第349話:怖いという感情に気づく
「俺さあ、あの後、連休はまたジム行ったりして、何とか冷静にさ、色々考えたんだよ。そんで、こんな感じだなって今のたとえ、ちゃんとお前に説明しようと思って、覚えといたのに・・・」
「・・・」
「え、何でそんなに頭が悪いわけ?」
「・・・」
「何がどうなったらお前が貧乏神で別れるとかそういう話になんの?俺、怒っていい?」
「・・・」
「・・・貧乏なのは妻じゃなくて俺だろ?そんでも一緒にいてくれる美しい妻が、お前、だろ・・・?」
「・・・」
「・・・何か恥ずかしくなってきた」
「・・・」
「何とか言えよバカ」
「・・・」
「俺、<貧乏な妻>なんて言ってないだろ?<美しい妻>だっつってんの。ど、読解力がなさすぎだよお前」
「・・・」
「と、とにかく、それで・・・」
「・・・」
「まあちょっと俺、考えてることが、あって」
「・・・」
「何となく、来月くらいから・・・そ、その」
「・・・」
「お前の、必要な、荷物とか・・・こっちに運んだり、とか」
「・・・」
「どんくらいあんのかわかんないけど、まあ、何回か、でかいバッグとかで二人で運べば、きっと平気だろ?」
「・・・」
「とりあえず、そっちの部屋はいったんそのまんまで、お前だけ、こっちに・・・」
「・・・」
「まあそういう、感じで、その・・・」
「・・・」
「俺と、一緒に暮らすのは・・・どう?」
・・・。
黒井の声は、少し、震えていた。
僕はひたすら手のひらで口を押さえて、痛いほど携帯を耳に当てて、息だけをしている。
ゆっくり深呼吸して、でもドクドクと心臓は脈打って、床が揺れているような錯覚さえした。
僕は「・・・おれも、おまえとくらしたい」と声を絞り出して、反射的にぽいっと携帯を布団に放り投げた。うん、スマホを投げるお前のクセがうつったみたいだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
携帯からくぐもった声が何か聞こえているけど、その横で僕は布団にくるまった。
・・・とにかくまあ、僕は妻ということで、クロのお嫁さんになれるみたいだ。
くくくっ。
俺、お嫁さんになれるの?
そんな日がほんとに来るとは思わなかった・・・。
俺、クロのお嫁さんになるんだ・・・。
あはは、夢って叶うんだな。俺ってもう正式にクロと一緒になれるんだ・・・。
「・・・ねこ?」
「・・・」
「やまねこ?よく聞こえないんだけど・・・正式に俺と何だって?」
・・・。
あれ?
声に、出てた?
しかも、聞こえてた・・・?
さあっと血の気が引いて、布団の上で体を起こし、咳払いした。
「ごほん・・・あ、もしもし?別に、何でもないけど」
「え?今お前なんか、色々しゃべってたじゃん・・・」
・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・それじゃ、おやすみ」
その後、何だかよく分からないうちに電話は終わっていて、とにかく、来月くらいから、僕の私物を黒井の部屋に運び始めるという、ぼんやりとしつつも具体的な同棲計画があるみたいだった。
・・・。
いや、とにかく今日は寝よう。寝る。
・・・・・・・・・・・・・・・・
木曜日。
朝、顔を洗って口をゆすいで、ひげを剃る。
そして昨夜のことを思い出して「いやあ・・・無理だろう」と首をひねった。
スーツを着て家を出て、電車に乗って。
読解力が戻ってきた(?)ので、あのたとえ話で、妻が無職だの貧乏神だの、そういうことじゃないのは理解できた。
しかし、問題はそこじゃなくて、だから、僕が黒井の部屋で暮らすという点についてだ。
・・・。
・・・無理だろ。
だって、昨日、ハッキリと聞かれていなかったとはいえ、「クロのお嫁さんになれる」だとか何とか、そんなものを本人の前で口走ってしまうわけにはいかない。
・・・いやいや、いかないよ。
でも、四六時中一緒にいたら、いつか漏れ出てしまうと思う。
・・・うん。よく考えたら、僕は黒井に「ずっと好きだった」とは言ったけれども、その「好き」の内容がここまでだなんて、本人は知らない。もっと清廉潔白な「好き」だと思われている可能性もある。
どうしよう、<現実>だの<正論>だの、やっぱりそれ以前の問題だったんじゃないか。
それとももう、首をくくるしかないか。
・・・ん、それだと死ぬ?
何をくくるんだっけ?・・・あ、腹か。
・・・・・・・・・・・・・・・
外回り、午後。
渋谷近くの住宅街の細い坂道を歩きながら、曇り空を見上げ、営業先が近づいて、鞄に契約書一式があるか確かめた。
瞬きして、その一瞬、またいつものゲシュタルト崩壊。
まるで、新しく始めたゲームの最初の戦闘画面みたいに、どのボタンを押して何の攻撃をするのか、戸惑う感じ。慣れたゲームなら無意識に指が動くけど、そうならなくて「えっと・・・」と固まってしまう。
それは商談やら契約やらいう行為にしても、そして、・・・同棲だとかいう、未知の行為にしても、だ。
・・・怖い、の、かな。
唐突に、そんな言葉が浮かんだ。
僕は、実力のなさをカバーするために、事前準備をしっかりしたり、ハードルを低く設定したりといろいろ慎ましい努力をしているけど・・・つまりそれは、「慣れたゲーム」に持っていくための工夫だ。なぜかといえば、新しいゲームで指が動かなくて失敗してしまうわけにいかないから・・・というのは、もっともな理由だけど。
・・・失敗は、してはいけない。
当たり前だ。失敗というのは<してはいけないこと>を指しているんだし、失敗するメリットはないし、避けるべきものでしかない。
・・・でも、何だか、その当たり前すぎる<失敗を避ける>の裏には、「怖い」という感情があるみたいだった。でもそれは決して「失敗した際に負うデメリットがおそろしい」という意味じゃない。
野生のトラに出くわしたような感じか。
そうしたらきっとまずビビってしまって、逃げるのに失敗したらどうなるかという計算の前にまず<怖い>はず。
・・・僕は、もしかして、怖かったのか。
黒井と、暮らすのが。
失敗の危険性を取り除くべく色々考えてきて、でもぞろぞろと不安材料ばかりが出てきて、どうしたものかと思ってたけど。
でも本当は何の理屈もなく、ただ<怖い>だけ・・・だったのかも。
それは成功と失敗の度合いには関係なく、完全に払拭できるものでもなく、ただきっと、そういうものなのかも。
それで僕は、小さなオフィスばかりが入ったバブルっぽいマンションに着き、いつもならロビーで担当者の名前やら契約内容やら再確認して行くところを、そのままオートロックのインターホンを押した。
そして、一時間後。
無事にマンションを出て、大した契約でもないのにまだ緊張で動悸がおさまらない。
ああ、成功か失敗かにとらわれず、ありのままの「怖い」に身を任せたら何だか別の境地に行けるんじゃないかと思ったけど・・・あはは、別に、ただ怖いままだ。
・・・あれ、でも、これって。
黒井が「億万長者じゃなくてもいいと気づいた今ならできるかも」と屋上へ行って、「やっぱなんもなかった」っていうのに似てるかな。
うん、なるほど、何かの境地に至った感覚はあるのに、だからって別に何も克服できてはいない。
はは、でも、お前とおんなじだと思うと、悪くないね。
何だか急に黒井に会いたいなあと思いながら、代々木競技場を横目に、原宿から電車で新宿へと戻った。
・・・・・・・・・・・・・・
帰社して、会いたいなあと思っていたらその相手がちょうど席を立って伸びをしながら歩いてきて、何て偶然。もうどうしよう。
思わず、頬が緩んで、変な笑みが漏れる。
黒井も僕に気づいて、「あっ」という顔で笑う。ああ、もうだめかも。
真正面から近づいて、ゆっくり、立ち止まる。
顔は見れない。
「・・・よ、よう」
とりあえず、僕から声をかけた。会社では、親友、親友・・・。
「お、・・・お帰り」
「ああ、ただいま・・・」
「・・・っ」
「う、うん?」
「・・・あ、ねえ、コーヒー行こう、よ」
「あ、うん」
自席に鞄を置いてこようかと思ったけど、その数秒でも離れたくなくて、持ったまま給茶機方面へとUターン。
・・・。
無言で、並んで、歩く。
何だよもう、さっきの営業先より緊張するし、動悸はするし、手が震えそう。
・・・そして、隣の黒井も妙にそわそわしている気がして、ふと思い出した。
「お帰り」と、「ただいま」って・・・。
い、いや、外回りから帰社した時の、ふつうの挨拶だから・・・。
・・・だめだ。
照れる。
給茶機に着いて、黒井がコーヒーのボタンを押しながら言った。
「そ、そういやさ、お前、今日昼飯とか、何食った?」
「え?昼?・・・えー、牛丼、だけど」
「俺さ、何か急に辛いもんが食いたくなって・・・でも頼んだらすっげー辛くて、水飲んでも全然食えなくて、残しちゃった」
「はは、何だよ、しょうがないな。そういうの、辛さのレベルとか、書いてあったりしないの」
「え、どうだったかな・・・」
黒井が出来上がったホットコーヒーを取って上の棚からクリープを出し、僕が次をセットする。うん、二人で暮らすなら、何だかいい感じのコーヒーサーバーが欲しいな・・・。
沈黙が訪れ、何となく「それで、辛いって、激辛料理?」と促すと、ややあって「・・・四川麻婆」と。ああ、確かに四川の麻婆豆腐はちょっと赤黒くて辛いイメージがある。豆腐は固くて大きめで、山椒みたいな香りがして・・・。
ん?
そういえば、ゆうべ麻婆豆腐作ったって、電話で話したっけ。
「今度、お前の・・・食べたい」
言われて、思わず砂糖を入れすぎた。ああ、いやいや、甘すぎる。
「わ、分かった。そんなに、辛くしすぎないように・・・する」
「・・・うん」
そして、黒井がクリープを取る時、たぶんわざと、隣で砂糖をかき混ぜる僕の手にその手の甲が当たった。
白いYシャツの腕が、少し背伸びして、上の棚にそれを戻す。
それをチラリと見つつ、気づかれないようにすぐ目を逸らしたけど。
でもたぶんお互いに手のことも盗み見たこともバレていて、なおかつ、バレていると気づいていることもまたバレていて。
それでも二人とも何も言わないまま、ほんの少し肩を触れあいつつ、それぞれの席に戻った。
・・・・・・・・・・・・・・・
十一月七日、金曜日。
朝から佐山さんが席に来て、ちょっとした雑用と、「引き継ぎのことで、後でちょっと・・・」と。ああ、そうか、佐山さんは今月いっぱいで産休に入るわけで、もしかしてもう後任の人がやってくるのか。
キリがよくなったので、例の、四課の奥の物置きみたいなスペースで立ち話。
後任の話はアタリで、来週にも次の派遣さんが入り、しばらくは一緒に業務をやって、十二月からはその人が四課の営業事務になるとのこと。佐山さんのお腹は目に見えて大きくなっていて、でも、まだ何だか、四課に他の女性が座るだなんて思えなかった。ほんわか癒し系の佐山さんがいなくなり、あまり僕の好きでないタイプの人が入ってきたら、ここの雰囲気も変わって居心地が悪くなるかもしれない・・・。
「なので、来週頭には課長さんとその方が顔合わせをして、問題なければすぐ配属になるかと・・・」
「そ、そっか」
すると佐山さんがふと僕の背後を見遣り、つられて振り向くと「二人して何の話ー?」と黒井が顔を出した。上着のポケットに両手を突っ込んで、ガムなんか噛んで眠そうな顔で。
「あ、おはようございます」
黒井は「おはよー」と返しながら僕の横に並んだ。脈拍と体温が少し上がる。
「実は、来週から私の後任が来るっていう話で」
「えっそうなの?パンダちゃんの次の人?どんな人?」
「あ、私も詳しくは知らないですけど、派遣会社から聞いたのは・・・」
ああ、それは、そんなの僕だって気になる。
でも別に佐山さんが選んでるんじゃないんだし、聞いたところでどう出来るものでもないから突っ込まずにいたけど、黒井はさっさと楽しそうに訊き出した。そういうの、昔から転校生だの新しい先生だの、本当は知りたいけど「教えて教えてー!」なんて言えずに興味ありませんって顔をしてたっけ。佐山さんほど仲良くなっても出来ないものは出来ないもんだ。
「そうそう、事務についてはベテランさんだとか」
「ふうん、他には?」
「えっと、確か年は・・・」
僕は一緒に聞いてはいるけど何となく宙ぶらりんで、とりあえずマナーのよろしくない黒井の両手をポケットから引っ張り出し、上着の上のボタンを留めて、ポケットのカバーみたいなやつをしっかり出しておいてやった。
「ちょっとねこ、それ出さないでよ。手ぇ突っ込みにくくなるじゃん」
「いや手を突っ込むなよ。それに正式には出しとくものだろ」
「えっ、・・・俺出したことないよこれ。邪魔じゃん」
「ええ?・・・じゃ、何のためについてるんだよ」
え・・・?これって出しとくものじゃないの?僕なんかしまったことないけど。
しかし黒井が再度それを中に突っ込んだ状態をよく見てみると、無理やり押し込んである感じじゃなく、カバー的なものなんかついていなかったみたいにキレイにしまわれていて、この仕様も想定されているみたいだった。
「俺中学の時からブレザーだけど、ずっとこうしてるよ」
「で、でも、出さないのが正なんだったら、これは余計な布ってことで、そんな無駄なことするわけない。ついてる以上は使うものなんだよ・・・」
言いながらしかし、僕は自分の上着のポケットのそれを初めて中に入れてみた。
・・・ぴたっと入る。これはこれで、変には見えない。
どうしよう、僕はずっと間違って、変な布を出しっぱなしで歩いてたってこと?
「あの、それ・・・どっちでもいいみたいですよ」
「え?」
口元に手を当て、おかしそうに佐山さんが笑った。
「前に、そういう服のお店に勤めてるお友達から聞いたんですけど、何か、屋外では出して屋内ではしまうとかって言われてるけど、でも結局正解とかなくてどっちでもいいんだとか」
「ほら、こんなん使いやすいように使えばいいんだって。お前が変なこと言い出すから」
「・・・ご、ごめん」
「それでパンダちゃん、次の人は?」
「あ、そうそう。経理の経験もある、四十代の方みたいです」
「えっ四十代!?四十代なんてオバサンじゃん!」
「おい、しーっ」
「制服のオバサンかあー」
「こ、声を落として黒井君!!」
僕は慌てて振り返り、粗末なパーテーションから顔を出して周りに妙齢の女性がいないことを確かめた。まったく、職場でそういうNGっぽいワードを連発してくれるな!
佐山さんは笑いながら、「今は結構、若い感じの人多いと思いますよ」と言い、「あとやっぱりフルタイムだと、若くて経験のない人か、ある程度家庭が落ち着いたベテランさん、になりますからね」とフォローを入れた。それから、「私も入ったときは若かったなあ」と独り言。
「今は若くないの?」
「若くは・・・ないですね」
「そっか。俺も若くは・・・ないな」
三十路へ入った二人は謎の共鳴をして微笑み合い、僕が黒い文字盤の腕時計を見て、何となく解散となった。
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