第121話:思いがけない写真
土曜の昼過ぎに起きて、携帯を眺めながら、黒井が僕に連絡を寄越さない理由を一つずつ挙げていったら悲しくなってきて、お菓子をやけ食いしたら、腹が痛くなった。トイレに入っていたらメールの音がして、急いで出たらただのメルマガみたいなやつだった。しかしまあ僕にしたって黒井に用事があるわけでもなく、せめて、向こうだって僕からの連絡を待ってるかも、と思うしかない。・・・ないな。本当に用事があればかけてくるやつだし、ないならないんだろう。
僕はノートを開けて、今まで自分に禁じていたことをすることにした。つまり、黒井とのことを、紙だろうがデータだろうが一切残さないというやつだ。あのクリスマスイブ、中途の坂本という人に「彼女がいないのはそっちの気があるから」と揶揄されてキレた黒井に対し、劣情を隠して良き友人でいれば一緒にいられるはずだからと勝手に決めたルール。終わったあとどうやって燃やすかは置いといて、とにかく書き始めた。
美しい散文なんかにはならないから、ただの時系列。パソコンから適当なカレンダーを印刷して、とりあえず去年の十月から今年の二月までを一ページごとに貼ってみた。順不同に覚えているところから出来事を羅列してみる。一瞬でも馬鹿らしいと思ったら今までの作業が無駄になるので、これは単なる事実の記録だ、と言い聞かせながら。
<10月>
・黒井が支社に来る(9月中だったかも?)
<11月>
・「山猫」と呼ばれる
・残業中にクッキーをあげる
・翌朝カロリーメイトをもらい、山猫写真集を買いに行く
・電話が来て、忘年会の下見に誘われる
・夜、みつのしずくへ行き、爆笑
・二、三回、内勤中の昼飯で一緒になる
<12月>
・忘年会、大月さんを連れていく補佐になる
・酔った黒井をタクシーで送る(直前に、初めて「あの感覚」)
・そのまま泊まり、マフラーをとアドレスを交換
・タイムズスクエアデート、浅田と鷹野を見てしまい、ちょっと抱き合う
・クリスマスイブ、飲み会で会い、そのまま泊まる(キスする話~急性アル中?)
・クリスマス
・満員電車で遅刻寸前
・トイレでキスされた(唇を噛まれた?)
・総務課長に見つかり、喧嘩の演技
・マンガ喫茶に泊まる
・喧嘩沙汰が大きくなり、気まずくなる
・正月休み、アリジゴク
<1月>
・みーちゃんに会い、生還
・電話が来て、仲直り?する
・帰省してたらしい
・友達(みーちゃん)の事、嫉妬される?
・好きかと聞かれ、キレた(泣かせた?)
・正月明け、留守電の件で土下座させる
・寝過ごしてうちに泊まる
・マヤが出た
・病院送りになる
・大江戸温泉物語~黒井のうち
・<ご休憩>で記憶が飛ぶ
・人生に本気になった話
・風呂を洗った
・過ちを犯す
・屋上で喧嘩
・アイロンを贈る
・藤井に<告白>される
・藤井からのCDを持って黒井が訪ねてくる
・病院付き添い
・コンポをもらう
・発熱、看病される(口移し、座薬・・・)
・<二度としない>キスをされる
・本番
・タバコを吸った
・人質ごっこをやりたい話
・<本番>スタート
・死んだかと思い動揺、裸で抱き合う
<2月>
・本番で負け、<部分と全体>をもらう
・ビルの外で雪を見る
・二度目の雪、電話で<黒井彰彦>の話
・三度目の雪、バレンタイン合宿
・オランジェットをあげる
・物理を<一緒にやる>
・ドイツと、<興味がある>話
・物理をたどる旅、会社が嫌になる
・幻覚の<中身>に入ってきた黒井
・<また>物理の話、聞かせてください
・素粒子勉強中
ノートに「←今ココ」と書き、ため息をついた。分かっていたことだけど、書いてみたって何が証明されるわけでもないし、僕が報われるわけでもない。ひと月のうち何時間をともに過ごして、黒井の時間の何パーセントを僕が占めているか数えたって、しょうがないのだ。
熱いコーヒーにはつみつを入れて飲んだ。得たい解を得ようとして式をいじくってみたって、ノートからは何も出てこない。物理のように、<仮>の場や粒子を導入して辻褄を合わせて、その後それが実験で確かめられればオッケー、となればいいけども、自分から確かめることは出来なくてそれはかなわない。不確定性原理、量子力学。観測という行為が曖昧な状態を一つに決めて、収束させてしまう。波か粒子か、スピンが上向きか下向きか、一度決まってしまえばもう元の状態には戻らない。
ノートの文字から目をそらして、それでいいんだと言い聞かせた。決まってしまうくらいなら、曖昧な方がいい。状況証拠がどんなにそろっても有罪に出来ないなら、しかし無実の証明も出来ないまま、裁判が長引けばいい。
・・・本当に?
・・・どうだろう。
いつだって、もやもやが残る。いつも何かが足りなくて、むずむずして、欲求不満。でもそれが、この判決を下せば終わるかといわれれば、それもよく分からない。もしかしたら、一生抱えていくものなのかもしれない。感情を爆発させようが、抜こうが、やろうが、なくなりはしないのかも。・・・困ったな、切り刻んだ鶏肉ばかりが増えそうだ。
諦めてノートを閉じ、ライターを探した。タバコを吸うときに買ったのがどこかにあるはずだけど、どこへやったか一向に思い出せない。鞄をあさっていると、会社の机に配られていた社内報が出てきた。捨てる前にぱらぱらと一読し、ふと、目を留めた。
<支社探訪vol.8 東京支社~納会におじゃましました!~>
去年の、年末の納会の様子が記事と写真で楽しげにつづられていた。
三枚ほど、小さなモノクロ写真。
ああ、これ、僕が撮ったやつだ・・・。
支社長と、あの人事の松山という女性がビールを飲んでいる様子。それから、支社の女の子たち。
・・・そして。
最後の一枚、黒っぽいスーツが並ぶ、男性陣の写真。そこには、望月や榊原に混ざって、僕と、そして、後ろに黒井がいた。
一瞬、息が止まった。
僕と黒井が写った写真。たぶん、そんなのこの世に一枚しかない。こんな潰れたドットの集まりでも、それは僕と黒井だった。僕はその時の心情そのままに、硬い表情でうつむきがち。分かりにくいけど、見ようとして見れば唇のかさぶたも確かにあった。
そして、僕の斜め後ろの黒井は、何てことだろう、晴れやかで綺麗なウインクで、カメラ目線。
・・・。
あの時はそんなの気づかなかったけど、僕の方に顔を寄せ、肩の後ろでピースまでしている。気まずいことなど何もなかったかのように、楽しそうに笑っていた。少しだけ屈んで僕の背に合わせ、同じ顔の高さで。
・・・これ、いつ配られたんだろう。あいつも、見てるだろうか。
何を、考えていた?アリジゴク直前の僕に対し、お前はどんな心情だったんだ。世間の常識も会社の体裁もどこ吹く風で、いったい、何を求め、何を望んで生きてたんだ?
僕はたぶん五分も写真を見つめていた。まるで写真の中の黒井は、まさに今の僕に向けて笑っているかのように見えた。お前の考えてることなんて、小さい小さい!どうでもいいこと思い煩ってないで、したいこと、するだけじゃん!
・・・。
・・・お前が、言ったんだからな。
12月27日のお前が、2月22日の僕に、そう言ったんだ。僕は冷めたコーヒーを一口飲んで、携帯を手に取った。
・・・・・・・・・・・・・
<社内報見た?写真が載ってて驚いた。少し、懐かしいね>
何となく電話する気にならなくて、だいぶ久しぶりにメールをしてみた。嫉妬はどこかに鳴りをひそめ、もう、淋しくて、愛おしかった。この写真と今の間にどれだけのことがあっただろう。普通のことも、非常識なことも、いろいろ。僕はこの後からだいぶ頭も体もおかしくなったわけだけど、黒井はこの時もずっと物理のことを考えていたのだろうか。<黒井彰彦>でも<黒井さん>でもない自分を模索していたんだろうか。その人生で、僕という存在はどんな役割を果たしたんだろう?そして今、あいつの物理の、人生の歯車は回り始めて、僕はもう用済みだろうか。他の、誰か詳しい人にもっと本格的に教えてもらうような、そういう頃合いになっている?
もし、そうだとしても、僕に文句を言う権利も、筋合いもなかった。
メールの返事もこない。
もしかして。
あ、・・・振られた?
あはは、もう、何回やってもすがすがしい。嫉妬してる場合じゃなかったか。また勉強会やろうって持ちかけて、強引に繋がりを保っておくべきだったか。厚かましくても、みっともなくても、社会人の繋がりなんて日々接触して顔を合わせてなんぼだ。
・・・じゃあ今から電話する?家に押しかける?
思った途端、緊張でまた腹が痛くなる。今日はやめとこう。さすがにまだ合宿から一週間だ。親友から知り合いに格下げされるにはまだ早い。・・・たぶん。
鳴らない携帯を薄手の<マイバッグ>に放り込み、買い物に出かけることにした。鶏肉以外の食材と、ティッシュやラップやゴミ袋を買いに行かなくては。
スーパーへと歩きながら、あの写真をどうしよう、と思った。切り抜いて財布に入れておくのはやりすぎだと思うけど、他にいい案も思いつかない。
考えた途端に、今写真を持っていないことがやけにスカスカして、財布を忘れたような落ち着かない気持ちになった。カシミアをしているくせに、より具体的なものが欲しくなったか。ああ、普通の男女はいいな、ペアリングやアクセサリーや、もちろん結婚指輪も、肌身離さずしていられる。一ヶ月後にはマフラーもしなくなるし、まあそもそもどうなっているか分かりもしないけど。あの、写真の僕が今のこの状況を思い描くことなど出来なかったように、今の僕だって、一ヶ月、二ヶ月先は分からないのだ。
「フェルミオン、ボソン、クオーク、電子、ミューオン、ニュートリノ・・・」
覚えたばかりの素粒子表をつぶやきながら、土曜の昼下がり。あ、そういえば<ダヴィンチ・コード>のラングドン・シリーズの続編<天使と悪魔>って、CERNから盗み出した反物質の話だったっけ。ああ、物質と反物質で消滅するのか。うん、ミステリに仕立ててくれればもっと分かりやすいんだけど。
スーパーには四月からの消費税増税を前に、<今のうち!>のPOPが立ち始めた。ああ、仕事では毎日言ってるくせに、実際自分の買い物にもかかってくるんだよな。黒井と会ってから妙な出費が増えてるけど、毎週飲み会をする奴らほど浪費していないと思う。しかし、それでも毎日の自炊で更に引き締めていかないと。
今日明日で食べ切るおつとめ品の野菜をカゴに放り込み、たまに食べたくなるドライフルーツやヨーグルトも買った。ふと、無意識に、次は黒井に何を食わせてやろうかと考えている自分がいた。この間イタリアンを食べ損ねたけど、他にどんなものが食べたいだろう。黒井は寿司だと言うけど、アジア料理なんてどうだろう。バリ島とかの別荘で、砂浜に夕日、大きな葉っぱに載ったチキンや、ココナツカレー。エーゲ海でプラトンとまではいかないけど、夢想すればいくらでも思い描けそうだ。豪華客船だとか、オリエント急行とかもいい。密室同然の乗り物で、二人で探偵をやろうか。今度は追う側と追われる側じゃなく、コンビをやるんだ。
外国のスパイスのコーナーを見ながら、ふと携帯を見たら、メールが一件来ていた。急に動悸がする。いや、またメルマガとか迷惑メールかも。とにかく先に買い物を済ませよう。ああ、どうしよう、お前なの?
レジに並びながら、緊張は増していった。いや、そりゃあ、それほど当たり障りのないメールを出したんだから、普通に返事が来たっておかしくはない。<そうだね>とかの一言かもしれないし、あるいは、<へえ。もう捨てたけど>かもしれない。そう思うと何だか身体に冷たいものが走るけど、それだって、無視よりはマシじゃないか?
・・・うっかり「袋いりません」と言うのを忘れて、ポイントもつかなかった。何のためのマイバッグだか。
陽が少し傾きかけた街を歩いて、それでも、想う人が誰かいるというのはこんなにも恋しくて、狂おしい、と、感傷的になった。どちらにしても、もう戻れない。黒井彰彦なしの僕には、戻れないんだ。
家に着いて冷蔵庫や棚に買ったものをしまって、部屋着に着替えて用意が整ってから携帯を開いた。社内報の薄い冊子の写真を見ながら、散々躊躇して、メールを見た。
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