第325話:甘やかされる子猫ちゃん
上から、頭を無造作に撫でられて、ぽんと肩に置かれたその左手には、白い文字盤と茶色いベルトの腕時計だけがついている。
「いいよ、ねこ、・・・ほら」
軽く引き寄せられて、やや横を向いた僕の顔が、黒井の裸の胸の真ん中辺りにくっついた。ああ、あったかい、っていうか、熱いほど・・・。
「はは、お前、鼻冷たい」
「・・・」
「甘えていいよ」
そして、少し胸が後ろに離れて、隙間があいた。
黒井は、僕の頭を正面に向かせると、ちょっと恥ずかしそうに「いいよ、吸って」と。
・・・。
・・・え?
・・・。
僕はもう何も考えられなくて、とりあえず僕から見て右の、その乳首に、吸いついた。
「・・・あっ、んっ」
声とともに身体が跳ねて、僕はさっき自分がされたように、両手でその腰をつかんで押さえた。ピンクと茶色の間くらいのそれは、正直、何かの味がするわけじゃないし、すぼめた唇でも大して認識できてないけど、頭の中では<美味しい>というランプがついていた。
両手に力を込めて逃げないようにし、舌を出して、下からぺろりと舐める。
「うあっ!」
またも身体が跳ね、胸筋もびくりと硬くなる。僕はもう、ああどうしよう、どう料理しようと次のかぶりつき方を考えていたら、肩をつかまれて、美味しいものから引き剥がされてしまった。
「ねこ、もう、ちょ・・・お、終わり!」
「・・・え、え?」
「と、鳥肌立ってきた。くすぐったい、っていうか」
「え?」
「・・・い、いいから、もう!」
「・・・甘えて、いいって」
「だから、終わり!」
黒井は慌てて立ち上がると、さっさとTシャツを着てしまった。腕でちょっとその左胸を擦って、ぶるぶると首を振っている。
「なんだよ、自分で言い出したのに」
「こ、こんなって思わなかった!」
「って、いうか、・・・クロさあ」
「・・・うん?」
黒井は僕の後ろのベッドに飛び乗ると、布団からスウェットの上下を引っ張り出して着始めた。上はともかく、スーツのズボンを脱いでいる間、仕方なく顔を背ける。ごそごそとベッドが軋み、ひらりとズボンが飛んだ。
「クロ、お前、なんで・・・あ、甘えるって、こういうことなの?」
「ん、・・・なんか、いいの!そう思ったから!」
ようやく振り向くと、もう黒井は一人ですっかり布団に入って、枕の上から僕を見ていた。
「なんだよ一人で寝ちゃって・・・甘える会もおしまい?」
「そ、そうだよ。十分甘えたでしょ?」
「・・・ぜ、全然、まだなんにもしてない」
「・・・ほらやっぱり」
「え、なにが?」
「お前、なんか、くにゃくにゃ。ただの猫だよ。それとも子猫?」
そう言って、白っぽい薄手の毛布から、手だけを出してきた。
無言でひらひらと促され、近づくと、頭を撫でられる。
そしてぱたりと垂れるので、僕はその手を取って、きゅっとつかんだ。
・・・ああ、クロがいて、クロの手を握ってる。一緒にいて、喋ってて、身体に触れてる。
「・・・時計、つけっぱなし」
「ああ、ねこ、外して?」
「・・・ん」
僕はその手首を持って、裏返して、慎重にゆっくりとベルトを外した。針を穴から抜いて、金具からすっと抜き取る。外すと少し跡になっていて、赤くなったそこを撫でた。僕とお揃いの時計は、いったんテーブルの上に置いておいた。
「・・・それで、なに。俺は子猫なんかじゃないよ」
「うん、じゃあふつうの猫にしといてあげる。・・・なんか俺、眠くなってきた」
そのまぶたが閉じるのを見て、僕はもう一度手を握った。
・・・それから僕はその手を布団の中に戻してやり、立ち上がった。
「・・・え、ねこ、どしたの」
「ちょっと、トイレ」
「ん・・・」
・・・・・・・・・・・・・・
一応本当に用を足しつつ、少し冷えた頭で考える。
・・・今日、僕が、どこでどうやって寝るか、あるいは寝ないか、だ。
目にも舌にも、あの美味しい乳首が焼き付いてしまって、離れない。あの三月末、黒井が千葉に行く日の朝、僕のそれを吸ったけど・・・あれはやっぱりさみしくて甘えていたってことなのか。僕だってこれから自宅に帰るなら、たったひと晩離れるのだって同じくらいさみしくなってしまうから、もっと吸わせてほしいんだけど・・・なんて、だめ?
いや、だとすると、帰るなら吸える、泊まるなら吸えない・・・。
馬鹿なことを考えて、でも、馬鹿に出来ないくらい、それは切実なことだった。
・・・帰るって、これから?黒井と離れて、僕は一人で電車に乗って、一人で自分の部屋に帰るの?いくら明日また会社で会えるといったって、そんなの足りない、全然足りない。
用を足し終わって、冷たい水に触るのがやっぱり嫌で、洗面台で勝手にお湯を出して指先だけ擦るように手を洗った。ドアをそうっと開けて部屋に戻ると、やはり、黒井は寝てしまっていた。
横向きのその寝顔を上から見下ろして、じっと数秒、すうすうと響く寝息を聞く。
僕は今立っていて、スーツも着ていて、今なら帰れる。このまま最短動作でここを出て、歩いて駅まで行ける。
腕時計を見た。まだ十時過ぎ。急げば今日のうちに僕も自分の布団に入れる。今、行かないと。
・・・知らなかったな。恋人になった方が、帰るのがこんなにつらいなんて。
「・・・クロ」
「・・・」
「俺、帰るよ」
「・・・ん?」
黒井が眠そうに目を開けて、ぱちぱちと瞬きをし、僕を見上げた。
・・・目が合ったら、合ってしまったら、我慢できなくなって、僕は布団に覆いかぶさるようにしてその唇を奪った。少し強引に舌を入れて、僕のよりも熱いそれを舐める。それから舌を戻して唇を閉じ、角度を少しずつ変えて何度も入った。黒井の息が熱を持ち始めて、僕は名残惜しいけど、ゆっくりとその熱い場所から引き揚げた。
「・・・それ、じゃあ」
少し上がった息でつぶやくと、黒井が濡れた目で「・・・かえるの?」と。
「うん。・・・誰かさんが、あんまり、甘やかしてくれないから」
我ながら、何を言ってるんだろうと思う。でももうしょうがない。何だか、しょうがない。
「・・・やっぱ、おまえ」
「・・・ん?」
「子猫じゃなくて、・・・こんなの」
そう言って、黒井は自分の指で触れるか触れないか、ふるふるとその唇をなぞった。そして、「こんなのは、もうオオヤマネコだよ」と。
・・・オオヤマネコ?
意味はよく分からないけど、でも、笑いが漏れた。お前だって、ちょっと前、狼だったくせにね。
「とにかく、おやすみ。・・・夕飯、ありがとう」
「・・・おい」
「え?」
「ありがとうは、ナシ」
「・・・あ」
「やり直し!」
「うっ、そうだった。・・・じゃあ、えっと、おやすみ・・・」
「ちがう」
「え?」
「・・・キスから、やり直し」
「・・・クロ、・・・おまえ」
言うと、黒井は、ぷいっと横を向いてしまった。
・・・お前も、・・・甘えてる?
いいよ。俺だって、お前を甘やかしたい。
僕は肩を押してその顔を上向かせ、もう一回、今度は柔らかい唇だけ舐めて、自分のそれを押し当てた。それから自分の唇も舐めて、ぬるぬると、唇同士をすべらせて動かしつつ、ゆっくりと黒井の息遣いを感じた。
最後に、あの美味しいものの代わりにちょっと薄めの上唇を吸って、あとはもう、「おやすみ!」と振り切るように部屋を出た。玄関に二つ並んだ傘のひとつをつかんで外に出て、そこには冷たい雨がまだ降っていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
電車に乗って、暗くて見えないけど、ひたすら遠くの景色を見ていた。
ドア横の手すりのところに傘を立てかけて、ふと気づくと、左手の人差し指で自分の唇をずっとなぞっていた。自分から二回もキスをしてしまって・・・しかも、黒井はそれを、もっと乞うような目をしていて。
そのことについて、「まさか、そんな」とか、「どうせ、明日は」とか、思わなくても、いいなんて。
僕は無意識にまた腕時計を見て、もう僕はあいつとそういう関係なんだ、と再認識する。
それとなく手の甲を口元にやって、そこからずらして、時計に浅く口づけた。
しかし、文字盤の右側についているつまみが唇に当たり、そうしたら黒井の胸のそれを思い出してしまって、ああ、そんな、いけないいけない。ここは公共の場所だ、こんな卑猥な代替行為は許されない・・・。
帰宅して、時計はきちんと外して、布団の上で思う存分さっきの行為を反芻した。Yシャツのボタンを外して、アンダーシャツも脱いで、自分のそれに触れる。何だよ、お前、あんな声出して、ここがいいの?こんな風に?もっと強く?ねえ・・・。
子猫だかオオヤマネコだか知らないけど、僕は暗闇で携帯を開いて、こないだの、黒井のカッコつけた自撮り写真を表示した。・・・甘えたいんだか、襲いたいんだか、自分でもちょっと分からなくなる。でもせっかくクロが「甘やかす会」と言ってくれたのだから、今夜は甘える方にしよう。写真のその顔を見ながら、ねえ、もっと撫でて、もっと抱いて、もっと俺をあったかくして・・・。
・・・・・・・・・・・・・・
十月二十三日、木曜日。
何だか若いというか中学生みたいだなと思いながら新人の女の子と同行。雨は降り続いており、傘のおかげで道中の会話が少なくて助かった。
しかし少し長引いてしまった商談の後「すごい眠かったです。もう眠いーって感じで」と言われたら「ああ、眠いだろうね」と返すしかなかった。一応、一生懸命、今何をやっているのか分かるように簡単な言葉で言い直したり、ゆっくり復唱してみせたり僕なりに工夫してたんだけど、・・・まあ、そんなことは関係ないよね。
それに僕だって、そろそろ終わらないかなとつい何度も腕時計を見てしまい、その度にちょっと<恋人との>いろいろが頭をよぎってしまって、切り替えるのが大変だった。むしろ、彼女がいてくれたおかげで少し背筋も伸び、まともにクロージングできたのかもしれない。
しかし、帰社して、三課のあの席にあの不破くんが座っているのを見たら、心の平安がすっ飛んだ。え、どうして、何でその席にきみが座ってるんだ?本人はどこへ行った?
思わずちらちら辺りを見回すけど、近くにはいない。SSの島にもいない。
たぶん、何かの話の最中に用事が出来て不破くんは待ちぼうけなんだろう、けど・・・きみの同行は先週終わったはずじゃないか?それなのに、所在なさげに座ってるんでもなく、あれ、パソコンで何かの作業までしている。まあ、同行の時に何かの案件が持ち上がって、成り行き上あいつが面倒をみている、的なことだと信じたい・・・。
・・・。
・・・いやいや、別に、信じるも信じないもないか。
もういいんだってば。僕にはこの腕時計があって、昨日はあいつのち・・・乳首を吸ってキスもしたのであって、っていうか、両想いで恋人なんだから、単なる後輩に取られる心配なんてしなくて、いいんだって・・・。
しかし、自席に戻って月末の進捗管理を更新しておこうとしたら、エクセルの共有ファイルが読み取り専用になっていた。開いているのは、・・・黒井彰彦。
・・・どうするか。
控えめに振り返るけど、その席にいる人物はやはり、いつもより頭が一段低い。
不破くんと接触してパソコンを一瞬借り、ファイルを閉じるか。あるいは、もうしばらく待つか。
・・・って、ん?
まさか、今このファイルをいじってるのが不破くんだったりする?
クロは工程表の仕事・・・つまり僕と一緒にやっている三・四課合同の営業事務を、新人に振ろうとしてる?黒井・山根のハンコのオンパレードはなくなって、不破・山根になる?
・・・想像したら、ちょっと、失神しそうだった。
やだ、そんなのやだ・・・、ちょっと、むり・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
慌てて立ち上がり、何とか不破くんが操っている画面を後ろから見ようとウロウロしていたら、新人の島の方から黒井が帰ってきた。ああ、ちょっと、クロ、もう!
僕は半ば急ぎ足で駆け寄って、「・・・あ、あの、あの」とわけもわからず声をかける。黒井は「ん?ん?」と言いつつ向こうを振り返って新人に手を振ったりして、もう、お願いだから!
「ど、どしたの」
「あ、だ、だから、あれ・・・」
「へっ?あれって?」
「あの・・・あの子・・・」
「・・・不破くんがどうかした?」
「あ、ちょっと・・・!」
僕は不破くん本人に聞こえてしまわないよう、クロの腕を・・・あたたかくて柔らかい二の腕をしっかりとつかんで、キャビネ前へ引き寄せた。ああ、ちょっと硬い?やっぱり鍛えた?
「・・・ねこ、なんかあった?」
黒井が少し声をひそめる。僕はもう一度周囲を見て、近くに誰もいないのを確認し、その名を口に出した。
「クロ、あのさ、あの、・・・工程表、・・・じゃなかった、しんちょく、進捗管理」
「・・・うん?」
「・・・ふ、不破くん」
「・・・う、ん?」
「よ、読み取り、不破くん・・・」
「・・・ねこ、落ち着けって。な、落ち着け。ちゃんと、息して」
「そんな・・・、う、うん・・・」
「ゆっくり、息して・・・」
言われたとおり、僕は吸って、吐いて、息をするのに集中した。クロの左腕をつかんだまま、その右手が僕の肩に置かれる。何だか正面から抱き合うみたいな格好になって、僕は「か、会社・・・」と息の合間につぶやいた。会社、だから、ここは会社・・・。
しかしクロは僕の声など聞こえなかったかのように、顔を寄せてふいに一言、「ったく、俺の子猫ちゃん」と。
「・・・っ!?」
思わず僕は身体を離し、一秒周りを見て、ああ、これだ、とキャビネの観音開きをがばっと開け、ほとんど中に入らんばかりにそこにしゃがみこんだ。な、何を言ってるんだ、一瞬バラが見えた、いったいどこのベルサイユ宮殿なんだ。
「・・・なに、照れた?」
開けたキャビネの扉に隠れるようにして、黒井も隣にしゃがんだ。左右からは見えないけど、まあ、後ろからは丸見えだ。
「てれてないし、こ、ねことかじゃない」
「不破くんがいたから、妬いてるんでしょ」
「・・・そ、そうじゃない、彼が作業して、るかもしれない、ファイルが」
「ファイル?・・・不破くんは印刷してるだけだよ。今あっちでカラー大量に出してて」
「い・・・んさつ?・・・あ、そう。じゃ、じゃあお前がファイル、開きっぱなし・・・」
「ん、あ、そうかも」
結局ファイルの件は僕の誤解で、工程表の黒井・山根は死守されたみたいだった。こ、子猫ちゃんだなんて冗談じゃないけど、・・・でも、少しだけ、<甘える自分>を自分に許している自分がいた。
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