第338話:痴漢プレイとスカートめくり

 甘ったるくてまずいコーヒーを飲みほして、ろくに仕事が手につかない。

 もうさっさと帰ってしまおうと、オフィスを出る時にちらりと三課を見れば、黒井がバイバイとこちらに手を振るのが見えた。

 急いで首をぶんぶんと真横に振って。

 廊下に出て、早足で、エレベーターへ。

 ・・・まったくどうなってるんだ!・・・いや、まあ、手筈どおりなんだけど!

 地下通路もスピードを緩めず踏破しながら、何だよあいつ、何だよあいつ・・・と、頭の中はもう黒井でいっぱいだ。何なんだ、もう、今朝はここで山猫の金切り声と甘えた声を聞かせられて、あれだって何だったんだ。

 ・・・え、山猫の、ツンとデレ?

 ・・・会社ではツンでも、二人の時はあんな風にかわいく甘えてほしいってこと?

 い、いや、かわいくって何だよ!あんなかわいい声は無理だよ!

 

 おかしな興奮がおさまらないまま、思考と感情が交互に折り重なるように沸き立っていき、電車の中でも勝手に顔が赤くなっていくのが分かる。

 今までだって、「お前のこと好きだ」と何度も告白されたり、「お前としたい」なんて恥ずかしげもなく言ってくるやつだったけど、・・・こうしてあらためてセクハラまがいに迫られると、それは確かにクロなんだけどクロじゃないようで、でも、どうして僕がここまで動揺しているのかはよく分からない。みんなの前で腕をつかまれて変な声を上げ、恥ずかしくて混乱したのはともかく、・・・その後の給茶機では誰にも見られてはいないのに、どうしようもなく、えっと、その・・・。

 ・・・。

 ・・・うん?

 ・・・混んだ電車に飛び乗って、身動きが取れないまま揺られて、尻の辺りに、違和感。

 何か、当たってる?

 たぶん、後ろの人の鞄だろう。まさか、男が痴漢に遭うわけがないし。

 もぞ・・・、と、何かが動く。

 いやいや、きっと鞄からスマホを出したくてごそごそしてるんだろう。あるいは、僕に当たってるのを分かって、向きを変えようとしてくれてるんだ。・・・いや、余計、当たってるけどね。むしろ食い込んできてるけどね。いやちょっとやめて、足の間に入れてこないで、今変なことされたら変な想像しちゃうから・・・。

 ・・・まさか、本当に痴漢?

 いやそんなことがあるわけない。ましてや、僕が狙われるなんてこと。

 ・・・いやちょっと、やっぱりわざと動かしてる?突き上げてきてる?前の方まで、じわじわ、刺激してきてる?

 まずいって。

 僕の目の前にいるのは妙齢の女性で、万が一、僕の下半身が変な妄想でいきりたって、それを押しつけてしまったら、僕が痴漢になってしまう。

 ごくりと、唾を飲みこんだ。・・・いやいや、それもまずいだろう。

 ・・・。

 あれ、もしかして。

 こう、いう、・・・感じ、なのか。

 べ、別に、黒井が痴漢だなんて言う気はないけど、何ていうか、・・・一方的に絡まれて、僕からは何もしなくて拒否するだけなんて、・・・本当は恋人なのに、あえて痴漢プレイをしているかのような・・・。

 ・・・だっ、だめだめ!

 そんな、そういうプレイが出来る部屋で・・・とか、想像しちゃだめだってば!

 思わず女性から離れようと半歩後ずさり、鞄の角でさらに刺激され、それでさらに後ずさる。いや、前に迷惑をかけないようにしてるだけで、後ろのを求めてるわけじゃない!

 しかし、その瞬間。

 ・・・鞄ではなく、生温かい手が、確かに尻に触れ、ゆっくり包み込んできた。

 身体が硬直する。

 触られてる・・・。

 いや、尻ポケットの財布が半分ガードしてくれていて、あ、もしかして痴漢じゃなくてスリ?

 尻よりもとにかく財布を守らなくてはと、何とか手を後ろにやって、でも僕の尻に貼りついているその手に触れたら体温が気持ちが悪くて、思わず離れた。財布が抜き取られる感触がしたら何か叫ぼうと思ったが、明大前に着いてホームに押し出されたらもう誰が誰だか分からなくなり、財布も無事で、とにかく急いで帰宅した。



・・・・・・・・・・・・・・



 何となく、家じゅうの電気をつけて、ドアチェーンまでして。


 傷みかけたじゃがいもを全部使ってしまおうと、大量のポテトサラダを作りながら、つい、手が止まる。

 ・・・財布の中身も全部あったし、実害は何もない。

 帰ってからズボンやシャツも念入りにチェックしたけど、何かの液体が擦りつけられていたり、ポケットに変なものが入っていたりということもなかった。それでも気持ち悪くてズボンはクリーニング行き。

 ・・・いや、ちょっと、過剰反応か。

 はは、と苦笑いして、ボウルいっぱいの熱々の芋をスプーンで粗く潰しながら、塩コショウにお酢を少しと、あとはこれでもかとマヨネーズを絞る。自分的に入れ過ぎってぐらいでないと、ポテサラというよりふかし芋のマヨ風味になってしまう。

 うん、やっぱり自意識過剰かな。

 そう考えると、そもそもあれが本当に痴漢やスリだったのか、それすらあやしくなってくる。僕が変なことを・・・黒井がセクハラだとか考えていたせいで、過敏になっていたのかも。うん、っていうか黒井以外に、僕にそんな欲求を持つやつがいるはずもないし。

 ・・・え、まさか、あれはクロ?

 いやいや、僕がオフィスを出る時クロはまだ残っていて、仮に走って追いついたとしても、あんなことをして、無言で去っていくなんて、そんなことはしないはず。

 そう、それに、あの手の感触。

 今日だけで何回握られたと思ってるんだ(二回だけど)、あれは黒井の手じゃない。クロの手はもっとさらっとしてて、少し骨ばっていて、もっと大きくて、だからあんな、べたっとして、皮膚が薄い感じの、あんな感触じゃ・・・。

 芋を混ぜる手が止まる。

 気持ち悪くなって、もう一度、石鹸でごしごしと手を洗った。

 財布を守るためとはいえ、あんなことするんじゃなかった。気持ちが悪い、気持ちが悪い。痴漢じゃなく痴女ならここまで気持ち悪くないと思う。やっぱり男だから、そんなの気持ち悪い・・・。

 もう一度洗って、タオルでよく拭いて。

 鶏肉を切る包丁が、震える。

 ガタン、と、まな板にそれを落として。

 おい、だめだって、潔癖が暴走して、パニックになっている。

 だめだ、思い出しちゃだめだ。電車のことはもう忘れよう。震える右手を見て、それは裏も表も黒井の唇が触れた手で、え、僕はそんな右手で痴漢に触れてしまったの?クロが、キスしてくれた手が、汚された・・・。

 包丁を、見る。

 左手で右手を切り落とすのは全然得策じゃない。メリットとデメリットをしっかり計算しろ、・・・いや、皮を剥ぐだけなら?いやいや、左手で芋の皮も剥けないのに無理だろう。うん、無理なことは無理。だからやめよう。

 僕はもう一度、台所用洗剤で手を洗い、それから石鹸できっちり洗い流した。

 むしろ、あれが、クロだったらよかったのに。

 でも、あれは違った。あの感触は・・・。

 いや、思い出すな、またパニックになってしまう。僕はもう夕飯の準備を諦めて、携帯に飛びついた。



・・・・・・・・・・・・・・・



「もしもし、クロ、あっ、あの・・・!」

「え、もしもし、どうしたの?」

「えっ、えっと・・・」

「ねこ、どうしたんだよ、何かあった?」

「・・・」

 何を、言ったら、いいんだろう。

 深呼吸をして、少し冷静になって。

 ろくな実害もないのに潔癖で騒ぎ立てて、手を洗いたいなら勝手に何遍でも洗えって話で、クロに言うべきじゃないと思った。

 ・・・いや、心配や迷惑をかけたくないというより。

 知られたくない。

 もう、僕のこんな右手には触れてくれない、キスしてくれないかもしれない。

 隠さないと。

「な、何でもない、ごめん」

「おい、もしもし?やまねこ?」

「・・・」

「ちょっと、ねこ!」

「・・・う」

「ねえ、お前がそんな声出してる時、絶対何かあるじゃん。言ってよ、ねえ、俺に言えない?言おうとして電話してきたんじゃないの?」

「・・・」

「別に何だっていいからさ、俺、笑ったりしないし」

「・・・」

「ねえ、お願い。・・・お前が話すのって、時間かかるし、何か色々考えてからだって、分かってるけど。別に、待つからさ、俺には言ってよ」

「・・・」

 俺、お前と一緒に生きていきたいんだよ、と、電話の相手は僕に訴えた。

 そんなこと言われたら涙さえ出そうになり、僕は、さっき電車で起きたことを話した。



・・・・・・・・・・・・・・・



「・・・それで、何か、気持ち悪くなっちゃって、つい、お前に、電話・・・」

「ねえ、ねこ、・・・それって、さあ」

「・・・うん?」

「それって・・・やっぱり、男に触られたのが、嫌だった?」

「・・・う、ん」

「俺に触られるのも、本当は、嫌?」

「・・・ち、ちがっ」

「だって、俺も、男、じゃん」

「そう、だけど」

「だって今日、お前、わりと本気で、嫌がってた・・・」

「ち、違うって、違うよ、ただ、周りに人がいると俺、混乱するから・・・!」

「うん、そんだけ?本当にそんだけ?」

「・・・」

 黒井の追求は鋭くて、でもその部分は僕にもまだ本当に分かっていないし、まさか「痴漢プレイみたいで興奮した」などと言えるはずもなく、沈黙。

「・・・でも本当にさ、俺のこと本気で嫌がったわけじゃない?」

「う、ん。お、俺はお前のこと好きなんだから、お、男だって分かってて好きなんだから、嫌がってなんかない」

「嫌じゃないなら、もっとしてほしい?」

「・・・い、いや、もっとはまずいだろ、会社だし」

「会社じゃなかったら?」

「・・・そ、それは、して、ほしい・・・って、何の話だよ!」

「スカートめくりの話」

「はっ?」

「スカートめくりって俺、全然興味なかったんだよね。だってさ、風とかでたまたまめくれて見えるのがいいのであって、自分でわざわざめくりにいくなんて、つまんないじゃん?」

「・・・」

「だから他のみんながやってるのもすげえ馬鹿馬鹿しいと思ったし、むしろ女子がずっとブルマとか履くようになったりして、やめてくれってさ・・・。でもそういえばって、今、思い出したんだよ。『誰々ちゃんが、お前にスカートめくってほしがってる』って、言われたこと」

「・・・」

「俺、『めくってほしいの?』って訊きに行ったけど、何かその子泣いちゃって、やっぱり違うじゃんって。でももしかしてその子は俺のこと好きで、本当はそういうことされたかったけど、そんなの、『めくってほしい』なんて言えなかったってことでしょ?言ってくれればするのにさ」

「・・・」

「そんで、だからえっと、俺・・・」

「・・・」

「今は、めくりたいんだよ。お前のスカートを」

「・・・はあ?」

「たまたま見えるんじゃ物足りなくて、もう、俺が、走ってめくりに行きたいんだよ、一直線に」

「・・・え?」

「だ、だからさ、お前も・・・めくって、ほしい、わけでしょ?も、もちろん、俺に、だけ・・・」

 ・・・。

 何て、返答したものだろう。

 僕のたとえが<痴漢プレイ>で、お前は<スカートめくり>で、いや、何だか、うん、お前のはさらっと乾いていて、僕のはねっとりジメジメしていて、性格が出るなあ、なんて。

「あのさ、クロ・・・」

「う、うん、なに?」

「あ、明日、また」

「・・・うん?」

「また、その、えっと、あの」

「・・・」

「き、今日、俺の手に、したこと・・・い、嫌じゃなかったら、もう一回・・・」

「・・・うん、いいよ」

 それじゃまた明日ね、と、黒井は爽やかに電話を切った。

 ・・・話を聞くとか言っといて、僕の被害届なんかすっ飛ばして、結局自分の話じゃないか。


 僕はしばらく携帯を握っていたけど、立ち上がって、キッチンに戻った。

 手は洗わずに、すっかりぬるくなった鶏肉を切って、照り焼き風味で炒め始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る