第120話:サディスティックな嫉妬
火曜日も、月曜日とほとんど変わらなくて、昨日だか今日だかよく分からなかった。課長に進捗と試算を訊かれたり、横田がお客さんの愚痴をつぶやいたり。展示会の仕事がひと段落して暇ができた菅野は佐山さんの助手になっていて、メモに追われていたのであまり話もしなかった。
午後、納品のついでの打ち合わせに出掛けた。保守契約の打診を受けていて、契約書を持って行くだけだ。頭は空っぽのままエレベーターに乗り、一階で降りると、昼休みの終わりだったので内勤組が押し寄せてきた。それをすり抜けてロビーに出ると、勝手に目がそのシルエットをとらえた。壁際で電話をしながら片手で鞄をあさり、中身を床にぶちまけている。ひらりと落ちた書類をためらいなく足で踏みつけて、大股開きのまま「そおおですねえ・・・」と宙を仰ぐ。
「いや、出来ると思いますよ?うん、確か。・・・ちょっと見てみましょうか?」
その後何度か「ええ、ええ」と相槌。
「あ、じゃあこれから行きますよ。うん、大丈夫です。・・・あはは、何とかなるなる。・・・はい。それに、また物理の話聞かせてくださいよ。俺、好きなんで」
僕は下を向いて立ち止まった。後ろからドンと人がぶつかる。足元に転がっている小さなUSBを見つめて、蹴っ飛ばすか踏みつけるか迷ったが、息を吸い込んで結局拾った。
「あ、はい。それじゃ伺いますんで。よろしくお願いしますー、はーい、失礼します」
電話を耳から離した黒井が、歩み寄る僕に気づく。何秒か驚いた顔、そして笑った。
「あ、やまねこだ。やっぱりその髪、似合ってる」
僕はそれには答えず、床に散らばったものをざっと集めて渡した。踏みつけた紙には不明瞭な足跡。メーカーまで特定できるかな、サイズくらいは分かるか。27センチくらい?
「ああ、あとこれ」
渡した書類の上にUSBも載せて、「それじゃあ」と片手を上げ、早足で歩き出した。後ろから「おい!」と声がかかる。分かってるよ、でも今猛烈に嫉妬中だから、構わないでくれないか。
「ちょっと待ってよ!」
僕は振り返って、自分でも思わなかったくらいの声で、「ごめん急いでるから!!」と言った。腹の底が煮えている。鞄の取っ手を握りしめて、目は据わったまま笑みがこぼれた。俺は嫉妬している。お前に物理の話をするのはどこの誰なんだ?
・・・今、火がついた。
・・・・・・・・・・・・・・・
そのまま衝動的に、ブックファーストで<標準模型の宇宙>を買った。在庫があったのか、一冊売れてまた入荷したのか。
難しいだの一緒にやってだの言っていたが、うん、先に全部理解してお前に丁寧に教えてやろう。もう土足で踏み込むだの関係ない、というか、令状も取らない越権行為の家宅捜索だ。紫のカバーはかけてもらわず、「あ、むしろそのカバーも取っちゃって下さい」と店員を戸惑わせた。カバー?本なんて汚してなんぼだ。深緑色のそれを受け取って、地下通路に出るとばったり会ってしまうかもしれないから地上へ上がってJRに向かった。煮えたぎるそれをエネルギーにして、どんなに走っても疲れなかった。
これに比べれば、以前菅野に感じた嫉妬なんてかわいく見える。切ったばかりの爪が手のひらに食い込んでいった。もう腹の湯は全て煮えて蒸発してしまっているのに、まだまだ空炊き。鍋の鉄がオレンジ色になって、打ったら刀にでもなりそうだ。
・・・物理の話、だって?
いや、違う。<また>物理の話、聞かせてください、だって?
俺を差し置いて、仕事中にどこの誰とそんな話をしてる?理系の、サイエンスだのテクノロジー系の会社?それとも、ただその担当者と意気投合してるだけ?くたびれたジイさんの思い出話を聞いてやるとかならまだいいが、男でも女でも、二十代から五十代まで、到底許せなかった。
あんな、合宿までしておいて!
たまたま客先でそういう話が出た、というのではない。電話一本で呼びつけて、話しぶりからするに予定も繰り上げさせて、挙げ句に<また>聞かせてください、だなんて言わせやがって、いったい俺以外の誰に餌付けされている?興味がある振りで持ち上げて、おだてつつ契約にこぎつけようなんて声じゃなかった。何だ、「俺が出来ることならやりますよ」的な、しっぽを振った従順さ。おい!
暴力的な衝動も、どれだけだって出てきそうだ。たったあれだけの一言でそこまで怒るか?頭おかしいんじゃねーの、という声は、あるにはあるが小さすぎて聞こえない。今こそ肉切り包丁で、牛一頭でも切り刻みたい。目の前に黒井がいたらその頬を殴りつけている。いいんだ、<何だお前?>って不審と軽蔑の目でねめつけてくれ。抑えきれなくて自分の膝を思い切り叩いた。奥歯を噛みしめて、客先の綺麗なビルで警備員から入館カードをもらい、「どうも!」と凄んでしまう。一緒にやってくれだって?誰がやるか。俺が、お前に、教えてやるんだ。大人しく俺の作る飯を食って、俺の言うことを聞いてりゃいいんだよ。首輪でもつけとこうか、鎖の方がいいか。あの家に繋ぎ止めて、ああ、最近の夢にしても妄想にしても、あいつをどこかに閉じこめたいのは俺の方か。救い出したい僕もいるくせに、それは偽善、というより、殴った途端に「ごめんね」と甘い声の監禁ストーカー男だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
帰りの電車で<標準模型の宇宙>を開き、まず「はじめに」を一読した。その最後で<素粒子物理学の世界へようこそ!>と言われてしまい、まるで舞踏会をやっている城に足を踏み入れたような気分。そこでは黒井が正装を着崩して少し酔っていて、どこぞのセレブたちと隅のサロンでふんぞり返っている。ああ、許せない。新参者の僕は声すらかけられずに地味なスーツでうろうろするばかりだ。いい、いいよ、見てやがれ。こんなのすぐに読み下してやるから。
第二章から、まずざっと全てを斜め読み。どうやら第八章からが<標準模型>の真骨頂のようで、それまでは長い前置き。ふうん、物理というより数学の本みたい。しかし標準模型って何?
僕が今までかじってきた相対性理論やエントロピーにはほとんど触れられず、量子力学と、次元の話が少し出てくるみたいだった。しかし電車の中で理解できたのはそれくらいであり、僕の根拠のない自信は早くも揺らぎはじめていた。いったい、一体何の話をしてるんだ?
帰宅して鶏肉をバターでソテーし、冷蔵庫の奥からレモンのチューハイを引っ張り出して、米も味噌汁もない夕飯。コンポの前にあぐらで、足で本を押さえながら文字を目で追う。たまにハイゼンベルクの名前が出て、ああ、あの人やっぱり偉い人だったんだとまた思った。しかし、不確定性原理って単語はいつもセットだけど、<弱アイソスピン>なんて聞いたことがない。
何だか物足りなくなって鶏肉に七味をぶっかけ、まだ足りなくてせんべいもかじった。おいおい、いくら読んでも分からない。いや、分かるような気もするけど、たぶん、この本は応用編なのだ。素粒子の基礎が分からなければ、そもそもついていけない。・・・これを黒井は読み切ったのだろうか?専門じゃないとか難しいとか言いながら、しかしこれがふつうに読めたというなら、明らかに僕とは違うレベルにいるということだ。ううん、男に二言はないと言い切りたいところだが、これを理解して教えてやろうというのは、ちょっと、無理かもしれない。あはは、嫉妬の炎に冷水を浴びせられたようだ。僕は本を閉じて、<現代物理の金字塔を楽しむ>というサブタイトルを見た。お前は楽しんだのかな、くそ、悔しいなあ。僕にはまだ無理だ。
しかし、まだ諦めはしないのだった。ネットで<素粒子 分かりやすい>と検索をかけ、<素粒子論はなぜわかりにくいのか>という本に行き着いた。レビューの点数も高い。うん、まずはこっちからだろう。
眠くなってきたので今日はここで終わりにした。欲求不満が募るけど仕方ない。おやすみ、クロ、とつぶやいて寝た。
・・・・・・・・・・・・・・
水曜日。今度は紫のブックカバーをつけてもらい、いい加減、ポイントカードも作った。ああ、字が大きくて読みやすい。海外の教授陣の専門書と違って、日本人教授の新書風の本は何だか少しレジュメっぽい。電車で少しずつ読みながら、フェルミオンだのdクオークだの対称性だの、昨日見かけた単語が目に入る。ああ、黒井が言っていた<LHC>も<CERN>も出てきた。いろいろと、本当のことだったんだな。そういう施設があるってことも、そして、黒井がそこへ行きたがってるってことも。
何だかよく分からないうちに会社も終わって、また本を読みながら帰宅。一日が過ぎるのが早いし、濃密な三日の次の空疎な三日だ。結局今日も避けるように、三課は見ずに席を立った。・・・まだ許してないし、怒ってるし、お前なんか大っ嫌いだ、とさえ思った。少しむなしい。本当は話しかけてほしいけど、まあ、意地だ。
とにかく、この素粒子の全貌をつかむまでは口を利かないことにした。<また>物理の話聞かせてください、が頭によぎれば、何度でも腹は煮える。あいつが楽しそうにセルンの話をするのが浮かんでいたのも、それでかき消えた。僕は親子丼みたいなものをつつきながらまた本に目を戻した。
キーワードは、<場の量子論>。結局は、ハイゼンベルクとパウリが初期の試作品を打ち立て、それが現在の最前線にまで繋がっているようだ。この人たちどこにでも出てくるし、本当に偉人なんだな。パソコンも電子レンジもない時代に、どうして陽子と中性子の中身まで計算できたのやら。
分かったのは、相対論で時空の膜を歪ませた重力と、電力と磁力を足した電磁気力という二つが目に見えるこの宇宙の<力>であり、あと目には見えない強い力と弱い力という意味不明なネーミングの二つがある、ということだった。この四つの力が、自然界を記述する四天王のようだ。・・・本当にそれだけ?
そして、フェルミオンというのはクオークとレプトンの総称で、フェルミオンの他にはボソンがあるらしい。原子だの陽子だのの話をしてるのかよく分からないが、まあ、素粒子というブロックの部品なんだろう。冷めたコーヒーをチンしながら、電子レンジの電子はレプトンであることを確認した。記号はe。電子の反粒子は陽電子で、最初にディラックが発見したらしい。eが温めてくれたコーヒーを飲みながら、昨日に比べれば格段に読みやすいソフトカバーを読み進める。予習のおかげでほんの少し内容が入りやすい、ような気がした。
しかしこれもまだ応用編だ。僕は完全に順番を間違えている。この本で何度も言われているが、一般の専門書では場の量子論に詳しく触れられないので、分かりにくいという。その分かりにくさを認識した上で、それを払拭するための本だったのだ。そしてたぶんこの次の段階で<標準模型の宇宙>だったのだろう。巻末の参考文献でも見事に薦められている。黒井はきちんとこの順序で来たのだろうか?さて、間違えた僕は更に<わかりにくい一般書>へと遡るべきなのか?
そうこうしてるうちに0時を回ってしまった。寝不足の日が続く。黒井はこないだ徹夜だったらしいけど、どうしてるかな。メールでも来てないかなんて確認しちゃうけど、来てるはずもないよね。いや、もし<また勉強会しよう>なんて来たって、怒って眠れないだろうけど。・・・まったく、思い出しては腹が立つ悪循環。しかし、煮えてるはらわたから少し下がったところも妙に疼いちゃって、左手が伸びた。あーあ、みっともないなあ。でも、お前が悪いんだよ。散々思わせぶりなことしといて、ねえ、どんなやつなの、そいつ?「教えてあげる」なんて言われて、変なこととかされてないよね?・・・って、どこのエロ本だ。そういうことは僕にしてくれればそれでいいんだけど。・・・はあ。
・・・・・・・・・・・・・・
無為な時間が過ぎる。
何か忘れ物をしたような上の空のまま、何となく本を読んで金曜日になってしまった。鶏肉だけが順調に消費されていく。
素粒子については少しずつ詳しくなってきた。クオーク三つで陽子と中性子が出来ていて、ブロックの組み合わせで表書きが変わる。陽子はuud、中性子はudd。こいつらはフェルミオンで、電磁気力、強い力、弱い力のゲージボソンと相互作用をする。重力を考えないのは、まだ<標準模型>とやらに組み込めていないからのようだ。
要するに、力の相互作用の場というのがあって、まあフロアとかセクションみたいなものと考えれば、ある人は営業部と経理部と開発部にまたがってやっていて、ある人は営業部だけ、というようなイメージだ。それぞれの部に客なり注文なりが入れば、担当する人間がやりとりをすることになる。弱い力の場のやりとりでは、uudで相手をしていると一つのuがdに変わって(x染色体が突然変異でyに変わるような?)uddになって、ドアから出てきたら性別が変わっているというような事態になる。まあとにかく、そのフロアでその相手とやりとりをしたら、何らかの変化なり何なりが起こるということだ。その際、始まりと終わりとで保存則が成り立つ。どちらかが百万円持っていたなら、ドアから出た時も、双方合わせて百万円持っているはず。
細かい計算が分かるわけもないが、まあ、何かが何かをしてどうにかなっているんだろう。これ、オセロだかブロックだか、パタンとめくると色が変わるからくりみたいに、視覚的に分かりやすい表現で何とかならないのかな。
週末の浮かれるような予定もなく、無口になって仕事も進む。先週ろくに聞いていなかったデモセミナーに再び顔を出して時間を潰し、適当に残業を切り上げて帰った。いいよもう、帰って勉強に励むよ。無性に甘いものが食べたくなって、シュークリームとアイスとチョコチップクッキーを買って帰った。しかし実際帰って本をめくったら、もう眠くて、寝た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます