第337話:俺のせいにして

 十月三十日、木曜日。

 朝からシャワーを浴びた黒井とともに出勤。

 そこそこ混んだ電車で隣に立って、まだ少し濡れた髪から香るシャンプーの匂いや、ほんのり上気した頬が、何だか、生々しくて。

 ここにいるのは昨夜の子どものようなクロではなく、ちゃんと三十歳の大人の男の黒井で、その男が「ちょっと電車遅れてる?」とか無駄に近い距離で僕の耳元に囁くから、思わず、腕時計を見る振りで、少し顔を背けた。

 ・・・自意識過剰、なんだろうけど。

 チラ、と周りから見られた、気がした。

 今日は上着はなくYシャツ一枚で、黒井の湿った体温を間近で感じる。

 そして電車が急に揺れると、その腕は僕を支えようと、反射的にさっと伸びてくる。

 目の前の席に座るサラリーマンが、顔を上げて明らかに一度僕たちを見て、スマホに目を戻した。

 僕たちがついさっきまでこいつの家でヤっていて、風呂から上がって会社にまでもべったりイチャイチャと一緒に向かっているところ・・・だとか、思われてるんじゃないか、とか・・・。

 僕自身が居たたまれないというのもあったけど、それより、黒井がそんな風な目で見られるのが許せない気持ちもある。

 でも結局、昨夜の結論・・・つまり、男同士で好きあっている僕たちがいったいどう生きていけばいいのかの答えは出ていなくて、堂々とするのか、隠すのか、まだ僕の行動指針はないから、曖昧に濁すしかなかった。



・・・・・・・・・・・・・・・・


 

 新宿で降りて、目の前の座席の視線からは逃れたけど、地下通路でも僕は二人の距離感を見失った。前を歩くサラリーマン二人をお手本に少し離れて歩くけど、でも誰のためにこんなに遠慮しなきゃいけないんだって衝動もわいて、距離を詰めたら、どんとぶつかった。

「あ、ご、ごめん」

「・・・そうだねこ、あのさ」

「うん?」

 僕の葛藤をよそに、何を考えているのか分からない黒井は鞄からスマホを出して、鞄を僕に持たせると、画面を横にして二人の前に出した。

「な、何だよ」

「おもろい動画見つけたんだ。ほら、これ見てて」

 歩きながら、少し暗くて見えにくい画面を注視する。黒井の手がすっと僕の肩に置かれ、反射的に緊張するけど振りほどくことも出来ず、しかしスマホの方は揺れがおさまって見やすくなった。画面の中ではふさふさと丸っこい生き物が二つ、冬山の白樺みたいな木の高いところまで登っている。

「これさ、カナダオオヤマネコのオス二匹」

「・・・は、はあ」

「ケンカしてんだよね。そんで、この鳴き声がおもしろくってさ・・・」

 そして、黒井が何かのボタンを押し、音声が出る・・・。


「イヤーーーーーッ!!」


 ・・・っ!?

 突然の大音量の悲鳴に、周りの人々がぎょっとして振り返った。黒井は「あ、やべっ!!」と笑いながら音量ボタンを連打し、「くはは!」と腹を抱える。

「お、おいっ!な、何やってんだよ!?」

 それはまるで、修羅場で嫉妬に狂った女が刃物片手に追いかけてくる時の金切り声みたいだった。僕は大げさに「バカ、音がでかいよ!」と、今のが動画の音声であることを必死にアピールし、黒井は「ヤマネコうっせーー!」と涙目でばしばしと僕を叩く。僕は気が気じゃないのに黒井は変な笑いのツボに入ってしまい、挙句にスマホを落として蹴っ飛ばすから僕が拾いに走って、地下通路の無言の行進が器用に僕たちを避けていった。



・・・・・・・・・・・・・・



 拾ったスマホをハンカチで拭いて渡すと、黒井は殊勝に「悪かった、ごめん」と謝った。

 通路の壁際で立ち止まって、受け取ったスマホを黒井が操作する。「どっか壊れた?」と訊くと、「へーき」の返事。

 人はどんどん流れていくから、あの金切り声の被害者はもういなくなって、端っこでじっとしている僕たちに目を留める人はいない。

「あ、あった。これ、違うヤマネコの鳴き声」

「え、おい、もういいよ!」

「お願い、今度は大丈夫だから、こんだけ見て!」

 僕は腕時計を見てまだ少し余裕があることを確認し、仕方なく画面に目をやると、今度はスフィンクスのように座った茶色っぽい一匹の山猫。三角の耳の先端から、しゅっとした飾り毛が出ている。顔はネコよりちょっとむさ苦しく、妙に渋い。

「・・・ャ」

 ・・・?

 思わず身を乗り出すと、黒井が今度は慎重に音量を上げた。

「・・・みゃん」

 ・・・。

 ・・・かわいい。

「みゃっ、・・・みゃーん」

 おずおずと何かをねだるような、子猫みたいな声。でも画面に映っているのはむさ苦しくてサイズのでかい山猫で、どうにも折り合わない。

「・・・ね、大丈夫だったでしょ?」

「う、うん」

 何だか分からないが用は済んだらしく、スマホをしまおうとするので持っていた鞄を返すと、ふいに手をつかまれ、ぐいと、その顔の前に持っていかれて。

 手がどうかしたのか、スマホを拾う時に汚れでも付いたのかと見ていたら、黒井は一瞬こちらに目配せした後、両目を閉じて、僕の手の甲に、口づけた。

「え、ちょ・・・っ」

 脳が混乱して、何度か瞬きをしてもう一度見ると、もうその口は離れている。

 今見えた映像は何かの間違いなのかと思うけど、手の甲には湿った感触が残り、微かに聞こえた「チュッ」という音も耳の奥で反響していた。

 思わず黒井の顔をまともに見て、その顔は、興奮と達成感がにじみ出るような、目を見開いて口角の上がった笑顔。まだ少し痺れたような手の甲はそのままに、しかし今度は手のひらの側から指の間に指がするりと入ってきて、きゅうと、握られた。


 ・・・。

 今更ながら、僕は、この男に好かれてしまっているんだと、動揺する。

 手の感触は、男二人が朝からヤって風呂上がりで・・・という妄想くらい、生々しくて。


 自分より背の高い男に公衆の面前で手にキスされた挙句にぎゅっと繋がれて、しかしそれだけの刺激で勃ちそうな自分が、もう、あらゆる意味で恥ずかしい。

「ねえ、やまねこ」

「・・・な、なに」

「俺、お前と別々の会社とか、やだよ」

「・・・」

「俺のせい、ってことで、・・・ぜんぶ、全部俺のせいってことで、さ」

 繋がれた指をほどくことは出来ないまま、うつむいた顔をほんの少し上げて隣を見ると、黒井は僕たちの会社のビルの方をぼんやりと眺めていた。

「・・・それ、どういう、意味?」

 数秒して、手が、さらにぎゅっと握られる。

 出勤してくる同僚に見られるんじゃないかと思うと冷や汗が出る心地で、でも、握ったその手は他の誰でもない僕を求めていて、離されることはなかった。それどころか腕ごと引かれて、身体までさらに近づく。

「俺さ、こういう、気持ちも、抑えらんないし・・・でも、お前が困るのもやだし、でも俺のこと気にしてお前がどっか行っちゃうのも、もっとやだし。・・・だから、俺の、せいにしてさ、それでお前はここにいてよ。・・・あん時みたいに、庇わなくて、いいから」


 いいでしょ、と、言われて。

 分かった、と、考える前に答えていた。


 「あん時みたいに」というのはたぶん、去年の喧嘩騒動のことだろう。黒井が僕を殴った悪者になってしまい、僕はそれを庇いたかったけど、ろくに、庇えてはいなかったんだけど・・・。

 でもそれってつまり、・・・こうして手を繋いでいるのは黒井が一方的にしているってことで、僕は拒否していて、お前だけが<そっちの気がある>と言われて構わないって、そういうこと?

 ・・・いや、そんなのは、違うだろ。

 むしろ、先に恋愛感情を持ったのは、僕の方なんだぞ。

 ・・・でも。

 隠せないクロと、隠すのが得意な僕。

 もしかして、そういう役割分担で、乗り切ろうということ?

 ・・・それがいいことなのかは、今、分からないけど。

 でも、元々正解なんかない道だ。

 うまくいかなかったらまた方向転換すればいい。クロがその気なら、やって、やろうじゃん。

 

 僕がもう一度「分かった」と言うと、黒井は片目をつぶってみせ、「じゃあ行こ」と囁いた。

 それから僕は手を繋いだまま引っ張られていき、「ちょ、ここでは離せって」「やだよ、今日寒いじゃん」「くっつくな!」と、これはいわゆるツンデレのツンという役なんだと言い聞かせてその手を振りほどき、エレベーターに乗った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 外回りをして帰社し、夕方。

 月末の事務処理をしつつ、明日の新人営業デビュー告知会の準備。

 まあ、準備といってもどこかのミーティングルームを予約することと、告知の段取りを考えるだけだけど・・・。

 しかし最初はプロデューサー気分でちょっと浮かれていたけど、いざ本当に新人たちの前に僕がたった一人で立って何かを話したり仕切ったりすると思ったら、ちょっと、無理そうな気がしてきた。事の顛末を全部文書にして、それを黙読してもらう会じゃだめかな。

 ・・・。

 ふと、背後に気配。

 あれ、また飯塚君が何かの質問に来たのか?しかし「山根さん」とも呼ばれないし、四課の別の人への用事?

 ・・・ほんの少し振り向くと、目の端に、見知ったズボンとダークブラウンの革靴。

 ・・・クロ?

 え、な、何してるんだ、僕に何かしようとしてる?

 僕は急いで二人の関係の設定を思い出し、えっと、恋人だけどそれはバレちゃいけなくて、黒井は<俺のせい>にしてと言って、それで、僕は一方的に絡んでくる黒井を拒否するツンデレのツン・・・。

「あの、ちょ、山根君?」

「え、あ、はいっ?」

 隣の西沢が怪訝そうな顔で僕に声をかけ、客が来ていることを教えようと、顎で背後を示す。

「・・・」

 えっと、何だ、僕はまだ後ろに黒井がいると気づいていない設定で、これから振り向いて「おう」と驚くところ?でもそれにしてはもう不自然に前を向いたまま沈黙してしまっているし、拒否する、絡まれる、ツンの役・・・いや、ど、どうしよう、台本がよく分からなくなってきた!

 そして、PCを見たまま、数秒固まって必死に考えていたら。

 突然、腕の、脇に近いところの内側をぐいとつかまれた。

「うぎやぁあっ!!」

 驚きで身体がびくんと痙攣し、思わず立ち上がって腕を振りほどく。

 西沢も横田も、そして四課の面々も驚いてこちらを見ていた。

「・・・、あっ、す、すいません!すいません・・・」

「くくっ、お前、驚きすぎだよ!」

 まるで他人事な黒井の言葉に、もう何だかいろいろ言いたいことがあるけど、でも設定が飛んでしまって、僕は首を真横に振りながら「や、やめ、やめろお前っ!」と抑えた声を絞り出す。こういう抜き打ちドッキリみたいのはやめてくれ、バカ犬!

「ね、コーヒー行こ」

「・・・」

 立ち上がってしまったし、居たたまれないしで、もう無言で給茶機方面へ歩き出すと、黒井がついてきてまた腕をつかむので今度は本気で振り払ってしまった。

「お、おまえ、やめろって!だめだって!!」

 早足で歩きながら、小声で怒鳴りつける。まだ心臓はばくばくしていて、と、とにかく給茶機まで逃げないと!


 ホットコーヒーの抽出の音に紛れて一気に文句を言おうとしたけど、口がパクパクするだけで、何も出てこなかった。えっと、何から、どこからだ?

「ちょ、やまねこ、おい」

「・・・へ?」

「『俺のせいにして』とは言ったけど、なに、今のはお前の演技?ちょっと不自然すぎない?」

「ふ、ふ、ふし・・・!」

 訴えるように黒井を見据えるけど言葉は出てこなくて、しかしちっとも悪びれないその顔は、「ねこ、落ち着けってば・・・」と、後半から声はトーンダウンし、伏し目がちになり、少し斜めに傾いて、こちらにゆっくり近寄ってきて・・・。

 ・・・だ、だめ、だめだって。

 こんなところでキス、とか、だめだって・・・!

 すんでのところで顔を背け、そのまま後ろを向いた。

「・・・ねこ」

「なんだよっ!」

 混乱して、思わずまた強く言ってしまう。羞恥で怒っているのか、キスがしたくてしょうがないのか、動悸の要因が自分でも分からない。

「ねえ、コーヒーできた。砂糖とクリープ入れて」

「・・・わかった」

 ・・・やることを明確に指示されれば、冷静に、それをする。

 手は少し震えてるけど、砂糖のスティックと、あとは棚からクリープを出して・・・。

 うん、黒井も僕の扱いがうまくなったのか?

 そして次の紙コップをセットしながら、黒井が「何かこれ、まずいね」とつぶやいた。

「・・・まずいって、コーヒーが?」

「違う、この、『俺のせい』っていうの・・・」

「・・・うん?」

「はは、お前の下手すぎる変な演技のせいか分かんないけど、何か、乗せられてるっていうか、これ、止まんない」

「・・・これって、何が?」

「お前の言うとおりだよ、俺、隠すのって、何か、出来ないみたい。でもそれ意識しちゃったらさ、何かよく分かんないけど、・・・余計に隠したくないっていうか、もうお前が欲しくてしょうがないっていう・・・」

「し、しーっ!そういうことは言うな!」

 僕はもう手のひらでその口を塞いで、でも、その上から捕まえたとばかりに黒井の手が重なり、しかも手のひらはぺろぺろと舐められていて、も、もう、本当に・・・!


 腕を叩いて何とか手を引きはがし、でも手のひらに付いた唾液は、本来なら僕がこっそり舐めたいところなんだけど・・・と考えたら僕までおかしくなりそうで、仕方なくハンカチで拭った。

「ちょっと、クロ、お前は頭を冷やせ!」

 作ったコーヒーを持って立ち去ろうとすると、「それ、俺の」と言うので、僕は今出来上がったコーヒーを取り出して「ブラックでも飲んでろ」と渡した。

「えー?ちょっと待ってよ」

「待たない!」

 振り返らず歩き出し、もう、あっちもこっちも居たたまれず、この往復はいったい何なんだろう。

 ・・・本当に、何なんだよ、もう。

 胃の下のあたりがきゅうきゅうして、色々、言葉が出てこない。


 ・・・。

 ・・・セクハラ。


 せ、セクハラなのか。

 図らずも、なぜだか本当に、<俺のせい>と<ツン>が、現実化している?

 つまり、黒井が僕に一方的に絡んで、僕はそれを拒否するという、・・・それは僕たちが恋人同士であることを隠すための設定だったのに、・・・本当に、黒井が僕に一方的に絡んで、僕がそれを拒否している。何だこれは。

 ・・・って、いうか。

 せ、セクハラだよ、これは・・・。

 僕はもう一度舐められた右の手のひらを見て、そして裏返して手の甲を見れば、そちらだって朝にキスされていて。思わず左手に目をやれば、つややかな黒い文字盤の腕時計。何だ、もう、僕は<黒井のもの>ということ?・・・い、いや、そうなんだけど!

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