第236話:メッセージカード
朝思い出した夢は、別に<向こう側>でも何でもない、世俗的なものだった。
幼児が一人、殺される。真鍮あわび幼稚園とかいう意味不明な名前の、地方の幼稚園の男児だった。
教育委員会は何の防衛策も取れず(本来は管轄ではないだろうが)、召集された保護者からは偉そうな正論のクレームがつく。
「この間の事件はBCDのタイプの幼稚園で、今回我々はABCで、しかし、その前のABCDの幼稚園でもそれは防げなかった」
「だめということや」
連続殺人事件ではない。ただ、大人が子どもを殺すことを防ぐ手立てはないのだ。
僕は近所のスーパーに行きがてら、そう思う。二十四時間監視するというのも非現実的だし、っていうかそもそもの論点がずれている。
教育委員会も保護者もマスコミも、本当のことがまったく見えていない。彼らはもう、薄々感づいているけど隠しているとか取り繕っているとかじゃなく、本当に、及びもつかないんじゃないだろうか。
本当に少数の人間が、それを、本当の理由を、知っていた。
その中には僕も含まれる、ということだったのかどうか、ちょっと定かではない。
その後の展開を思い出しながら、僕は、犯人は明示されなかったのにどうして自分は<大人が子どもを殺す>と断定したんだろう、と思った。つい先日女子高生がクラスメイトを殺して首を切断したばかりじゃないか。予断で犯人像を絞るなんて、僕としたことが、いけない、いけない。
それからふと浮かんだのは、白く、細長い、プラスチックのプレートだった。
三十センチ定規くらい?
とにかくそういう物体を想定し、それがその<本当の理由>が具現化したものらしかった。少数の<知る者>たちはそれを目にしている。そして、その薄っぺらいプラ板は真っ白なんだけども、そこに付随する、というかそれが内包しているのは、数字の<偶数>のみだった。
・・・自分でだって意味はわからない。
カーテンから光が漏れていて、遅刻かと、どきりとしながら携帯に手を伸ばすと、目覚ましが鳴る一分前だった。
・・・隣で、黒井が、寝息を立てている。
ちらりと見遣って、シャツが皺になる、ズボンが皺になる、と奥歯を噛んだ。
このまま身体を重ねたって、何だかそれは当然みたいに思えるけど、ここは深海じゃなくて朝が来たから、会社に行かなくちゃ。
鳴る前に目覚ましを止めて、静かに起き出してトイレに立った。
部屋に戻るとテーブルの上に<深海>があって、でも、やはり朝見るとそれは少し白々しいというか、現実感のない夢の世界みたいに見えた。昨日、確かに俺たちはそこにいたのにね。
「・・・クロ、そろそろ起きて。シャツ、アイロンかけるから」
肩を揺すると黒井は「んん・・・」と唸り、しばらくすると観念したのか、ぽつりと「・・・お前ゆめみた?」とつぶやいた。
「・・・見たよ。別に、ただの殺人事件の夢だ」
黒井は鼻で笑い、ようやく体を起こすと、ネクタイを取ってシャツを脱いだ。
「俺は、どっか、空港の本屋っていうか売店みたいのに入って、雑誌を見るんだよね。何かの音楽の特集で、CDが付録でついてくるようなやつ。そん中に、何か二進法だか十六進法だかの歌があって、俺はそれを聴きたいって思って、それで・・・」
「・・・それで?」
「何だったかな、忘れた」
「どんな歌なんだ、それ」
「さあ。でも、別に歌詞の話ってわけじゃなくて、その音楽自体が、音符とかコードとかが、別のルールの音楽なんだ」
僕はカーテンを少しだけ開けて、皺のところにさっとアイロンをかけた。黒井は「何だか違う世界みたいだ」とつぶやいて再び倒れこみ、寝たままズボンを脱いで、足で僕に投げて寄越した。
・・・・・・・・・・・・・・・
何となく、大した会話もせず、寄り道したり、あるいは遅刻で走ったりもなく、普通に出勤した。
お互い、少し、上の空で。
地下通路を歩き、エレベーターに乗って、フロアに入ってようやく目を合わせ、「じゃあ」の一言もなく、三課と四課で分かれた。
・・・黒井のことを、近くに感じている。
そして、向こうもそうだろうと、思った。
でも、ここにとどまったら、この深みにはまったら、抜け出せなくなって、淀んで腐ってしまうだろう。
見ないうちに、流していかなくては。
腐ることはなく、ブルーホールのように時が止まったまま永遠を過ごせるのでは、という可能性も見ないようにして、澄んだ水をどんどん、流していく。
きっと、あの夜のことは忘れないだろう。
だから、大丈夫だ。
目に入るオフィスのあれやこれやがみな新鮮に見えて、眼鏡までかけたら更に明瞭になって、一人で少し笑った。西沢が「え、何やの?」と言い、僕は、「イカを食べたので」と答えた。猫はイカを食べるとひっくり返るって、本当だろうか?
ジュラルミンを運んだり、キャビネ前に集ったり、いつものルーチンワークをこなした。佐山さんと島津さんは、DVDになった<アナと雪の女王>の話題。
「真実の愛は、王子様のキスじゃないんですよねえ」
「え、そうなの?」
「あ、ネタバレしない方がいい?」
「ううん、気にしないから、続けて」と島津さん。
佐山さんが僕の方を見て、僕も「あ、どうぞ」とうなずいた。
「結局、ふらりと現れてキスしてくれる異性より、本当に相手のことを思いやる同性の方が、真実の愛に近いってことなのかなあ」
「女同士なの?」
「うん、っていうか、美しい姉妹愛」
「ふうん。私妹いるけど、まあ現実にはぴんと来ないね」
「命をかけて助けてくれそうにはない?」
「・・・ない、百パーセントない」
島津さんが手をぶんぶん振るので僕たちは笑ったが、「でも、真実の愛かどうかはおいとくとしても、王子様がキスしてくれることだって実際にはないわけだから」と。
「まあ、お姫様じゃないもんね。どっちも非現実的」
「あり得ない、夢の世界」
僕は少しだけ引きつった笑いで否定も肯定も出来ず、そこへ黒井がまたふらりとやって来て、「なに、夢の話?」と。
「いえ、イケメンのキスか姉への愛かって話です」
「はあ?」
女性二人が何となくくすくす笑って別の話題に移ってしまうので、僕は「<アナと雪の女王>の話だよ」と説明した。
「え、イケメンのキスの話なの?」
「いや、別に、そうじゃなくて」
僕は当然昨日のキスのことを思い出していて、「詳しくは知らないよ」と濁し、<黒井>の隣に<山根>のハンコを押した。あれは真実の愛のキスだったの?なんて、訊けるわけもないんだし。
・・・・・・・・・・・・・・・
苦手なお客さんからさっさと済ませるべくスケジューリングし、今日はもう何も考えず、右から左へ、黙って仕事をすることにした。
どうせ頭はまだ上の空だ。
デフラグで勝手に最適化されるだろう。
早く帰ろうなどとは思わず、遅くまで残業すると思っていたら余裕を持っていろいろ出来て、むしろ想定より早く終わってしまった。明日の分と、今週の予定も詰めて、22時過ぎに会社を出た。
帰宅して、テーブルの上にやっぱり<深海>があって、突っ立ったまま一分ほど見つめた。
やっぱり、夜に見ると、吸い込まれそうだ。
僕は丁寧に一つずつ記事を読みたいけどまだもったいなくて、週末まで取っておくことにした。クローゼットの簡易本棚では高さが足りなくて、押入れにあのノートとともにしまっておいた。
火曜も何事もなく過ぎ、ミスやらいろいろあった先週(先週?・・・よく思い出せない)がまるで嘘みたいだ。
夕方、後ろで黒井と中山課長の声がして、どうやら有給の申請をしているようだった。中山自身が長い休みを取っていたこともあるのだろう、「はい、ゆっくり帰省してきて」とあっさり認められたみたいだった。
「どこだっけ、田舎?」
「いや、田舎じゃないけど・・・島根です」
「しまね・・・、砂丘?」
「それ、鳥取」
「はは・・・、あっそう。はいはい、どうせお盆はうちも暇だしね、ごゆっくり」
「どうも、お土産買ってきます」
はは、あいつ殊勝なこと言ってるな、なんて一人でこっそり笑ったけど、・・・ああ、お土産か。
同じ島根の土産を配るわけに、いか・・・ないよな。
有楽町とかにある地方のアンテナショップにでも行く?それとも、ショップが新しくなったらしい羽田空港土産?
いや、土産を配ったなら、まあどこ行ったのかって話になるよな。嘘をつくことも出来るけど、天気や地理なんかで辻褄が合わないとおかしいし、同郷の人に話を広げられても困るし、うん、偽のアリバイ作りも案外大変ってことか。
・・・別に、隠す必要もない?
いや、まあ、仲のいい同期の実家に一緒に行ったら即アヤシイって話にはならないだろうけど、でも、説明が面倒じゃないか。
っていうか、一日有給を取ったくらいでどうして土産なんて配らなきゃいけないんだ?まあ、中山のイタリア土産のチョコウエハースを僕だって食べたけど、もう、どこ行ったとか土産とか全部スルーでいいんじゃないか?誰が何日に休んでどこに行っていて何の土産を配ったかなんて、集計してるわけでもあるまいに、まったく余計なお世話だし個人情報だだ漏れじゃないか。
僕は一人で勝手に憤慨して、しかし、ちょっとだけ、盆休みに予定があり、友人の実家へ遊びに行くという意味でも、好きな人の母親に挨拶に行くという意味でも、充実した日々を過ごすのだということを自慢したい気持ちもあるようだった。
・・・・・・・・・・・・・・・
七月三十日、水曜日。
変わらない日常をこなし、19時前に帰途に着いた。
電車に揺られて、ようやく、頭が動き始める。
・・・あの、夜のこと。
二十八歳になったこと。<アトミク>のこと。再来週からの旅行のこと。
そして、黒井とのこと。
やるべきことはいくつかあるようだった。
深海に沈んで、向こう側へ行ってしまった<コペンハーゲン>を、拾い集めなくちゃならない。あの<ATOM>の、物理学者たちの第二次大戦の章を読んだのがきっかけで始まったそれを、自分なりにきちんと整理しなくては。
下手したら、今まで学んだ物理学の総ざらいになってしまうかも。
・・・分かっている。
本当はもう、僕も黒井も、脚本もどきを作ってみようなどという思いつきからは、遠く離れたところまで来てしまった。
それでも僕は、次元を越えてどこかへ行ってしまうのではなく、きちんとしたかった。
・・・しかし、どうにも、考えようとすると、すべてがぐちゃぐちゃに絡んで、芋づる式にすべてが出てきてしまう。
散らばった全てのピースが、それを入れている箱の形すらも相似形で、切り離して綺麗に分類できない感じがした。どれもこれも、似ているけれども違う、違うけれども似ている概念を内包していて、同じ土俵に乗ってくれない。
帰宅して、ノートや本を床に並べるけれども、まだ、どうにも出来ない。
・・・大きな紙と、ふせんがいる。
学校で使うような、大きな模造紙。・・・いや、紙なんかいらないか、もう、壁に直接ふせんを貼ろうか。
とにかくそんなもの徹夜仕事になってしまうから、何となくの輪郭をぼやかして見て、そこまでにした。
そして、一番上に乗っている<深海>のイカを見た。
何という名前だろうと調べると、最終ページにクレジットされていた。
・・・イカじゃなく、タコだった。そして、その後ろに一枚の紙が挟まれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・
<やまねこ 誕生日おめでとう
いつもオレのことばっかでごめん
これからもよろしく 黒>
それは、メッセージカードというほどでもない、ただの白い紙切れだった。薄い紙だから挟まったまま落ちて来なかったのか。
ボールペンでざっと書かれたそれを手に持って、僕は、唇を噛みしめた。
・・・何だよ。
いったい、何だって、いうんだ。
こんなの、どうしろってんだよ。俺なんかにこんなもの書いて、何のつもりなんだ。
これからも、だって?
これからっていつのこと?今後一生死ぬまでって意味でいい?
・・・嬉しい、って、こういうことなの?
だから、思ったんだよ。
ちょっとだけ、包装紙のテープが、緩いなって。
お前が読みたくなって先に読んだんじゃないかって、だからそう思ったんだ。
邪推してごめん。まさか、こんな紙をはさむために一度開けたなんて、思いもしないよ。
・・・こんなの、もらったことない。
僕の人生で唯一の、彼女がいた時期だって、その日はテスト中で特別なことは何もなかったんだ。
どうすりゃいいんだ、こんなもの今更見つけてしまって、お前に合わせる顔がない。
会ったとたんに泣き崩れて、土下座しそうだ。
ふらりとして、床にへたりこんだ。もう、無理。
だめだよ、携帯に手を伸ばして、ボタンを押すのを、自制できないほど。
やめろって、考えなしに電話なんかするんじゃない。何を言い出すか分からないぞ。
・・・呼び出し音が続き、留守電になった。
「・・・あ、えっと、俺、です。紙を、メッセージを、見ました。どうもありがとう・・・腰が、抜けました。・・・は、はは」
そこで時間切れ。なんて間抜けな留守電なんだろう。聞いたらすぐ消してくれるといい。いや、もう聞く前から消してくれ。どうしよう、もう、丸ごと好きだ。いや、好きだとかそういうレベルじゃない、もう、本当に、何から何まで、俺の、全てだ・・・。
うとうとしていたらメールが来て、一言<ばーか>と書いてあった。一瞬逆上して反論を考えるけど、いや、まあ、たしかにばかだからいいや。分かってくれて嬉しい。
目をつぶって歯を磨きながらスクワットをし、ふらついて二回尻もちをついた。あと二日だと言い聞かせて、寝た。
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