第351話:慰めるというスキル
電気はつけず、カーテンを少し開けて、午後の曇り空の明かりが入る。
ラグの上に膝を折って座る黒井。僕はその後ろのベッドに腰かけ、その頭を少し上から見ながらドライヤーをあてる。
はじめは何も見えず、この前乾かした時と変わらなかった。
だから、もしかして黒井の勘違いなんじゃ・・・と思ったけど。
やや乾いてきて、温風で後頭部の髪が、さっと吹き飛んだところ。
まるで満月みたいに、真っ白い地肌が見えた。
「・・・っ」
・・・。
一瞬、驚いて、息を飲む。
大きさはほんの、親指の爪くらい。十円玉ほどもなくて、たぶん一円玉くらい。
地肌は綺麗で、赤くなっていたり、腫れたりしているわけでもない。
ただ、<そこにあるはずのものが、ない>という違和感と、衝撃。
なるべくショックを隠して横の方を乾かすけど、目を逸らしながら、何かが胸に込み上げてきた。
・・・たかが、一センチちょっと、地肌が見えているだけ。しかもわざわざかき分けなければ何も見えないくらいで、痛みとかもないのだろう。
それなのに。
正視できない。
本当はきちんと確認して、どうなってるのか見てやらなきゃいけないのに。
手が震えそうになりながら乾かして、どうしよう、乾かし終わったら、本人にきちんと言わないと・・・。
わけもなく胸が苦しくなって、それが何なのか、自分でも分からなかった。
頭に釘でも刺さってるなら、怖くても、痛そうでも、見てやれる自信があるのに。
でもどうして、ほんの一円玉程度の、何も刺さってないしめくれてもいない頭皮が見れないんだ。
いい加減全部が乾いて、カチッと、ドライヤーの電源を切った。
ガーっという音がふっと途切れて、部屋がシーンとする。
黒井は身じろぎもしないまま。
・・・本人が隠したい、見られたくないものを、僕だけが見ている。
見てはいけないものを目の当たりにして、まるで、黒井の心の奥の傷を見ているみたいな気がしてきた。
そんなの、もちろん僕が何とかしてやりたいけど、・・・何もできない。
魔法か何かが使えて、手をかざせば一瞬で髪が生えてくるなら、もうそれだけの話なのに。
そして、物理的に何もできない限りは、物理的でないやり方で、声をかけるしかない。
つまりは、うまい具合に、優しい言葉をかけないと。
・・・。
・・・でもそんなの、無理だ。
髪で隠れて外からは見えないという現状説明、しか、できない。
できない。できない。
僕には人を「慰める」というスキルがついていない。
人の心に寄り添って共感し、親身になって思いやるという、そういう材料が入っていない。論理しか入っていない。
クロが<それ>を求めて苦しんでいた時に「きっとあるよ」と言ったのは、慰めたんじゃなく、ただ本当に感じたからだ。自分の見解を正直に述べただけ。
でも、髪が抜けたことについてなんか、医学的知識もないのに、僕に言える見解なんかない。見解や現状説明や今後の懸念事項に対する対策案とかじゃなければ、何を言えばいいんだ。
・・・。
ああ、たぶん、僕はまた、怖いのかな。
「デリケートな傷を見る」という行為が怖すぎて、足が震えて、慰めの言葉なんか浮かぶ前に現実的な対策とか論理とかに逃げたくて仕方がないんだ。
まるで水が怖い人みたいに、水中で目を開けたり泳ぐなんてもってのほかで、とにかく浮き輪にしがみつくしかできない。
・・・大人しく背中を向けている黒井が、右手を自分の左肩に乗せて、それをさらに僕の方に少し、伸ばした。
僕はその手を取って、ぎゅっと握り、涙が出てきた。
・・・・・・・・・・・・・・
・・・僕は、きっと、<あの時>、傷ついた自分を論理で強引にねじ伏せて、あとは理論武装を徹底して生きてきたから、傷つくという感情に対して、ただ手を当てて撫でるということを一切してこなかった。
あの時。小学二年生の僕。
自分のうす暗い本性を見せたら、告げ口されて、僕が悪かったことにされて、頭ごなしに「だめだぞ」と叱られたあの日。
状況を把握して対策を練ることで心の安定を図って、そしてそれだけが自分を救う方法で、だからそれ以外にやり方を知らない。それが僕の<浮き輪>だ。それでも不安定で怖い時は対処法が万全でないということだから、ひたすら叱咤して論理を詰めて、まだ怖ければそれは意気地なしか、心という器官の理不尽な誤差。
・・・だってさ、結局僕が悪いわけでしょ?
悪いやつは責められるんだし、泣いたって慰めるどころか、排除しなくっちゃ。
あの子がどんなつもりで僕のそれを触ったかなんて誰にも分からなくて、大人から見れば、僕が年下の子に性的なイタズラをしたとしか映らない。
この重大なミスに対し、僕はそれまで無防備だった世界観を書き換えて、二度と失敗しないように努力した。傷ついた可哀想な自分を慰めるどころか、傷ついたこと自体をタブーにして、記憶からも長らく消してしまっていた。
僕はもう一度、おそるおそる黒井の髪に手をやって、その部分を露出させた。
その不自然な白い地肌は、何だかまるで、あの時傷ついたまま存在さえ無視された僕自身みたいに見えた。
そっと、震える指先で触れると、その部分はまるで陶器のようにつるりとしている。
黒井の肩が、僅かにびくっとした。
「見えた、よ。大きさは、親指の爪、くらい。地肌は白い。何ていうか、綺麗に白いよ。でも髪をかき分けないと、外からは見えない・・・」
ひととおり状況を説明して、でももうそれは、僕には単なる円形脱毛症には見えなかった。
「クロ・・・怖い?」
「・・・うん。怖い」
「・・・そうか」
「だって今は見えないくらいでも、もっと、周りが抜けてくかも。どんどん拡がるんだよ。今は途中なだけで」
周り、引っ張ってみてと促され、僕はそのクレーターのような部分の周囲の髪を数本つまんで、ゆるく引っ張ってみた。
もしもずるっと抜けたら・・・と思うと怖かったけど、指は髪をつるっと滑って、抜けはしなかった。
「抜けないよ」
「もっと周り、全部やって」
「・・・う、ん」
丁寧に少しずつ、一周、同じことを繰り返す。
途中で、一本抜けた。
でもそれだけだった。
「抜けた?」
「一本だけ、だよ」
「・・・そ、っか」
「うん。・・・少し安心、した?」
「しないよ。だって先週何もなくて今こうなってて、だったら来週だってわかんない・・・」
その声は震えていて、でも、本当は少し安心して、それでも油断しないようにしてるんだと分かった。
「クロ、ごめん」
「・・・なにが」
「俺、先週はあんまり、信じてなくてっていうか、ちょっと大げさだと思ってて・・・。でも見たらその、びっくりしたし、お前も、怖かっただろ・・・」
「・・・うん」
僕はその部分を隠すように指で髪を梳かした。
そして手のひらを当てて、上からゆっくり撫でると、髪の上から、その部分だけ凹んでいるのがはっきりと分かった。
「・・・ごめん」
声を、絞り出す。
クロが「何だよ」と訝しむけど、僕は「ごめん」を繰り返して、頭を撫で続ける。
とうとうクロはこちらに振り向いて、僕の胸にごつんと、おでこが当たった。
「ねえ、おれ髪の毛なくなっちゃうの?そしたらお前に嫌われちゃう?」
「な、馬鹿言うなよ。そんなことないから・・・」
頭を撫でながら両手でかかえるように抱きしめて、子どもみたいにしがみつくクロの頭をゆっくり、優しく撫で続けた。
怖がってるのはクロだけど、その存在の半分は、幼い僕自身だった。
対象がどちらなのか分からないまま、「もう大丈夫だから」と、ぎゅっと抱いた。
「怖いよ、ねこ」
「うん、もう大げさだなんて思わないよ。怖いと思っても、しょうがない。ごめん。怖かったよな、ごめん・・・」
僕だってあの時、怖かった。
突然世界が全部敵になって、でも一人で全部何とかするしかなかった。
「怖い」の一言が、誰にも、自分にも、言えなかった。
「怖いよう」と泣きじゃくるクロに「大丈夫、俺がついてる、俺は味方だよ・・・」と繰り返し、僕は薄暗くなるまでずっと、そうしていた。
途中でその身体の感触やにおいや息遣いを感じて僕の一部が反応してしまったけど、それでもそのままずっとずっと、クロの頭を撫で続けた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
その後黒井は少し落ち着いて、僕が冷凍庫にトレーごと入れられた豚肉を生姜焼きにして出したら、うまいうまいと言って食べた。その間、やはり気になるのか何度か後頭部に手をやっていたけど、無意識にか、さっき僕がしていたように撫でてそれ以上は触らなかった。
「泊まってってくんないの」
「うん、スーツも鞄もないし、いったん帰らないと」
「・・・ん、そっか」
洗い物を終えて、玄関先。
黒井はさっきまで子どもみたいに泣いていたのに、今は、うつむいてやわく微笑む大人のイケメン。
でもその表情は泣いていたことを否定はしていなくて、同じ人間のまま、弱い顔もあると見せてくれているみたいだった。
僕なら、泣いたことは<見苦しいもの>として切り離したくなるけど。
そうしなくていいのかも、と思わせてくれた。
「ねこ・・・その、俺、すこし、だいじょぶになった」
「うん、それなら、よかった」
「・・・さんきゅ」
黒井は照れたのか、玄関で一段低い僕の首に両手を回して、しがみついた。
「う、うん。いいんだよ、俺で役に立ったなら、それで」
「・・・なんだよ、キザ言って」
「べ、別に、ほんとのことだ」
「そんなこと言って、俺知ってるもん。お前、おまえさ・・・」
そして耳元に、戸惑いがちな早口で、「・・・ちょっと勃ってた?」と。
「・・・っ、あ、あれは」
やっぱそうじゃん!と黒井はさらに強く僕にしがみつく。く、首が締まるって!
「あれはその、・・・せ、生理現象だろ!」
「俺だってスルーしようとしたけど・・・は、腹のあたりに、すげー、硬くて、熱くて」
「う、うっ、うるさい!人が真面目に・・・!」
「いいじゃん隠さなくて!」
「・・・っ、そ、そんな」
・・・。
・・・隠さなくて、いい?
・・・。
いい、の、かな。
一瞬頭が働かなくて、よく分からない。
論理が繋がらなくて、フリーズする。
でもあの夏、車の中で聞いた「俺には、見せて」の声が蘇って、そうか、もしかして黒井には隠さなくて、いいのかと、それはパズルみたいにストンとそこにはまった。
いい、なら・・・いいか。
「た、勃ったよ、しょうがないだろ!お前をずっと抱いてて、そりゃ、勃つよ」
「・・・っ」
今度は黒井が息を飲んで黙った。
動揺しているのが分かって、ちょっと、優越感すら出てくる。
「な、何だよ、まったく、俺がハゲてる時に!このエロねこ!」
「・・・っ、エ、エロね・・・」
「そうだよエロねこ!」
「い、言ったな、俺がエロ猫なら、お、お前なんか、・・・ハゲ犬だろ!」
「・・・」
あっ。
言っちゃいけないこと言った。
空気が一瞬凍ったけど、でも次の瞬間、黒井は苦笑いなのか呆れているのか、「うあー!よ、よくも言ったな!」と僕の肩を持ってグラグラと揺さぶった。
「ご、ごめん、悪かった!でも本当だし!」
「くっそ、そうだけど!」
「でも、俺はエロいかもしれないけど、お前なんか大したハゲじゃない。外から見えもしないような、ゆで卵でもない一円ハゲなんて、ハゲ犬とも呼べないくらいだ」
「・・・っ、み、見てろよ、一週間後、どうなるか見てろよ!ちゃんとハゲたら今度こそお前のせいだからなっ」
「ああ、せいぜい頑張れ。でも自分で抜くのはナシだぞ!怖がんないでちゃんと洗ったり乾かしたり、体にいいもの食べたりもしろよ!」
「・・・何だよ、励ましてんのかよお前・・・んっ、ハゲ増してる?」
言うなと言いながら自分でハゲハゲ言っている黒井はもう屈託なく笑い、叩いたり蹴ったりしてくるので僕はただ防戦一方。笑顔が戻ってよかったなと思いつつ、半分は、クロを通して幼い自分をようやく慰めてやることができたわけで、それは二十年越しの自分との和解だった。
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