第301話:第一話「アペリティフ(食前酒)」

 十月三日、金曜日。

 約束は約束だから、朝から駅の反対側のツタヤに寄った。

 レンタル開始日とはいえ、こんな早朝からもう並んでるものなのかなって、最新作の棚を全部見るけどなくて、・・・と思ったらすぐ後ろにたくさん並んでいて、一巻から三巻まで、すでに誰かがワンセット借りた跡があった。

 とりあえず、一巻だけ借りるか。

 あらすじは読みすぎないようにして、パッケージを手に取る。一巻にはシーズン1の第一話から第三話までが収録されていて、一応R-15らしい。一人で観るならひたすらにぞくぞくしてほくそ笑むところだが・・・いや、やっぱり一人じゃなきゃ無理じゃないか?こんなに素晴らしいものなのに、一人で愉しむ時間を諦めるなんてできない。でも断るのはナシと言われているし・・・いや、じゃあそもそもこの交際自体を断るというのはどうだろう?

 ・・・。

 うん、確かに去年の僕であれば、これを誰かと一緒に観るなんて完全にお断りだ。

 でも、今は、選択肢は二つで、選べるのはどちらか一つだけ。

 昔の僕に戻って、すべて一人の世界でこれを観るか。それとも・・・新しいシャンプーやドライヤーなんかに四苦八苦しながら、垢抜けないYシャツにため息をつきつつ、誰かと一緒にこれを観るか・・・。


 仕事中にも、ウィル・グレアムが犯罪現場で血しぶきを見ながら冷たい表情で犯人になりきっている様子が浮かび、そのDVDが物体として鞄に入っているという確かさに心が躍りかけ、しかし一人で観るのでなければその匂いは全部飛んでしまって、香りのしない香水みたいな無用の液体になり果ててしまう気がした。いや、無臭ならいいが、もはやそのにおいは苦痛だ。黒井が「ふうん」と言おうが「すっごく面白いね」と言おうが、・・・「気持ち悪い」と言おうが、僕は「ああそう」と奥歯を噛むしかない。

 ・・・誰かと、一緒に観るなんて。

 そもそも、そういうものじゃないだろう。R-15だけじゃなく、鑑賞人数一人までと明記してほしい。

 ミステリというのは、僕が自分の中の後ろめたい気持ち悪さを自分だけで再確認し、作品の中の彼らとそれを分かち合う行為であって、現実の人間と一緒に観るものじゃない。だから僕は、黒井が物理を「一緒にやって」と言ったとき違和感を覚えたのだ。きっと黒井にとって物理学は、後ろめたいものではないんだろう。僕みたいな愉しみ方をしてはいないのだ。



・・・・・・・・・・・・・・・



 万が一、黒井の気が変わって「やっぱりやめ」になればという消極案も断たれ、僕が帰宅して三十分後には玄関ドアがゆっくりノックされた。黒井は心底嫌そうな顔をして「こんばんは」と僕を睨み、僕は目を伏せて「こんばんは」と返した。何かの拍子に「やっぱり帰ってくれない?」と言ってしまいそうで冷や冷やしつつ、交際相手が靴を脱ぐのに肩を貸した。

 よれた部屋着の僕の横に、細身のズボンから伸びる靴下が着地する。

 一体、何をやっているんだろう。

 週末、僕は大人しくDVDを観て過ごし、ひきかけた風邪をしっかり治して、それで来週仕事に励んで今度こそ銭湯に行けば、脱線しかけたラインは元に戻ってそれで良かった話じゃないか?なのに、どうしてわざわざひどくなりそうな方へとかき乱しに来るんだ?

 僕の部屋に長身のスーツの人間がすたすたと入ってきて、シャツだの靴下だの、その髪だの肌だのにおいだの、すべてが異質で、この部屋に馴染んでいなかった。置かれたDVDのパッケージをさっと手に取り、特に細かく読むこともなくまた置いて座る。「俺はいいよ、それじゃあ観ようよ」と言うその声も、この空間ではシルクの黒いハンカチみたいにつややかに浮いて、発音されてから数秒経ってもまだ周波数は固定されたまま、魚みたいに泳いでいる気がした。

 ・・・それじゃあ観ようよ。

 ・・・それじゃあ、観ましょうか。

 もうどうにでもなれと思って、僕はプレイヤーのボタンを押した。

 著作権がどうのという注意書きの後は、他のドラマの予告編だの、制作会社のロゴマークだのもなく、早々に現場だった。被害者が血を流す犯行現場にウィル・グレアムが立っていて、時計の振り子が揺れると、警官や鑑識や、赤と青の回転灯がまぶしい緊急車両が画面から綺麗に消え去り、事件直前に時が戻った。


 予告編で見たとおりの光景だが、大きな画面で、きちんと眼鏡をかけて見ると、特殊なカメラで撮られているのだろう遠近感とか、色の鮮やかさとか、非現実的な生々しさがあった。それを見て僕は、原作の<レッド・ドラゴン>を読んでイメージしたのであろう建物を思い出した。それはグレアムが捜査で遠方まで駆り出されて泊まったホテルの廊下で、エレベーターの周りに観葉植物やカーペットがあり、そこの床のタイルの、よくあるひび割れたような模様のそのひび割れ部分の臙脂色のグラデーションが・・・今見ている、事件現場の一軒家の壁の色によく似ていた。

 もしかしたらそれは小説からのイメージではなく、映画版で見たホテルの床という可能性もあるが、そうじゃない気がした。なぜなら、外国のホテルとエレベーターとその周りの観葉植物とカーペットなんて、何だか稚拙で嘘くさく、だからそれはたぶん僕の想像なのだ。でもそういう細部は僕の中で馬鹿みたいに細かく設定されていて、どの場面のどの小物もオブジェクトとして取り出して詳細画面を見ることができる。

 ・・・しかし、人の顔に関してはまったくそれは働かなくて、だからグレアムの顔も、上司のクロフォードの姿も、背格好のイメージという以上のイメージが僕の中にないので、思うことは特になかった。ただ、原作のグレアムはもっとくたびれた武骨なおっさんであり、この俳優は黒縁眼鏡やぼさぼさの頭で演出してもなおスタイリッシュさが抜けないなとは思った。



・・・・・・・・・・・・・・



 隣に人がいるとつい、これは原作のどの部分のどの設定だなんて解説をはさみたいような気持ちに駆られるし、ずっと何かを弁解したいような、別に自分が作った作品でもないのに、すぐにでも「嫌だったら無理して観なくていいから」と口走りたくなる・・・けれども、グレアムがベッドの上で幻覚を見始めると、そういったそわそわした感じも鈍く冷えてきた。

 ・・・似ている。

 僕が金縛りに遭って、これは現実じゃないんだろうなと思いながらも、何度瞬きをしたって全く消えない目の前の何かが、僕が危惧したとおりに血を流したり、こちらを向いたりするその様子・・・。

 そして、汗だくで起きる瞬間、まるで一時停止中の画面で再生ボタンを押した時みたいな一瞬の間のようなものがあり、あとはさっきと同じ場所に同じ体勢で寝ているだけで、悪夢から現実に戻ってきたというような線引きもない、その時間感覚・・・。

 そんな細部が、ほとんどそっくりな似顔絵くらいの一致率で、似ていた。実際の人間の顔と、鉛筆で書かれた線の集合は物体としては別物だけれども、誰かに伝える時に、その特徴の全てをそれで表し、共有することができる。

 そういう意味で、この映像は、よくできた似顔絵と同じくらい、僕の幻覚をよく表していた。

 見ていて何も違和感がない。そしてもしこの幻覚を見るなら、<もっと>見るだろう、と思った。この程度で済むはずがない。ショッキングな事件現場を見たら誰しも悪夢くらい見るだろうが、それとは根本的に違うのだ。

 そう思っていたらやはり、起きている間にもグレアムはそれを見た。別に、慌てず騒がず、誰にも言わない。超能力とか霊視やらでもなく、ただ脳みそのバグというか、仕様なのだ。パラメータを入力したら細部まで映写されてしまうだけであり、そしてそれで精神的ダメージを受けるのが面倒なだけであり、あとは自分で対処してやりくりするしかない。脳手術という話でなければ、これに関しては原理的に、誰にも頼ることなどできないのだ。


 だから、カウンセラーなんてつけられたって、何も言うことはないし、言って楽になるわけでもないし、ただ面倒が増えて迷惑なだけ。物好きな精神科医に興味を持たれたって、押しかけられて食事をともにしたって、彼に救ってもらう気なんかさらさらない・・・。


 そうして、はじまりの事件が幕を閉じ、第一話が終わった。

 ウィル・グレアムはハンニバル・レクターに出会い、もうこの時点ですでに、獲物としてロックオンされていた。グレアムはその思惑に全く気づかないまま、一歩、そちらに足を踏み出してしまう。いけ好かない精神科医として認識していたのにも関わらず、同じ空間にいることをよしとしてしまった。たぶん確固とした理由はなくて、ただ、ふいに、そうしてしまった・・・。


 ・・・その猫、何て名前?


「・・・っ」

 隣の黒井を見た。エンドロールを見つめる目が、こちらを向く。

 その目が、「ねこ、どうしたの?」と訊く。

 猫の名前は、<ねこ>だった。

 あの日、残業中にやってきて僕のクッキーを食べる<黒井さん>に、僕はなぜか一歩、踏み込んで、訊いてしまった・・・。


 エンドロールが最後まで終わってから、画面を消した。

 ・・・急に、動悸がする。

 別に、自分とドラマの主人公の状況を重ねて、似ているだなんて驚きたいわけじゃないけど。

 ・・・数年ぶりに会って、そういえばこういう同期の人いたなあと思っていた僕と。

 そもそも、僕が嫌で本社へ行き、そして支社に戻って、僕という人間にどんな中身があるのか、確かめてやろうとしていた黒井と。

 最初から僕をロックオンしていたお前は、僕の中身を見てやろうと躍起になり、しかし掘り当ててみれば、自分が恋に落ちていた・・・、なんて。

 でも、そうやって落ち着き払ったお前を見ていると、何だかそれさえももしかして、演技なんじゃないかとすら思えてくる。恋に落ちたなんて嘘で、本当はそうやって僕の内側に入り込み、博士と同じように、真ん中から僕の息の根を止めようとしているのじゃないか・・・。

 ・・・だって、あの告白からこっち、ずっと<恋の病>らしき挙動不審が時折顔を出していたのに。

 「ねえ、これは一話だけなの?」と低く呼びかけるお前は、どうしてそんなに、鋭い目をしてるんだ?

「三話まで入ってるよ。でも・・・ちょっと目が疲れたから、ごめん」

「別に、いいよ。・・・じゃあ続きは明日」

「どう、するの・・・泊まるの?」

「今から追い出す気?」

「・・・いや」

「ねえ、それほど怖くなかったし、血みどろでもなかったし・・・そんで、もしかして」

 黒井は、「いや、血はいっぱい出てたけどさ」と言って立ち上がると、部屋の電気を消した。

 そして、暗くなった部屋で僕を布団にゆっくり押し倒し、「もしかして、こういうやり方で、・・・俺に、お前を、見せてくれたの?」と言うと、黒井は僕の眼鏡を手探りで外した。

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