13章:嫉妬と素粒子と本当のケンカ

(電話の相手に腹を立て、口を利かないと決めた)

第119話:現実逃避の銀河鉄道

 目覚ましが鳴って、すぐ止めたつもりだったけど、向こうの黒井まで起こしてしまった。

<うわ、な、なに>

「・・・ごめん、うちの目覚ましだ、そっちじゃない」

<・・・なんだ、ねこんとこか。あ、おはよ>

「・・・っ、お、おはよう」

<はは、繋がってた>

「う、うん。変な感じ・・・」

<え、まだ、六時?おれ、もうちょっとねる・・・>

「うん、起こしてごめん。・・・じゃ、切るからね」

<え?・・・そっか。うん>

「それじゃ・・・また」

<おれ、夢、みたよ。おまえと、いっしょの・・・>

「・・・お、おれも、だよ。それじゃあね」

<え、うん>

 僕は何だかたまらなくなって、こちらから電話を切った。電話はすっかり充電で熱くなっていて、僕の胸と同様、何だかチリチリした。


 軽く顔を洗って口をゆすぎ、髭を剃って新しいシャツに手を通す。月曜日。

 雪を避けながら歩き、<各線の運行情報>の看板を横目に電車に乗った。藤井からもらったCDを聴いていたら、あっと言う間に着いた。何だか現代風な、どの曲も同じように聞こえる歌が延々続いて、どこで一周したのかもよく分からなかった。

 会社には少し早めに着いて、先週の残業の続きを整理した。客先へ持っていく資料を揃え、メールを書いて一時保存し、引き出しに溜まった廃棄書類をシュレッダーにかける。僕の中の三分の一くらいは未だにドイツやコペンハーゲンやガラパゴスに飛ばされていて、しかし、残りの三分の二はこうしてしっかり会社に組み込まれているから、まあ、目の前に置かれれば、その仕事をするだけだ。

 菅野や横田が来ておはようを言うけれども、上の空でやり過ごした。久しぶりに見た菅野は、ごくふつうに女の子として可愛らしかった。「あー、髪切りましたね!」なんて、まるでコンパニオンに声をかけられたみたいな気分になって、僕は適当に濁した。

 何だか僕だけ取り残されたまま、停車場からすべての電車やバスが発車していくみたいだ。僕はお客さんじゃなくて夜間清掃夫なんだろう。一日一日、そして週末と週明けという時間軸がぶれまくったままの僕は、しかしやっぱりどこにも行っていない。後ろでおはようございまーす、と席に着く黒井の声が聞こえて、軸はますますぶれた。そんなこと滅多にないのに、その声を聞きたくなかったし、顔を見たくもなかった。

 仕方なく、月曜朝礼だから後ろ姿だけはちらと見て、しかし菅野の手前やはり見ない振りをした。・・・残念だけど、あいつは君とは付き合わないと思う。あんなに今風な顔で細身のスーツを着こなしてるけど、中身は百年も二百年も前の世界で冒険に旅立つべく準備中で、しかし本人が言うにはスカスカなんだそうだ。あいつはその冒険に僕を誘うけれども、どこへも行けない僕を連れ出すほどの気持ちがどれだけ続くかは分からなかった。

 気づくと朝礼が終わっていて、席に着く黒井に見られないよう、僕もそそくさと座った。

 四課の朝礼も適当に聞き流し、一瞬顔を出しそうになるイヤイヤ病を抑え込んで、やっぱりさっさと会社を出た。ニューヨーカーズカフェにも行きたくなくて、大江戸線一周の旅だ。物理的に動いて運ばれていないと、本当に清掃夫になってしまいそうだった。


 会社を出るなりイヤホンを突っ込んで、速いテンポのアンニュイな曲とともに歩き出す。たぶん、黒井が会社にもいるからいけないんだ。週末だけの、完全に現実とは違う世界の住人だったなら、みつのしずくのみーちゃんみたいな存在だったなら、それを頼みに、金曜まで走るだけなんだ。完全に切り分けてしまえば、幸せな二重生活が送れる。このホームで僕だけにこの曲が聞こえているように、黒井も僕だけの秘密の存在だったらいい。ああ、どこへも行かないでと懇願しているのは僕だ。どこにも行けないんじゃない。止まっているのは僕なんだ。

 気分としてはアリジゴクの時のそれと似ていたけれど、古地図や、羅針盤や帆船や、インクと羽ペンで書いた航海日誌だとか、そんなセピア色がよく浮かんだ。地平線まで続く星空の深い藍や、微かなピンク色の白夜がそれに彩りを添え、僕を誘った。ひたすらの右肩下がりのアリジゴクとは違って、上へ行こうとするエネルギーはあるんだけど、どうすることも出来なかった。ブラックホールだってもっと研究してみたいのに、どこか、明確な何かがなくて、あの<本番>みたいな、蹴っとばされて更に加速するようなスピード感は皆無だった。

 黒井のことも、ドイツだか冒険だかのことも、仕事も生活も、将来や未来も、たぶんピントは同じようなぼけ方だ。やりたいことがないわけでもないけど、どこにもゴールがない。やれば出来る、達成できることもあるけれども、それがゴールかと言われれば何だか違うし、しかしじゃあ何がゴールだと問われて、今手元に百億円あったとしても、これだ、と思い浮かべるものはなかった。

 黒井がもし僕を選んだとしても・・・。

 思考はいったんここで止まり、心拍数が上がった。井の頭線で手を繋いだのが浮かび、よく分からない焦燥感が募る。

 求めれば与えられるだろうに、なぜそのように渇望できないのだろう。どうしてその先が保証されないからといって、意味がないと思ってしまうのだろう。

 ドイツに行ってもしょうがないし、黒井とセックスしてもしょうがない。物理をマスターして真理の大海を見る・・・のは相変わらず魅力的だけど、見たらそのままその海に沈みたい。ああ、僕はブラックホールに行きたいんだな。黒井と一緒に銀河鉄道に乗ってそのまま時間が凍った黒に永遠に落ちていきたい。そして二人で特異点の正体を見て、あとは死ぬんだか別次元で別の存在に組み込まれるんだか、好きにしたらいい。

 ・・・それはいいなあ、と思った。あいつはカムパネルラだったんだ。それなら僕の幻覚にだって入ってくるだろう。もう腕時計は十時半を指すけれども、仕事なんかちっともやる気がしない。ジョバンニだって牛乳配達やら印刷所やらのバイトをしていたんだから、僕も働かなくちゃいけないんだけどな。

 たぶん何か、新しいことをするしかないんだ。黒井がまた何かを持ちかけてきてくれるのを待つんじゃなく、自分で、夢中になれるものを探さなくては。そしてたぶんそれは、今はブラックホールではないのだ。理論上の話じゃなく、何万光年彼方の話じゃなく、目に見えて積み重ねられる何かでなくてはならない。意味なんかなくてもいい、我を忘れてひたすらできて、その結果が見えて、納得できるもの。レゴ?ドミノ?計算ドリル?

 いい加減仕事に向かわなくちゃならなくなり、僕は重すぎる腰を上げた。とにかく、何かをするんだ。する、と決めたなら、回転数がほんの少しだけ、上がった。



・・・・・・・・・・・・・・



 行ったら行ったで何とか仕事をして、適当なカフェでサンドイッチをかじりながらCDをいじっていたら、<1-REP>という表示が目に付いた。何だ、もしかして本当に同じ曲を繰り返し延々聴いていたのか。それを解除すると二曲目が流れ始め、今度は女性ボーカル。ああ、ひとつだけ進んだ。幸先がいい。

 午後は、一件回って帰社し、残業の続きと新たな残業をしていたら、課内のお客さんでトラブっているらしい話になり、四課が雁首揃えてあーだこーだと対処に当たった。議題を検討していると気が紛れて、時間が早く経った。

 20時頃腹が減ってコンビニ前でおにぎりを食べ、思い出してついでに藤井にメールを打った。


<CDとチョコレート、どうもありがとう。お礼がすっかり遅れて申し訳ない。美味しくいただきました。>


 これ以上の文面が思い浮かばず、そのまま送信ボタンを押した。ろくな気も利かないな。そして、五分後くらいに返信。


<お粗末さまでした。・・・って、まあ手作りでもないですが。

 二十年ぶりくらいにこんなイベントに参加してみましたが、それなりの達成感と満足感があって嫌ですね。チョコレート業界を潤わせてしまうばかりです。

 ああ、山根さんは律儀にホワイトデーのお返しなどをお考えかもしれませんが、もし頂けるならスーパーで千円分のお菓子を買ってください。その方が、らしくありません?>


 うん、確かに藤井らしいとうなずいて、<了解しました>と一行返信。それに藤井も乗って、<宜しくお願い致します>で連絡メール終了。もらったチョコの半分以上は黒井が食べたし、僕は髪も切ったけど、メールの相手はそれも知らない。それでもこうして何がしかの繋がりを持っているのは不思議だった。もしかして、今のところ彼女は僕の唯一の友達かもしれない。有り難いことだ。


 戻って歯を磨き、ふせんの減少に努める。ああ、むしろ積まれたものを延々処理する方が楽だな。いくらでもやることがあるというのは、案外いいことだ。

 九時半頃適当に上がって、遠回りして、深夜までやっている業務用スーパーに寄って帰った。簡単に親子丼でも作ろうかと鶏肉を見ていて、徳用をたどっていったら、一匹丸ごとに目を見張った。こんなの、クリスマスしか見たことない。しかしいくらコストパフォーマンスがよくても、捌けないだろう。でも、何だか見ているとどきどきしてきた。なれの果ての肉塊。僕を呼んでる?どうしよう。

 しかしどうしても手を伸ばすのはためらわれ、手前のもも肉2キロパックをつかんでレジへ向かった。鎖を繋がれた奴隷になって、鶏を捌けと言われれば何時間でも、一日中でも捌くしかない。そうして、強制されれば人間、何でも出来てしまうものだ。決断という自由意志がそれを妨げているだけであって、やるとなれば何だって出来る。

 家に帰って、さて親子丼だと思って着替えもそこそこに上着だけ脱いでまな板に向かった。包丁でパックを破り、手のひら大のもも肉を一つ取り出す、が、何個入っているんだ?パックがジップロックになっているわけでもないし、こんな量、そういえばどうやって保存するつもりだ僕は。


 Yシャツの袖を白っぽい赤に染めながら、包丁をふるい続けた。腕まくりするほどもないと思ったのが大誤算だ。コンポからは、アンニュイ、焦がれるような青春、アンニュイ、戻らないあの日、が流れている。<情熱と幻滅>。また、何度目かの過渡期にいるのだろうか。物理の本に書いてあった。湾曲した次元を歩く存在にはその歪みが感じられない。地平線まで歩いたって、道はふつうに続くだけだ。後から考えれば、黒井と会ったあの日や、黒井とあれしたあの日なんかが分岐点だったと思えるように、今日の今だってそういうものをはらんだ瞬間を積み重ねているわけだ。

 足で音量を一つ上げようとしてつりそうになり、やめた。脂っぽい指紋を付けないよう、タオルで綺麗な銀のボタンを押す。情熱と幻滅は繰り返す。現実は続く。

 まな板に戻り、ひとくち大に切った鶏肉を大皿にひたすら積み上げる作業に戻った。始めてしまったら、途中でやめて放置するわけにもいかなくなったのだ。全部切ってしまって、小分けにして冷凍保存するしかない。

 ぐにぐにした切りにくい皮を切り、小さな軟骨を削ぎ、腱だか神経だか、真っ白い管を切る。管の中からさらに管が出てきて、それを引っ張るとどこかが動くようだった。システマチックに出来ている。必然的に僕は人体についても考える。こういう管が僕の中にも入っているんだろうか?こういう精巧な機構で動いていて、しかし僕の自由意志なんかは生物として何の意味を持つのだろう。男を好きになって、繁殖も出来ない僕は何の意味があるんだろう。

 曲に合わせて、無心で包丁を動かす。左手で肉をなぞりながら、切断、切断。昔、弁当工場で働くパート主婦たちが死体の解体を請け負うってミステリがあったけど、こんなもの毎日毎日捌いていたら、鶏でも豚でも人間でも、みんな肉塊だ。死体清掃人でなければ、肉の解体業者もいいかもしれない。どうして僕はこういうのに惹かれるんだろう。たぶん自分に自信がなくて、死んでしまえばみな同じっていう圧倒的な事実に救いを求めてるんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る