第348話:元億万長者と美しい妻の話
十一月四日、火曜日。
会社に着くと、四課の課長席に新人の飯塚君と辛島君が来ていて、ああそうだった、二人が営業デビューするんだったと思い出した。しかしまだ席の準備が整っておらず、結局島に来るのは来週から・・・と漏れ聞こえてきた。しかしいなくなるらしいG長ともう一人についてのアナウンスはなく、ということは普通の退職ではなくてやっぱり何か事情のある異動か、しばらくどこかへ駆り出されるのか。何となくモヤモヤして気持ち悪いけど、どうせ誰もしっかり説明してくれないんだろうし、気を揉むだけ損だからやめておいた。
十一月になったということで月初の朝礼があって、僕は卓上カレンダーを紅葉から<落ち葉とトラクター>に替え、背広の袖からちらりとのぞく黒い腕時計に目をやった。
そしてあっという間にジュラルミンの時間になり、内線を受けて廊下に出ると、後ろから黒井の気配。
肩に手が置かれ、耳元で「おはよう」。
・・・どうしよう。
思いがいろいろと募りすぎて、こんなところで気安く話せる気がしない。
それでも条件反射で「おはよう」を返し、前を向いたまま歩き続ける。
いや、いや、これは・・・。
一緒に住むにあたり、正論がどうとか、現実や奇行がどうとかと理屈をこねる前に。
・・・もしも一緒に住んだなら、会社に着く前に、さらに二時間ほど、一緒にいる時間があるということか?(寝ている間を除く)
つまり、一日当たりの、黒井とともにいる時間が飛躍的にアップする。
たぶん二倍じゃ済まない。三倍?五倍?十倍?
・・・それって、僕の許容量を超えてはいないか?
「ねえ、ねこ」
重たい鉄の扉を僕に開けさせながら、黒井が「こないだ言った話だけど・・・」と言った。
「あ、その、それは・・・ち、ちゃんと考えてる。でもこんな所じゃあれだし、今度きちんと話そうと・・・」
ややあって「・・・ん」と同意の返事があり、やがて黒井の顔が見れないまま、配送担当の原西氏と黒井が世間話をしながらジュラルミンの受け取り。
まったく僕はもう、黒井と一緒にいたいのかいたくないのか、理論も現実もぐちゃぐちゃだ。こんなことならいっそ僕が考える余地もなく、かっさらってくれないかな!
・・・・・・・・・・・・・・・
水曜日。
十一月になっても相変わらず昼間は結構日差しが強いので、結局Yシャツ一枚で外回りをした。
朝、メールがあって、「今夜電話しよう」と、ひとこと。
電車や、歩いている最中も何度か、携帯を開けて見てしまった。
つまり今日はノー残だけど、どこかへ行ったり泊まったりはせず、さっさと帰ってお互いの家から話そうということ・・・。
もちろん、一緒に住む件、だよね。
正直言って、黒井が今も<ぶり返し>ているのかは、分からない。
でも、一緒に住もうと言って、そのことで「電話しよう」というのは何だかもう、そういう相手って感じで・・・。
コンビニで、立ち読みの下の棚の、結婚雑誌がつい目に入った。
<結婚式前にケンカしない!今月号は「はじめてのふたり暮らし準備Book」つき!>
・・・。
うん、こういうの、自分に関係ないと思っていた時はウザかったのに、当事者に片足をつっこみかけると、妙にその付録や分厚さまで、頼もしく見えるもんだ。
一瞬手を伸ばしかけたけど、しかし我に返って、すぐ引っ込めた。
・・・別に、男同士で結婚できるわけじゃないし。
いや、でも、「ふたり暮らし準備Book」だけなら?
・・・。
そしてふと、僕が手を引っ込めたのは、もちろん結婚云々の件もあるけど、この一年で染みついたものなんじゃないかとも思った。
これは、クロが求めてきた<それ>じゃない。
あてのない地図や冒険、流れ星や雪や月、そして物理学とアトミク・・・。
僕はそれらに同調してもいたし、クロについていきたい、合わせたいという思いでいっぱいだったし、男同士だという事実から目を逸らしたいというのもあいまって、無意識にこういうのを避けてきたと思う。
・・・でも、逆に。
もしかして、今は、これでいい?
<ぶり返して>いる黒井と近すぎる距離で暮らすのは危険かと思ったけど、でも、ただ一緒にいるんじゃなく、「暮らす」というのはやはり現実的な意味を伴う行為だ。二人でスーパーの総菜を見たり特売のラップを買い込んだりしてたら、何というか所帯じみてしまって、<それ>を求める余地もないんじゃないか?もはや「現実でいい」じゃなく「現実しかない」という状態になって、めでたしめでたし、なの、では・・・?
・・・・・・・・・・・・・・
帰社して、四課の島では新人の二人が早速同行をこなしているという話。
どうやら単なる同行ではなくもう少し踏み込んで教えているようで、なるほど、つまり、営業デビューしていない残りの新人たちにもそれを教えるべく、僕も彼らへの研修を考えないといけないわけね。
・・・先週の、営業デビュー告知イベントのことを思い出し、妹尾さんに見られたことを思うと気が引けてしまいつつも、週末の金曜日の夕方にミーティングルームを予約(今度はちゃんと出来た)。そのまま研修の内容を練ろうと裏紙を引っ張り出して書こうとするも、何だか気もそぞろで、ひとまずメンバーに時間と場所をメールするだけにとどめた。迷ったけど、今回は、あの新人のG長の高浦をCCに入れ、もしBCCにクロを入れたらまた助っ人に来てくれないかな、なんてだめか。
・・・・・・・・・・・・・・・
帰り道、ちらほらと、街にクリスマス色が現れ始めた。
おいおい、まだ十一月になったばかりだぞ・・・というか、ああ、ハロウィンが終わったから次のイベントのレイアウトに切り替えなくちゃいけないわけか。
黒井からいつ電話が来るか分からないから早足でスーパーをまわりつつ、そういえば去年以前はこのこと(ハロウィン~クリスマスのレイアウト)をどう思っていたのかなんて、さっぱり思い出せなかった。当然のことながらどちらのイベントも自分に関係ないから、結婚雑誌と同様、何とも思っていなかった。
でも今年は・・・ハロウィンは、ちょっと早いけどディズニーでそれを味わったし、そして、二回目のクリスマスは、どうなっているんだろう・・・。
帰宅して、簡単に麻婆豆腐で食べようと思ったのに肝心の麻婆の素を買い忘れ、それでも気持ちは麻婆だったから、素がなくても自作できないかとネットで検索。すると意外なほど多くの人が自分でイチから麻婆豆腐を作っているようで、なるほど、しょうがとにんにく、そして豆板醤に甜面醤・・・いやいや、そんなものないよ。
っていうかよく考えたら挽き肉もなくて、仕方なく豚コマを自分でちまちまとみじん切りにし、専門的調味料は味噌とラー油で代用し、最後に酢をまわしかけたら何となくそれっぽくなった。うんうん、まあ、美味しいんじゃない?ねえ、意外と俺って料理のセンスあるんじゃない?
・・・ねえ、クロ(テーブルの正面を見る)。
「・・・」
うん、一人で既に<エア・同棲生活>が始まっている。
咳ばらいをしてごまかし、粛々と麻婆丼を食べる。ああ、一人だからどんぶり一個で夕飯も済ませられるけど、二人だったらサラダとか副菜的なものやスープも付けなきゃね。洗い物もあるし風呂も交代で入らなきゃいけないし、結構夜は時間がないかもしれない・・・。
・・・。
・・・ああだのこうだの言って、一番乗り気なのは僕か??
・・・・・・・・・・・・・・・
「もしもし、ねこ?」
「・・・あ、クロ、うん」
電話がきて、何だか、一緒に暮らしているのに今日だけ出張で離れているみたいな気分。ああ、もう重症だ。一足お先に僕は重症だ。
「あの、えっと・・・」
「うん、その・・・」
何だかお互い、どこから切り込んだものか、緊張する。やっぱり電話じゃなくて、対面の方が話しやすかったんじゃない?もう、一緒に住んでから、その後で一緒に住むことを検討すればいいんじゃない?
「ああ、そういえば・・・」
僕がとりあえず世間話的に、今さっきの麻婆豆腐の話をして(たぶん、すごいとか食べたいとか言われたかったんだろう)、しかし黒井はそこは曖昧に聞き流し、ようやく言える空気になったと思ったのか、少しずつ話し出した。
「えっと、だから・・・その、ぶり返すっていう、話だけど」
「・・・あ、うん」
「ふとした時に、本当に一瞬、やっぱり俺まだ、もっとすごいもの目指せるんじゃないかって・・・」
「・・・うん」
「それでちょっと考えたんだけど・・・たとえ話だよ」
「うん?」
「・・・ある男がいて、元々大金持ちだったんだけど、落ちぶれて、文無しになって、でも絶対もう一回億万長者になるんだって、あがいてたわけ」
「・・・う、ん」
「でもある時美しい妻を娶って、それで、貧乏暮らししながら、ようやく、ああ、カネにこだわらなくたって、美しい妻と幸せに暮らせばいいじゃないかって、気づくわけ」
「・・・うん」
「でもさ、そこで、男は思うわけ。・・・こんなに美しい妻がいて、俺は幸せで、だったら・・・ただあがいてた時と違って、今こそ、やっぱり本当に億万長者になれるんじゃないかって」
「・・・」
「別に、美しい妻と、貧乏暮らしをしなけりゃいけないって理由はないじゃん?そんで、カネカネって執着して、億万長者じゃなきゃ人間じゃない!って思ってた頃とは・・・もう違うんだから、心だけじゃなく、お金だって、今度こそ本当に豊かになったってよさそうじゃん」
「・・・う、ん」
「そういう境地に至ったんだったら、ある日起きて、そこに青い鳥がいたっていいじゃん」
「・・・」
「・・・で」
「・・・で?」
「で、俺は屋上に行った。でもそこにはやっぱりなんもなかった」
「・・・」
「・・・それでやっぱり、俺」
「・・・」
「お前と暮らそうと思って」
・・・。
しばらく、ただ、パチパチと瞬きをした。
・・・え?
ああ、うん。
・・・うん?
つまり、「男はやっぱり億万長者のことは諦めて、いったん妻との貧乏暮らしに戻る」ってこと?
・・・つまり、俺が貧乏だということ?
とりあえず後頭部を掻きながら、さて、貯金はいくらあったかなと通帳がしまってある方の棚を見遣る。黒井が<それ>を取り戻すことにとらわれず、<現実でいい>を選択することは、まさに僕が思っていた<正論>なのに、どうも釈然としないのはなぜだろう。いや、このたとえ話では妻が働いていないっぽいのであって、だから貧乏なのであって、僕は働いているんだからそこまで貧乏暮らしはしなくていいはずだ。
・・・うん?
・・・妻が僕?
「何か、だからさ、俺・・・しばらくこういう<ぶり返し>はもう仕方ないもんだと思って・・・」
「えっと、あの、クロ?」
「うん?」
「そ、その、貧乏っていうのはさ、まあ、あの俺は一応・・・」
「え?」
「あ、いや、その・・・た、たとえ話が、分かりづらくて」
「えっ、わかんない?だからさ、最初はもう億万長者しか頭になかったのが、でも途中から、美しい妻がいればいっかってなって、でもそっからまた・・・」
「いや、その、話の筋というか、要点は分かるんだけど、・・・そのたとえでいうと、その、男が、お前?」
「・・・うん」
「それで、妻っていうのは・・・」
「・・・まあ、お前だけど」
「・・・」
「いや、<妻>ってのはあくまでたとえだよ!?」
「う、うん、分かってるよ。俺が貧乏な妻ね。・・・それって俺が貧乏神ってこと?」
「・・・はあ?」
「えっと、つまり、俺とは別れた方がいいってこと?」
「・・・」
「・・・」
しばらくして、「お前がこんなに理解力がないとは思わなかった」という平坦な声がした。
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