に?
「俺、怖いやつとか苦手だけどさ、・・・お前がそこまで言うなら観るから」
「え、えっと・・・実はDVD持ってるわけでもなくて、だから貸せるわけでもなくて、申し訳ないんだけど」
「は?貸されたって俺観れないし、・・・お、お前んちで観るしかないじゃん」
「・・・は?・・・一緒に観るってこと?え、お前と?」
「・・・」
・・・息を詰まらせたような沈黙。
何か、まずかったのか。
いや、だって、それぞれで本を読むなら別にいいけど、思い入れのあるミステリを誰かと一緒に観るなんて、集中できなくないか?小学校時代、何だかしつこく遊びに誘ってくるやつがいて、僕はひたすらに「一人で映画のビデオが観たいから」と断り続け、自宅に遊びに来るというのを必死に阻止して、何とかネバーエンディング・ストーリーにたどりついたんだ。僕だってあんな隠れ家みたいな教室が欲しい。
「・・・ごめん」
しかし、とりあえず僕は謝った。もう大人なんだし、そんなわがままを言ってはいられない。僕たちが付き合ってるというのなら、僕は付き合わなきゃいけないんだ。この人が一緒に観ようというなら、僕はこの人と一緒に観るというのが交際中という意味なんだ。
「悪かった。お前が観たいなら、その、俺がちょうど観るところだから、一緒に観るといい」
「・・・もしもし?」
「なに?」
「たぶん電話じゃなかったら俺、殴ってる。・・・いや、でもきっと電話だからこうなってるわけで、だから、・・・えっと、それ、明日なの?レンタル?」
何だか不穏な言葉が聞こえたが、レンタル開始日が明日かと問われればそのとおりだから、そう答えた。
「それじゃ、明日、俺お前んち行って観るよ。だいじょうぶ、そんな血まみれみたいな怖いやつ観たら、俺、欲情しないから」
「・・・」
「いい?約束してよ、やっぱやめとかナシだからね」
「・・・は、はい」
「それじゃあやまねこ、おやすみ」
「・・・はい、おやすみなさい」
そうして、家に押しかけられて、一緒にビデオを観るという行為の予約を、僕は断り切れなかった。
もう<ハンニバル>なんかどうでもいいや、と、思った。
ただ小一時間、殺人事件の捜査が画面に映し出されるだけだ。その画面の前に座って、必ず終わりを迎えるその時間をただ待てばいい。
・・・だって、今なら、<ネバーエンディング・ストーリー>は何人で一緒に観たって構わないし、そう、<アバター>だって全然構わない。いわゆる大衆向け娯楽作品なら何のてらいもなく観られる。
<羊たちの沈黙>はたぶんギリギリで、<レッド・ドラゴン>もまだセーフ。なぜなら、映像ではグレアムの思考までは紡がれないからさほどその個性は出ておらず、むしろ犯人の方が目立っていたからだ。そうじゃなくて、僕は原作のあの一人称のグレアムの思考の中に何かを見たのであり、そして・・・。
・・・今回の<ハンニバル>には、それが、含まれていると思った。
僕が見た、何かが。
地味で人間嫌いで証拠品をひたすら眺め、それを自分の感覚にインストールしていくという土台の上に精製されている、その、何かが。
・・・だから。
見られたく、なかったんだ。
僕の中身、僕の気持ちの悪い世界を。
映像の中で紡がれるそれに同調し、頭も身体もそれでいっぱいに満たされていく、僕の姿を。
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