第350話:初恋の副産物

 金曜の午後四時半。

 ミーティングルームで講師山根による新人研修第一回。

 ・・・といってもまだ講師などということをする気はなくて、初回の今日は単なる情報交換会ということにした。営業デビューした二人が今週どんなことをしたかということと、そして、これまでの研修で新人たちがどれだけ契約書まわりを教わっているのかを僕が知るための会だ。


「えー、どうもみなさんお疲れ様です」

 とりあえず頭を下げるけど、フレッシュマン岩城君の「お疲れ様ですっ!」にびくっとし、一瞬言葉が飛んでしまう。やはり誰もくすくす笑わない。僕もこの音量に慣れないといけないのか。

「えー、では今週から金曜夕方の一時間ほどをいただいて、毎週、四課の営業や営業事務を少しずつお教えしていければと思います。それでは・・・」

 まずは無難に、飯塚君に話を振って、営業同行の活動報告をしてもらう。

「えー、私は今週西沢さんに同行させてもらって、目黒にある、××工業さんというところで、年明けから給与システムをリプレースということで・・・」

 ああ、そこは前に僕が担当で、西沢に渡ったところだ。そんな案件があったとは・・・。

 って、立ったまま腕組みしてちゃ失礼か。僕も座ろうかな。

「・・・で、その打ち合わせでした。先方は部長クラスの方と、事務の女性の方が同席して、えー、組織図と、システムの、クライアントの構成表を見ながら話を詰めて、いくつかここはどうなってますかというやり取りがあり、えー、来週またハードの入れ替えの件で伺うことになっています」

 ・・・。

 少しの沈黙の後、女子会の二人が「おおー!」と拍手をし、みんなもそれにならった。

 そして次は大柄で朴念仁ぽい感じの辛島君へバトンタッチ。

「えー、僕は、長谷川G長と鹿島さんと、調布まで行ってきて、・・・行ったんですけど、担当者がいなくて、っていうか、会社に誰もいなくて、十一時の予定が、うろうろしてたら十二時になってしまって、お昼を食べるところがなくて、コンビニもなくて、鹿島さんが持っていたマリーのクッキーを三人で、小さな公園で食べました」

 ・・・男三人、公園でクッキー?鹿島のおっさん、何でそんなの持ってるんだ?

 すると僕が思ったのと同じツッコミが一同から入り、辛島君は首をひねって「いや、分からない」と。そして続きを話し出そうとしたらなぜか遅れて老執事みたいな山田氏のツボに入ったらしく、そちらでまた笑いがひと波。顔を押さえて必死にこらえてるけど、実は笑い上戸?

 岩城君が「それでお客さんはどうしたんだよ!」と急かし、女子会は「え、待ってお昼はそれだけ?」ときょろきょろし、まだ僕にはなじみのない中村君が「え、調布でコンビニがないってどこ?」「何か、空港があった」「ああ飛田給(とびたきゅう)かー」と詳しいようで、彼の地元なんだろうか。

 しばらくざわざわして、先週黒井に教わった「場が温まった」というやつかなと思い、次へ。そうはいっても、チャーハン作りでフライパンにご飯を投入するタイミングじゃないんだから、まだまだ分からないし手探り。


 そして何とか<全員に発言させる>を意識しつつ契約書まわりをどこまで教わっているのか聞き出し、腕時計を見ると五時二十分。何となく、来週は契約書というものをイチからおさらいした方がよさそうだという目処も付き、今日はここでお開きにした。・・・もうくたくたでよく頑張ったな自分と思うけど、これは最も簡単な<様子見の会>なんだから、来週からが思いやられるな。



・・・・・・・・・・・・・・・



 土曜日。

 昼過ぎから雨が降ってきて、少し冷える。

 冷蔵庫にろくなものがなく、わかめと卵のうどんを作ったがさっぱり腹に溜まらなくて、仕方なく買い物へ。

 そして平静を装いながらも、やっぱり、黒井と住むことを考えて数分に一回、身悶えする。

 ・・・怖い、大丈夫なんだろうか、という感情と。

 そしてこの、心臓をぎゅっとつかまれるような、どきどきと。

 これらが交互に訪れて、一人で買い物をしてるのに一人になりたくて、でも二人で住んだら一人になる暇もないのかと思ったらやっぱり怖くなり、でも怖くなってもクロがいるのかと思ったら抱きつきたくなって、もう疲れた。いや、ちょっと疲れたよ。


 帰って、ちくわとちりめんじゃこでご飯を食べ、家事。

 しかし洗濯や掃除も、何だか変に意識してしまって、妙にしっかりやっている。いや、背後霊みたいに黒井が後ろでチェックしてるわけじゃなし、いつもどおりでいいんだって。

 ・・・あ、麻婆豆腐。

 豆板醤を見てくるのを忘れた。せっかくあいつが食べたいって言ってくれたのに・・・。

 ・・・。

 くそ、何で部屋の真ん中で一人で照れるんだ。

 少し頭が馬鹿になってきているんじゃないか?いや、割と前からだけど。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 十一月九日、日曜日。

 まだ紙に書くのは怖くて、頭の中だけで黒井の家に運び込むもののリストを考える。

 一番大事なのはスーツ。それから寝間着やタオルなんかはどうにでもなるとして・・・。

 大きなものでいえばパソコンとプリンター、あとコンポ。私物としてはDVDシリーズとか諸々の書類、そして、ああ、黒井とのことを書いたノートやらもらった封筒などの記念品やらもあるけどどうしよう・・・。

 DVDはいっそのこと売ってしまってもいいけど、っていうか、冷蔵庫やら洗濯機やらはどうするんだ?「部屋はとりあえずこのままで」って言ってた気がするけど、つまり解約はしなくて家賃だけ払い続ける?

 ・・・うん?

 もしかして、引っ越しというほどのことはなくて、黒井が想定してるのは、いつも泊まってるのの延長くらいってことだろうか?

 お試し期間・・・ということ、なのかな。

 いや、ああ、きっとそれって大切だ。結婚前に同棲しておいた方がいいとよく言うみたいに、同棲前にもお試しのロングお泊まり期間が必要・・・。

 僕は頭の中のリストの、私物だの書類だのをさっと消して、着替えや日用品にとどめることにした。ああ、ドライヤーはきっと役立つだろう。ナノ何とかが入ってるんだからそれで黒井の髪を乾かしてやったら・・・。


 そして妄想に耽っていたら、その本人から電話。

 慌てて出たら、黒井は泣きそうな声で「おねがい、すぐおれんちにきて」と言った。



・・・・・・・・・・・・・・



 取るものもとりあえず、財布と携帯だけつかんで、飛び出した。

 こんなことが前にもあったなと思い、ああ、<会いたい>と三度、四度メールが来て、駆けつけたら得意先の女性に絡まれたとかで、不安定になってた・・・。

 ・・・また、<ぶり返し>てるんだろうか?

 何か奇行をやらかして、まさか怪我でもしてないだろうな。

 やっぱり僕がずっとついててやった方がいいのかもしれないと思いつつ、いや、だからそれはおかしな共依存になってしまうんだと、こちらも同じ論議がぶり返す。

 でも、それだとしたって。

 まずは、行かないと。


 もう何度通ったんだろうという道を走り、黒井のマンションへ。

 インターホンを押すと、ややあって鍵が開く音がして、でもそれきり。

 ・・・ゆっくり、ドアを開ける。

 微かに、シャンプーや石鹸のにおい。

 部屋の中は暗くて、ああ、今朝も雨が降っていたし、やはり<ぶり返し>コースなのか。

「・・・おい、クロ?」

 とりあえず玄関に入るけど気配はなくて、部屋まで行くと、ベッドに座っていた黒井が飛びついてきて、「やまねこ、俺・・・」と言ったきり、泣いた。



・・・・・・・・・・・・・・・



「ど、どうしたんだよ、クロ」

 もうその場に座り込んで、すがりついてくる黒井の背中をさする。着ている寝間着は温かく、髪も濡れているようで、風呂上がりなのか。

 やっぱり、屋上へ行っていた?

「うう、ねこ、どうしよう・・・」

「どうしようって、何があった?ま、まさか泥棒に入られたとか」

 黒井は首を振って否定する。背中に置いた手に髪の雫がしたたって、「風邪ひくから」と髪に手をやると「さわんないで!」と。

 ・・・何だよ、こないだは、髪の当番だとかいって、僕が洗ったり乾かしたりしたのに。

 でも黒井はもう一度「さわんないで・・・」と繰り返した。

 ・・・まさか。

「クロ、泣いてても分かんないよ」

「うう・・・、だって、だって」

「うん・・・?」

「まさか、俺だって、思わないよ」

「・・・え?」

「お前に言ったから?いや、無意識で分かってた?・・・もう、何でだよ。こんなのってある?」

 「・・・クロ」と促すと、しばらくの沈黙。

 そして、ひとこと。

 ・・・ハゲた、と。



・・・・・・・・・・・・・・



「頭、拭いてたら、何か、指がさ、つるって、さわったんだよ、地肌に」

「・・・」

「後ろ、自分で見えないからわかんないけど・・・」

「・・・」

「どうしよう、俺もう、どうしよう」

「・・・お、落ち着けって」

「俺、もうかっこ悪くてもいいって思ったけど、・・・だからってさ」

「・・・」

「お前のせいだよ」

「・・・」

「・・・お母さんが言ってた。髪が抜けんの、その原因って、抜ける三ヶ月前くらいなんだって。何か、サイクルとかで」

「三ヶ月、前・・・?」

 えっと、今が十一月で、三ヶ月前というのは、八月?

 八月といえば、お盆で、旅行・・・。

 まさか、肝試しのストレス!?

「ご、ごめん、え、それって・・・」

「・・・だってさ、お前が、悪いんじゃん」

「うう、えっと・・・」

「好きだって言ったのに、全然、わかってくんなくて」

「・・・」

 あ、・・・告白、か。

「俺、もうお前のこと好きすぎるのに全然こたえてくんなくって、もう苦しくて、電話とかも来ないし、一人で泣いたりして・・・」

「・・・ご、ごめん、クロ、ごめん。お、俺もあの時は戸惑って、本当に、どうしていいか」

「だから今頃ハゲたんだよ!もう、責任取ってよ!」

「・・・え、ああ」

「ううん、違う、八つ当たりしただけ。ねえおねがい、俺のこと嫌いになんないで・・・」

「な、ならないってば。嫌いになんかならない」

「ごめん。・・・ごめん、ねこ」

「お前は悪くないよ、本当に。・・・あの時は、ごめん。それまで俺の方が、ずっと好きすぎて、だからバランスが取れなくて。正直信じられなかったし、・・・今だって」

 何だか急に、そうか、黒井に告白されたんだって思うと、心臓が跳ねて、息が浅くなった。

 まさか、僕が?

 すがりついてくる黒井を抱きしめたら、何かが伝わったのか、胸に手を置かれた。

「・・・ねこ、お前、どきどきしてる」

「・・・」

「ごめん。別にお前のせいじゃない。・・・俺が、・・・こ、この年で初恋なんかして、馬鹿みたいに、揺れすぎた」

「・・・」

「だってお前のこと急に、好きで・・・」

 黒井の湿った身体が更に近づいて、心臓だけじゃなく、下半身のそれまで脈打ってくる。

 僕は唾を飲みこんで、胸に置かれた手を上から握った。

「・・・俺といっしょに、いて」

 黒井がつぶやいて、返事の代わりに、その唇にキスした。



・・・・・・・・・・・・・・



 その舌は熱く濡れていて、もう僕は、何度か頭がスパークしかかって、床に押し倒してしまうところだった。

 でも、そうしたらまだ濡れた頭を床に打って、もし本当に髪がない部分があるならそれはいけないと思って、踏みとどまった。

 ・・・それでも、もう少し、もう少しと、僕はその舌を吸って、奥まで、歯をなぞる。

 何度も、唇を食むように出入りして、もっと欲しくて唾液まで吸い込んだ。

 だめだ、どうして、クロが欲しい、もっと、もっと。

「んんっ・・・」

 胸を強くつかまれて、もう、心臓を直接握ってほしい。

 少し後ろに逃げるのを押さえようと、その後頭部に手をやろうとして・・・でもさっきの「さわんないで」が蘇って、ぎりぎり触れずに、肩に置いた。

 ・・・そして少しだけ、もしかして、と思った。

 クロは僕に今、強引に、されたい・・・?

 それはきっと、圧倒的な波にさらわれて、現実から目を背けたいから・・・?

 ・・・もしかして、今までの僕もずっと、こんな感じだったんだろうか。

 それは何だかいじましくて、切なくて、でもどこまでいっても空虚な気がした。救いたくても救えないし、与えてもすぐに砂漠になる。それでもなお水が欲しくて、でもそれは、流されたいだけ。怖いという感情から逃げて、相手に全部委ねてしまいたいだけ。


「・・・クロ」

 僕はぬるりとすべる唇を離して、あえて、指先でその髪に触れた。

「・・・」

「・・・風邪ひく。髪、乾かそう」

「・・・」

「俺、・・・お前が思ってるよりずっと、お前のこと好きなんだよ。・・・だから嫌いになったりしない。どこにもいかない」

「・・・」

 黒井は僕の唾液で濡れた口の周りを拭って、「わかった」と小さくうなずいた。

 ああ、・・・僕はどうしてうちのドライヤーを持ってこなかったんだろう。

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