31章:八月、夢と花火と旅行の準備

(来たるべき日に備えつつ、自分の夢分析をする)

第237話:見ている方が視られている

 七月三十一日、木曜日。

 苦手だと、ああやっぱりって感じで値引き額がどうとか期間がどうとか今更ぐちゃぐちゃ言われる。苦手意識がそうさせるのか、相手に問題があるのか、そもそも僕がずっと上の空なのか。

 たぶん、人生の目的や焦点が、仕事や生活や、更には現実からも、かけ離れてるからだろうな。

 どうもやはり最近、たぶんあの夜から特に、現実のすべてが他人事のように感じる。クロ、お前はどうだろう?毎日会社に来て同じ仕事をしてるけど、まさかお前は、生活費を稼ぐという以上の現実的な目的意識を持って仕事してたりしないよな?スキルアップだのゆくゆくはG長を目指すだの、考えていたりは、しないよな?


 帰社して、何かの拍子に四課の仮配属の新人、ひょろ長い飯塚君とちょっと話した。

「お盆休み、全然ないんですね」

「え、あ、もっとあると思ってた?」

「いえ、今日行ったお客さんのところで、お盆十日くらい休みだからその間来てもいないからねって言われてしまい」

 ものすごく几帳面に書類のクリップの位置を直しながら、「まあやることもないですけどね」と肩をすくめる。無意識に、黒井より背が高いだろうか、頭や肩の位置はどうだろう、と測っている自分がいた。その後は、共有フォルダの顧客情報の更新頻度について痛いところを突かれ、「まあ支障が出るまで優先度は低いですもんね」と、まだやってないのに全体の流れをよく把握していらっしゃる。西沢に見下ろされるのは嫌いだが、年下の、自分より聡明そうな飯塚君に見下ろされても嫌悪感はなかった。

 頭がよくて、誠実そうだから?

 話し方がゆっくり、はっきりしてるから?

 几帳面さに親近感を覚えるから?(僕はここまで気にしないけど)

 そのあたりの、ほんの二、三分で受ける印象はどこで決まるのだろう、と考え、別れてから、なら自分はいったいどう思われただろう、と思った。

 まあ、たぶん、ぼんやりした、有能とも無能ともつかない目立たない先輩、だろう。いいんだ、それ以上を期待などしてないし、僕はもう現実を生きていないんだから。

 ・・・。

 思考にそんな文がするっと出てくるくらい、そう、なのかな。


 

・・・・・・・・・・・・・・・



 フロア全体的に、残業もそこそこで切り上げる感じなのは、飯塚君が言うようにお盆が近いからだろう。今から作業の予定を組んでもどうせならお盆明けから、となりがちだし、駆け込み需要も特にない。明日から八月だし、日が暮れてもまだ暑くて、残業時は空調も弱くなるから余計に人がはけていった。

 僕はお盆前までのやることをリストアップし、いろいろと案件を整理しつつ、棚から大小のふせんを無造作に頂いた。仕事という行為も、論理思考のウォーミングアップと思えばまあ、やる気も少し出た。白紙に図解的なリストアップをしていると、西沢が「お、山根君、マインドマップ活用しとるの?」と。

「はい?」

「あれやろ、デキる人が使とる、意識高い系の小技的な」

「・・・言ってることがよく分かりませんけど」

「またまたあ。俺も無料アプリだけはダウンロードしたんやけど、まあ、使えるような使えへんような」

 何となく、僕を持ち上げておいて結局は自分の自慢をしたいようだが、仕事のためだけの行為ならまだ適当に話も合わせるが、これは自・・・。

 ・・・。

 思考すら面倒になり、中断した。

「西沢さんなら使いこなせるんじゃないですか?そういう、新しいことに詳しそうだし」

「いやいや、別にこれそんな新しいアレやないのよ。結構、五年とか、向こうの、本場では十年前とかからあるようなツールで・・・」

 ふむ、<新しい>が余計な反応を引き出してしまったか。得たい結果を得るにはもっと質問を練らないといけないな。



・・・・・・・・・・・・・・・



 八月一日、金曜日。

 朝、トイレから、出られない。

「・・・っ」

 時計がないからあと何分余裕があるのか分からない。もう出なきゃいけないならそれはそれでもう切り上げるしかないのだが、頑張れるなら頑張ってしまいたい。

 ・・・ストレスからか、便秘気味だったから。

 便秘なんてほとんど経験もないが、つらいんだな。下すのももちろんきついが、・・・っ、頭の血管が、切れそう!

「・・・」

 だめだ、個室が暑いし酸欠になりそう。

 もう、諦めようか。

 でも、もう一回だけ頑張ろうか。

「・・・くっ!」

 ただお腹が張ってる感じだったのが、何だかもう少し、具体的な感覚になってきた。

 どうして朝一番から自分の身体と切実に対話しなきゃいけないんだ?

 一、二の三、で息を大きく吸い込み、「ふうっ・・・!」と下腹に力を込める。息を吐ききったら前かがみになり、体勢を直し、もう一度・・・!

「・・・っ!」

 ・・・ああ、やりきった、と思ったのも束の間。

 ひ、ひい。

 こ、こ、こんなの、・・・ひやあ!

 ひゅうと、その中が、空気に触れて冷えた。は、早く閉じて!やめてやめて、そんな部分、自分で制御できない。感じたこともない感覚に、あうあうと声にならない声を上げて、しばらく何も出来なかった。

 後からひりりと痛む感じはあったけど、そんなのはそれほど、どうでもよかった。放心しながら思ったのは、クロのアレが出て行った時こうなるんだろうかってこと。それは痛いというより、どちらかというとおかしな羞恥心。どこかからはみ出してしまった内臓を、後ろを向いて見られないようこっそりしまい込むような。

 今まであれこれ妄想はしていたけど、結局現実問題として考えるのはちょっと微妙であり、<そして二人は幸せに暮らしました>みたいにぼやかしてきた。お前が気持ちよくなるためなら俺は痛くたって構わない、みたいな、でもそんな綺麗事じゃないみたいだ。どっちか言えば、風邪のときクリニックで喉に棒を突っ込まれて茶色い何かを直接塗られるみたいな、そういう、越えてしまえば涙目で我慢できるような、そういう・・・。

 ・・・。

 いや、予定はないけど。

 ち、遅刻遅刻!!


 いつもより何本か遅い電車で、早足で歩いていたら、地下通路で偶然黒井がいた。

 本当に、待ち伏せでも尾けたんでもなく、まったくの偶然。柱の影からふいに出てきて、ほんの一瞬横顔を見、あとは背中を眺めた。

 追い越してしまわないようゆっくり歩き、焦がれるような視線をたっぷり浴びせた後、ロビーでふいに振り向いた黒井に、見つかった。

 振り向いたまま立ち止まり、距離を取っていた僕を待っている。僕は反射的に驚いた振りで、「・・・あ、おはよう」と。

「お前、金曜日はこの時間、とか?」

「え?」

「前もいた」

「え、い、いや、今朝はたまたま、腹痛で」

 エレベーターの列に一緒に並び、何となくうつむいた。黒井もそれ以上何も言わず、ただ横に立っている。だんだんとその距離感に慣れていって、不思議と、落ち着いた。視界にはほとんど入っていないのに、ただその存在の体温というか、気配だけで満たされた。

 列が少し進み、何となく空気も流れて、黒井が口を開く。少しトーンを下げて、二人だけの会話。

「ね、お前、全然俺に気づかないんだね。今日だって、こないだだって」

「・・・え?」

「今さ、すぐ前歩いてたの見えなかった?こないだも、ずっと後ろから見てたのに、視線とか感じない?」

「・・・え、あ、いや、どうかな」

 はは、と一度肘でつつかれ、エレベーターに乗り込む。だんだん、猛烈に「実は全部知ってる」と言いたい気持ちが喉までせり上がってきたが、大きく息をついてこらえた。

 そして、ああ、そうか、見え方によっては、僕が無視したともとれるのか、と思った。見ている方が、視られている方だ、って何かのミステリの帯の文句。いろいろと気をつけた方がいいかもしれない。



・・・・・・・・・・・・・・



 納品書に貼るシールを印刷したらまたプリンタに盛大に詰まり、分解して手を突っ込んで格闘。会社員というのはプリンタと戦う人種のことだ。基本スキルとして高校生くらいからマスターしておいたらいいのに。

 ようやくシール部分がトナーに貼り付いていたことが分かったものの、粘着部分のべたべたがなかなか取れない。印刷物を取りに来る人に<只今使用中止>を周りにも伝えてくれるように言い、ウエットティッシュでローラーを何度も拭った。

 壊してしまったらどうしようとか、みんなに迷惑をかけているとか、詰まったのは僕のせいじゃないとはいえ<あーらら>って目で見られて居心地が悪かったりとか、でも、それでも一人で機械やモノをいじっているのは何となく気持ちがよかった。鉛筆を削るのもそうだが、何かの目的を持ってそれにあたり、しかも相手を気遣う必要もなく、文句も言われないというところがいい。デジタル機器に強いってほどでもないし、工作もうまくはないけど、まあ、一人で向き合うならそれも指摘されないしね。


 自分で立てた予定通りにいくつかやることをこなして、気づくとクロとのよからぬ妄想にふけっていたりしながら、それでもまた何かやらかさないように慎重に仕事をした。客先ではまずロビーで汗が引くまで待ってから。


 何となく、何の目的もなくただ仕事をしていたら時間が早く過ぎて、ストレスもあまりなかった。自分はこんなことのために生きてるんじゃない、なんて思い始めたら火を噴きそうだけど、別に諦めとか自虐的とかじゃなくこれはこれで肯定できた。


 こうして僕は今週やるべきことを全て終わらせて帰路につき、有り合わせの材料で焼きそばを作って食べ、スクワットをして早々と寝た。



・・・・・・・・・・・・・・



 翌朝、七時から起きてアイスコーヒーを淹れ、<アトミク>に関連する本やノートを全て引っ張りだした。会社から頂戴したふせんとサインペンも揃え、しかし、さていつものようにまずどこから手をつけるべきか考える、その判断材料を出すための会議から始めなくてはならない。

 ・・・。

 まず順不同でキーワードを出していき、これからしようとしていることの輪郭を徐々にはっきりさせていきたいが、その最初のキーワードを書く、ふせんはどれにするか、ペンはどれか、字の大きさや位置はどうするか、未定の統一感を先取りできずに手はふらふらと迷った。

 ・・・キーワードの書き方の統一感を模索するための会議からやらなきゃならないか?

 やろうとしているのが手に負えないくらいのことであると自覚しているからか、僕はもうしばらく二の足を踏んだ。


 先に思考で完結してしまうと、それを紙にアウトプットするだけという作業になってしまう。しかし今やろうとしていることは、もっと手と紙が一体となって現在進行形で何かを作り上げていくような、あるいは作り出していくような、そういう行為だった。だから、先に考えすぎてもいけない。

 もしかして、黒井はいつもこういう考え方?

 いや、たぶん、僕みたいに気をつけてそうするんじゃなく、それが常態で、ナチュラルに。

 今の目の前だけに集中して、・・・他には何も、ない?

 徒競走のスタートラインでピストルの音を待つような。

 ちょっと高い塀とかから飛び降りる直前みたいな。

 だいたい僕は自分が転んだり、思わぬところに釘が落ちてたりしてひどい目に遭うって予感を持ってそれに臨むけど、お前はもっと自由かな。

 でも、僕だって、思考の飛翔で脳みそに釘が刺さったりはしないから、たぶん出来る。

 目を閉じて、一度深呼吸した。

 絶対の自信、は、ないけど、仮想メモリみたいな自信ならある。

 そして、<ミレニアム~ドラゴン・タトゥーの女~>の映画で観たような、うっとりするような理想的なそれを思い浮かべた。

 周囲から隔絶された田舎のお屋敷。

 依頼人の老人。

 調査用にあてがわれた別荘。

 資料を全て持ち込み、五里霧中の事件の概要を、壁中にピンで留めていく。中心にはもちろん、依頼された、行方不明の女性の写真。

 もしも人生でそんなことが出来たら、どんなに幸せだろう。今まではぼんやりと夢想するだけだったが、今、僕はそれを目の前にしている。

 北欧の別荘でもないし、モノクロ写真や古い新聞の切り抜きといった、それらしいアイテムもない。

 けど、内容だけは、<失踪した少女の捜索(連続殺人事件が関連?)>に引けを取らない、いや、それとは次元が違う、深遠な事象のはず・・・。


 夢想で奮い立ったところでペンを取り、全ての中心のキーワードを書くべく、一番大きいふせんを取った。命題は、アトミクでも、コペンハーゲンでも、向こう側でもあっちでも物理学でも黒井彰彦でもなく、たぶん別の名前がつくはずの何かだった。僕は四角く黒塗りし、その名前はいつか黒井に決めてもらうことにした。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 書き始めてしまえばキーワードはいくつかずるずると出てきた。

 しかしそれは、<コペンハーゲン>の連想キーワードを出した時とほとんど同じで、そこに<NDE(臨死体験)>や<向こう側>や、<集合的無意識>や<深海>なんかが加わっただけだった。

 中心を決めるというのは良かったし、それは既存の概念ではないことは分かったが、それ以外は知識の羅列に過ぎない。系統別に分類しただけであって、整理はされるけれども、目指すものはもっと別にある気がした。

 ・・・もっと、奥だ。

 そう、あの夜、感じたこと。

 それが、これらの知識や概念やキーワードの、根になる。中心から派生するように貼られたふせんは、二次元の広がりじゃなく、本当は三次元の樹木だ。たぶん、こうして壁一面に貼っていくんじゃなく、葉っぱや枝や幹や根元に貼る方が意味合い的に近いんだ。

 その木の、全ての部分に流れているのが、数学的に等価とか、波であり粒子とか、相対的とか原子とかプラトンの洞窟の影絵とか、つまり、視点が違えば実体まで変わるという<コペンハーゲン性>。そして、ボーアの言う<コペンハーゲン解釈>そのままに、その<実体>の<真実>というものには、(人間には)決して手が届かない、あるいは、<真実>などというものは存在しない、というスタンスも同時に流れている。

 それから、幹と枝の付け根くらいを支配してるのが、<ブラックホール性>。隔絶や一方通行、見えない事象地平といった概念を含んでいる。これは・・・そう、コペンハーゲンの、視点のあちらとこちらを分ける境界の、境界性ってことだろうか。これは<コペンハーゲン性>の一部分であり、また同時に、ブラックホールそのものはコペンハーゲンを体現した物体でもある。


 壁に貼られたふせんに目を走らせながら、木というカタチについてふと考えた。人間の思考は元々こういう自然の幾何学から形成されているのか?ア・プリオリ(先験的な認識)か、経験主義か・・・。木を見たことがない人間でもこの構図が導き出せるのだろうか?それはつまり、プラトンのイデア論だ。現実世界ではない天上に完璧なイデアという鋳型があり、地上の存在はそれが投影された劣化コピーに過ぎないという説。しかしたとえ劣化コピーでも本体と影は等価であり、だから本来は完璧な存在である僕たちは、経験として木を見たことがなくても、イデアの記憶や認識として、木という存在を潜在的に知っている・・・。

 ・・・プラトン、か。

 黒井が言っていた、洞窟の影絵。

 そういえば物理合宿の時、プラトンのイデア論を再考するんだとも言ってたか。ヨーロッパの物理史をたどる旅の終わりには、ギリシャのエーゲ海でプラトンに回帰するんだ・・・。

 ふいに、ああ、そうだと思った。

 最初からそんなことはわかっていた。

 どうして。どうして?

 もう、目はふせんも壁も見ていない。

 お前と会って、<本番>をやって、物理をやって、失って取り戻した。少しずつ、少しずつ、そして、延々と、僕はお前のことを考えてきて、それはもう毎日、何百時間も考えてきて、それで、それはわかっていたはずだ。

 お前とそれを、共有できるってことを。

 いや、<コペンハーゲン解釈>と<ブラックホール性>に阻まれて、真の意味で同じそれを見ることはたぶん原理的に不可能だ。でもそうじゃなくて、その、世界でただ一人、それを話して、それが通じる相手、ってこと。

 俺がお前に追いついたのか、お前が俺に感化されたのか、そういう時間経過はよくわからない。僕は止まった時間でしか考えられない。しかしそれはまるで、僕たちはずっとその時計台の前の広場にいて、花壇を見たりベンチに座ったりしながら、でもあの夜、お互いそこにいるってことには気づいていながらも、初めて、目を合わせた感じだった。

 知っていたはずなのに、驚いた。

 ずっとわかっていたのに、戸惑った。

 お前がただの爽やかイケメンじゃないってこと、最初から知ってたじゃないか。僕は突っ立ったまま自分の首筋と肩を撫でて苦笑した。何ていうか、これでよかった、というか、なるべくしてこうなってるんだ。そのために、お前に恋したんだ、俺は。

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