26章:あらためて、片想いが募る日々
(同じポジションになっても、話せなくてジリジリする)
第195話:営業兼営業事務になる
日曜日。
また鶏肉を買ってきて、包丁でひたすら切った。
般若心経を聴きながら一緒に歌っていたら、口からすらすら出てきて、驚いた。
無眼耳鼻舌身意、と、無眼界乃至無意識界、がつい混ざってしまうけど、部分部分はほとんどフレーズとして覚えていた。イチから書けと言われたらまだ無理だろうが、大体、音に合わせてだったら歌えた。
・・・もしかして、僕、これを歌えばよかったんじゃない?
だってほぼずっと同じ高さだし、まさにお経を読むように歌えばそれがうまいってことだし、僕にぴったりじゃん。
はは、なんだ、どこかに抜け道ってあるもんだな。
真正面からぶつからなくたって、拍手を得たり、合格することは出来るんだ。
妙に落ち着いた午後だった。誕生日のことは結局、僕のところに戻ってきてくれたということで、何だか気が抜けてもうキリキリしなかった。
スーパーでもらってきた無料のレシピの冊子を見ながら、ふむ、みょうがとか使ってみようかな。
昼はパスタ、夜は親子丼で、デザートにはチョコプリン。アイロンをかけながら、今度は一人でアカペラ般若心経。うん、曲に合わせないとつい同じところを繰り返したり、飛ばしちゃったりするな。
夜、スーパーのおつとめ品で五十円の白菜を買ってきて、浅漬けの素で漬けた。
白菜を一枚ずつ洗って、小さな虫は奥歯を噛み締めながらいくつか流して、小さめに切って、もらってきた新しいポリ袋に入れた。早速みょうがも刻んで、何だかざらざらする切り心地だな。
風呂から上がって、いい加減伸びてきた前髪を自分で切って、歯を磨いたらついに、お前を思って抜いた。すぐいっちゃうと思ったけど意外とかかって、ちょっと腕が疲れた。うん、お前、やっぱ早かったかも。そのかわり僕は妄想の果てに変な体勢になってまた足がつりかけた。
ティッシュをポリ袋でぎゅっと縛って、うっ、これ飲んだのか、と、思わず顔を背けた。僕はいいけど、お前にはとても飲ませられない。だから僕の誕生日には・・・ってのも、なくていいよ、なんて。
・・・・・・・・・・・・・・
月曜日。
何を思って行ったらいいか分からず、早めに出て写経することにした。
西沢のやわらかい「おはようさん」を聞いて、何だか、この人はまともだ、と思った。まっとうで地に足がついていて、現実をちゃんと生きている。朝、テレビをつけたら天気予報がやってるみたいに。
「山根君、最近何か、どんなことやっとるん・・・っと、お経やな。はいはい、えろうすんまへん」
いえ、すいません、とはっきり発音もせず会釈で済ませ、上着を脱いで写経を始める。頭の中の、音楽に合わせたそれと、一画ずつ書いていくそれのスピードが合わなくて、口ずさみながらすらすら、とはいかない。でも、書いたら意味がつかめて発音しやすくなって、耳で覚えたらその通りに書けるようになって・・・という、相乗効果の良いスパイラルに入っているようだった。久しぶりにつかむ、何か、新しいものを習得しつつある感じ。
ふと、黒井が暗がりに消えていくのがまた浮かんでしまい、<遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏・・・>という、唯一少しロマンのある(夢の字が入っているから)部分を書くけれども、偉大な智恵の安心は得られなかった。
黒井との関係は、時々、僕とあいつの持ってるもの、欠けてるものが凹凸の留め具みたいにお互いに引っかかって、感じたことのない、生きていることを喜べるような瞬間になることがある。でも、それが、きっと逆方向にもなりうると思うと、怖かった。喜びが天井知らずなら、そっちは底なしだろう。スパイラルは、上にも下にもなりうる。
救いの手を求めるなら、たぶん、仏教よりも物理なのだった。信心なんかこれっぽっちもない僕は、臨死体験をしたって仏にも天使にも会えないだろう。だから、このお経をすっかり覚えたらもう、アトミクに移る時期なんだ。素粒子信仰の、たった二人きりの団体。信仰の動機はたぶん違うけど、これから、共有して、いけるよね・・・。
・・・、もうだめ。
背中が、耳の後ろが、チリチリしてくる。
三課が気になってしょうがない!
だって、およそ一ヶ月半ぶりだ!
だんだんと人が増え始め、騒がしくなってきて、僕はドリルを閉じて引き出しにしまった。やがて、中山課長の「ああ、戻ったか」に続き、「あー、何か変わってる。いやあ、お久しぶりですね」・・・。
振り向きはしないまま、喜びを噛みしめた。
朝礼が終わり、僕は先週のデータの取り込みと件数確認、進捗管理表への入力、不備チェックに入る。慣れれば別にどうということはないルーチンワーク。一応もらったマニュアルを参照しながら、不備件数を佐山さんにも訊いておく。品番の欠品が一件、住所不明での戻りが一件・・・。
バインダーに記入し、シヤチハタを押したらとりあえず朝イチの作業終了。別に時間もそれほどかからないし、営業の合間に出来てしまうから支障はないんだけど、その割に気にすることも多くて、つまりただ面倒が格段に増えただけという状況。もう、僕に数字振らないでくれるならいくらでもやってもいいけど。
・・・だって、黒井は今中山課長に連れて行かれ、たぶんこの作業の説明を受けている。一応先週、中山に「教えてやれ」と言われてるんだから、うん、もうちょっとぐずぐず待ってれば、「いたいた、ちょっと・・・」と声をかけられる、はず・・・。
どっちにしろ、月曜は九時半に配送業者からソフトが届いて、発送部屋に置いてってくれるんじゃなく、サインして受け取らなきゃいけないから、それまでは待っていられる。まあ、別に僕がいなかったら佐山さんが受け取るだけなんだけど、ちょっとジュラルミンが重い時があるから、課長からは受け取ってあげて、と言われていた。
九時半過ぎ、内線が鳴って「はい四課」と出ると、それが届いた。受付じゃなくて裏口にまわって受け取りにサインし、え、三個もあるの?ああ、台車引いてくればよかった・・・。
いつものデータの他に、どうやら例のビジネス某が本社から取り寄せた何かが二つ。ったく重いな、一番端まで僕が運ぶの?自分たちで取りに来い!
往復するか台車を持ってくるか、時間と労力と安全性と手間を勘案したが、両者は拮抗したまま、決定打はなかった。しかしどちらかに決めなければ時間だけが徒に消費されてしまう。腕時計を無駄に眺めて、いや、まあ、本当にどっちでもいいんだけど、ベストの対応を選びたい気持ちが邪魔して、足が動かない。無理して三つ持って、うっかり落として中身が破損したら?台車を取りに行っても出払っていたり、その間にジュラルミンがなくなっていたら?
・・・微かに、ピッとカードキーの音。
どん!
「いてっ」
「・・・あ」
「え?」
裏口の重たい鉄のドアが勢いよく僕の肘に当たり、痛いというより痺れた。腰に手なんか当てて逡巡しているからだ。
・・・っていうか。
「いたいた。お前、めがね」
「・・・っ、だ、だから何」
何でもない風を装って、肘の痺れもやせ我慢で、っていうかほとんど感じないほどで、俺、仕事忙しいんだよなー、ったく、何だよ、何か用?暇なら手伝ってくれよ、あ、なに、お前もこれ取りに来たの・・・?
・・・って顔、してるんだから見ろって!
「あ、閉まっちゃった。おーい、開けて、こっち来て!」
黒井はがいんがいんとドアを叩き、誰かを呼んだ。ピッの音、そして開きかけたドアを強引に黒井が開け、「ここ、裏口ね。あとこれ四課のやまねこうじ」と僕を示す。
入ってきたのは、小さくて、かっちりと上着を着た男の子だった。
いや、男性というより男の子とか少年と呼ぶのがしっくりきてしまう、ひょろくて思いつめたような顔の・・・まず間違いなく新卒の子だろう。そうか、今日から支社だったのか。
僕だってそれほど背が高い方じゃないけど、黒井と二人で挟むように立つと、何だか校舎裏で下級生をいじめているみたいな気分だった。いやいや、加害欲求なんかないって。
でも、ちょっとだけ、先輩風を吹かせたくなったりもする。
もしかしたら、黒井と仲良くなった新人に対する、牽制も、含めて?
いや、大人気ないっていうか、余裕とかないね、俺。
「何だよ、突然来てなに」
「え、何か、手伝おうかって」
「それは有り難いけど、こちらは?」
「え?ああ、これ不破くん」
・・・それ、もしかして、僕に似てたって子?
こ、こんな?
僕ってこういうイメージ?
不破くんとやらは曖昧に会釈して、目線は常に低空飛行のまま、一言も発しなかった。
「今さ、佐山さんに聞いて、ここだって。っていうか俺もこんなとこ使ったことないよ」
「いや、だからさ、どうして佐山さんで、どうして突然彼を連れてくるの」
「ん?暇そうだったから」
「ひ、暇ってことないだろ。今日からなんだから、いろいろと・・・」
ねえ?と笑いかけようとして、しかし何か無駄そうだったから、やめた。
とりあえず立っていてもしょうがないから、三人でジュラルミンを一つずつ持って運んだ。おかげで用は達せられたけど、僕はだいぶ複雑な気持ちだった。
ただ一つだけ言いたかったのは、僕はここまで不愛想じゃないし、会社の人にはもっと気を使うし、いくらまだ客先に出ないからってそんな、うっすらドクロが彫られた、ブーツみたいな靴は絶対履いてこない・・・!ってあれ、全然一つじゃなかったか。
「おい、向こう、研修かなんか始まるんじゃない?」
黒井に呼びかけ、不破くんに「行った方が、いいかもよ」と声をかける。不破くんは、あなたがそう言うんなら行きますが・・・という顔で、ジュラルミンを机の端っこに置いて、無言で去っていった。おい、こんなぐらつくとこに置いてくな!挨拶とか先輩を立てろみたいのは僕には要らないから、モノだけちゃんと扱え!
僕は自分たちの分じゃないジュラルミンを両手でふらふら奥の島に運び、「本社から、これ、ここでいいですか?」と空いた机の上に置いた。「あ、下でいい、下でいい」って、自分で置け!
・・・何か、無駄に怒ってるな、僕。
いや、本当は怒ってないよ。クロに会えて嬉しいだけ。会社で会うのはちょっとこそばゆいし、もうお前だけだって顔でいるわけにもいかないから、ったく忙しいぜって腕まくり。だって恥ずかしいじゃん、これから一緒に仕事するなんて・・・。頬が緩みそうで困るじゃん。だから、心拍数が下がんないまま、無駄に「じゃあここ置いときますね!よろしくでーす!」なんて愛想笑い。
四課に戻ると黒井は勝手に課長の引き出しから鍵を取り出し、ジュラルミンを開けていた。隣に立つと、「何か・・・いいよねこれ」と。うん、両手でゆっくり開けて、札束だの拳銃だのミイラだのが入ってたらいいね。
「ま、中身は差分データだけどね」
僕はそう言って、手を伸ばして中の納品書を取るふりで、黒井の身体に、ちょっと触れた。新卒みたいな真っ白いシャツにノーネクタイで、少し袖を引き上げた、その腕に。
そして、何となくそれを察したのか、黒井が言った。
「何かさ、やけにみんなラフだなって思ったら、クールなんたらって、もう、早く教えてよ」
「え?あ、ああ、五月から、ね」
「本社ではなかった」
「え、そうなの?内勤なのに?」
「うん」
まあ、社長や会長がいるのは本社だし、いろいろお偉いさんが訪れるから、見栄というか、体面だろう。僕はあらためて、黒井が本社勤務だったってことと、こっちに来てからまだ一年経たないんだってことを思って、また妙に緊張した。
「そいでこれ、どーすんの」
「え、えっと、宛先は・・・」
二人で納品書をのぞき込む。あ、ちょっと、黒井のにおいがした・・・。僕はもう紙なんか見えてなくて、指でなぞるふりで、もうこの時間が永遠に続けばいいって・・・。
「あ、これじゃん?」
「・・・え?」
黒井が該当個所を指さして、手が触れ合う。「お前、眼鏡してるくせにさ」って、いや、そうですけど・・・。
「ね、ちょっと」
急に目の前に手が伸びて、思わず避けるけど、意図を察してそのまま止まった。斜め上に、すっと取られる。急に<鮮やか>とか<シャープ>の段階が二つくらい下がって、そして黒井が僕の眼鏡をかけた。
「うわ、よく見える、ってか、見えすぎ、ひい」
きょろきょろして近くや遠くを見て、それからこちらを向き、「どう?」と。バカだな、そんなの、かっこよすぎて呆れるくらいじゃん。
「お前、目がいいんだね。1.0くらい?」
「さあ、そうじゃない?っていうか似合う?」
「はいはい似合う似合う」
尻に膝蹴り。
「・・・やめなさい」
笑い混じりに制しても、課長も誰もいないフロアで、黒犬はすっかりくつろいでいた。何か、もう、こんな日が来るなんて。
・・・・・・・・・・・・・
結局その後は外回りに出て、これといった指示もないまま、僕はそういう生活に入った。
つまり、営業兼営業事務で、黒井がふらりと現れたら何となく説明しつつやれることはついでにやってやり、それとなくフォローしながら、でも基本的には、正式に指示を出されたわけでもないし、三課のことは分からないので、別々だ。どっちの課長でもいいからちゃんと僕たちを同じポジションの二人組として確定してくれって言いたいけど、黒井はふいに新人のロープレなんかに駆り出されるし、僕も営業案件が減るわけでなし、だんだんお決まりのなあなあで、そういう感じに落ち着いていった。
翌、明けて水曜日。
どうしてこんなに、生活が黒井彰彦一色なのかって、もう、お花畑というか、蜂蜜に溺れていく感じ。そういえばNDEの本に糖蜜大洪水という災害が出てきたけど、本当にそんな大量の蜜状の液体に溺れたら、死んでしまうのか。泳ぐことも出来ないだろうし、うっ、考えるだけで苦しい。甘くはないな。
・・・また、最初から、恋をしてるみたい。
会社で会う黒井をどうしても客観的に見てしまう。いつもみたいな、泣いたりキレたりする関係じゃなく、同僚として、会社員として、一歩引いて見る。すると、やることなすこと大雑把で適当なのに最後には要領よくまとめてしまう<三課の黒井さん>がいた。
何か声をかけると、はい、とか了解、とかじゃなく、「うん」って爽やかに言う。それが、キザと子どもっぽいの中間で、黒井は誰にでもそんな感じだった。年下でも年上でも、同僚でも電話のお客さんにでも。
いつも朗らかで鷹揚で、僕なんかいつも横をちょろちょろして、ハツカネズミみたいだ。
黒井は、今までの営業一色のポジションから解放されて、少しリラックスしているように見えた。三月、追いつめられて千葉に行って、それからまた支社に戻ってきて、どうなるかと少しだけ心配してたけど、物事、なるようになるらしい。中山といまひとつ打ち解けないのは相変わらずのようだが、それでも、この分ならきっと本社には戻らないで、ここにいてくれる・・・。
黒井が新人のところに行く度、カリっと引っ掻かれたように心がささくれ立つけど、大丈夫なんだ、と自分に言い聞かせて我慢した。
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