第235話:「コペンハーゲン」は上演中

「・・・んっ」

 重い袋を落としそうになり、必死に腹に押し付けて落下を防ぐ。意識が下にいったせいで思わず口が開き、そこから黒井の舌が滑り込んできた。

 目を閉じて、その長い舌が僕の舌を舐める。それから僕の舌が黒井の口にきゅうと吸い込まれていき、根元がぴりりと痛かった。思い出したように腹が透けて、アレがじんじんした。

 黒井の手が、頬から耳、右手は後頭部に回って、左手は首筋から肩、そして腕へ。

「うう・・・!」

 後ろから頭を押さえられ、一度離れかけた口がまた重なる。さっきよりきつく舌が吸い上げられて、肩を押して少し逃げたいけど、両手は使えない・・・。

 黒井の左手が、腕から、脇腹へ。あばらを強くつかんで、息が漏れる。それから唐突に動きは止まって、ゆっくり、唇は、離れた。

「・・・っ」

 思いきり下を向いて、肩で息をした。

 愛されたというよりは、お仕置きとか、折檻をされた感じ。

 舌の付け根はまだ痛かった。

「・・・俺も、選べなくて」

「・・・んん?」

 口を閉じたまま舌をかばって、「え?」とは発音できずに。

「それ。中身」

 言いながら、黒井は無造作に手の甲で口の周りを拭う。僕の右斜め後ろを向いて、何事もなかったかのように、淡々と。

「お前が喜ぶもの、わかんなくってさ。もう、俺だったら何が欲しいかなって考えて、・・・俺が欲しいもの、買った。はは、俺が欲しいならお前も欲しいってこともないのに、もう、俺が欲しいんだからいいやって」

「・・・」

 僕が袋を見つめていると、「いいよ、開けて」と。

 ガサガサいうビニールからそれを取り出すと、約三十センチ四方、厚みは三センチくらいの、エレガントな柄の包み紙。金色の<For You>というプレゼント用のシールとリボン。持つとしなる感じからして、中は箱とかではなく、本?

 後ろのテープを丁寧に剥がし、包装紙を綺麗に取り去ると、そこには黒地に<深海>の文字と、黒の背景に透ける、丸いイカのような生物。

 かわいいような、スターウォーズとかに出てくるエイリアンの顔のような。

 重たいそれをぱらぱらめくると、フルカラーの、解説付きの写真集、みたいだった。

「お前、まさかもう持ってないかって、こないだちらっと探したんだけど、ないみたいだから」

「・・・持って、ないよ」

「俺の好きな、おもしろい、生き物・・・いっぱい載ってるんだ」

「そうか」

「・・・どう?」

「・・・とっても、綺麗な、写真だ。どんなカメラで撮ってるんだろう」

「・・・ね、おめでとうったら。欲しいものじゃないだろうけど、ちょっとは喜んでよ」

「・・・そんな、とても、いいものだと思う」

「いいとか悪いとかじゃなくて」

「うん、何も分からない。俺には何が起こってるのか、何も分からないよ。これは、俺がこの写真集を手に持って、所有権を得たって意味?お前から譲渡されて、俺は、これを・・・」

「・・・」

「重い、よ」

「・・・何それ、俺のこと?」

「・・・え、違う、本が・・・俺は本の話を」

 僕はふと、本から目を上げて黒井の顔を見た。

 少し心配そうな、不安そうな、あるいは諦めたような顔。

 そうか、本の話じゃないのか。

 プレゼントとしてのこの本を評価しろと言ってるのではなく、ただ、黒井の行為が、・・・好意が、嬉しいかって訊いてるんだ。

「わ、わかんないよ。こんなことしてくれなくたって、俺は全然構わないって、思って・・・」

「・・・」

「・・・でも」

「ああわかった。お前はまた遅いんだ。忘れてた」

 黒井は少し笑って肩をすくめ、「ケーキ食べよ」とささやいた。



・・・・・・・・・・・・・・



 テーブルに<深海>とルームランプを置いて、暗い中コンビニの小さなデザートを食べ尽くし、シードルワインを飲みながらそれをめくった。黒井が早速一本飲み干して、片手でその瓶を持って最後の一滴を待っている。上を向いた、その喉とか、その後ネクタイをぐいと緩める仕草とか、そんなかっこよさとか色気とか、でもそんなものと同居している子どもみたいな感性。

「ね、潜水艦ってことにしようよ」

「え?」

「今、俺たち潜水艦に乗ってんの。で、こいつらを眺めてんだよ。たぶん<しんかい6500>とかってこの部屋より全然狭くてさ、ほんと、こんぐらいじゃないかな」

 少しだけとろんとした目で小さなテーブル周りを見遣る。ゴキュゴキュ、と二本目の蓋を開けて、またぐいと呷った。

「うん、で、どうすんの?こういう深海生物を捕獲して帰るの?俺が捕獲する係?それか、新種発見を目指してるとか?」

「・・・別に、そういうの特にないよ。ただ、潜って、見たら、いいじゃん」

「ああそうだね、わかった、ただ見よう」

「はは、お前、誕生日なのに折れた」

「別に、関係ないよ。誕生日だからわがままを通すとかそういう・・・」

「あれだ、お前、帽子屋。誕生しない364日を祝う、帽子屋」

「帽子屋?」

「キチガイお茶会のマッドハッター。アリスの」

「ああ・・・って、だから?」

「えーと、だから、お前今日は、一年で唯一祝わない日!」

 ネクタイを更にずるりとおろしてボタンも開けて、足も崩してぐんにゃり僕に寄りかかってくる。酔っ払いになりつつあるクロを支えつつ、僕はページをめくった。

「はいはい、ほら、乗組員なんだろ?うわあ、すごいな。これなんか、生物っていうよりUFOみたいだ」

「ああ、でも結構ちっちゃいんだよね。乗れるほど大きかったら楽しい」

「小さいの?うん、説明が載ってるかな・・・」

 見開き写真のクラゲは何だか、ロシアのツングースカにでも着地してそうな、UFO兼極秘の基地みたいに見えた。手前のページに解説があり、たった十センチとのこと。しかし、光を吸収する素材で出来ているというあたりは何だかそれらしいんじゃないだろうか。

「十センチだってさ。でも、知ってたの?そんな有名なクラゲ?」

「いや、別に。俺大体読んだからさ、そんなデカいクラゲって出てこない」

「あ、なんだ、先に読んでたのか。お前が欲しいもんなら先に貸そうかって・・・」

「違う、これ、俺んちにもあんの。別に、読みたいからって包み開けて先に見たわけじゃないよ!」

「え、いや、別に」

「あのね、この前買ったら、あの雷の、どしゃ降りにやられたんだよ!傘も鞄もなくてさ、せっかく買ったのに濡れてしなしなになっちゃってんの!しょうがないからまた買ったんだよこれ!」

「そ、そうか、それは、まあ」

 黒井はテーブルを叩いて笑い、二本目が空いた。僕は少し状況を整理して、つまり、今同じ本が二人の家にそれぞれあるってことだ。いや、確か<標準模型の宇宙>だってそうなんだけど、やっぱりこういう写真集だと眺める愉しみがあって、深夜の何とか通信を思い出す。黒井がふいに僕の肩に手をかけ、「ねえ、次!」と。その手のひらがあたたかくて、力強くて、僕は本当に、その肩にしがみついて何かを告げてしまいそうになるのを、深海生物への好奇心で必死に逸らすしかなかった。



・・・・・・・・・・・・・



 深海千メートルを過ぎるとそこは昼夜を問わず完全な暗闇であり、太陽光というものは一切届かないらしい。

 世界には白夜があり、その反対の<明けない夜>があり、そして僕たちの住めない場所には最初から最後まで夜しかない国もあったということか。

 そんな場所での生活は、どんなものだろう。

 朝起きて会社に行って仕事をして帰ってきて寝るという、そういう二十四時間とはかけ離れているんだろう。彼らの夜は永遠に明けず、っていうかそもそも昼という概念はなく、大地も星も雷雨もなく、彼らは暗闇で生まれて暗闇で死んでいく。それって、何億年前から?もしかして、何十億年?恐竜が闊歩して火山が噴火し隕石が落下し、シダ類から針葉樹になり、島が隆起し沈降し、でもそんなことは何の関係もない透明なホオズキイカやモンスターのような深海魚。

 沈むのは、上から下の、一方通行。

 深海魚は水面まで上がって来られない。水圧の圧迫が弱くなると風船のように膨らんでしまうから、境界のない海の中でも見えない結界がある。

 僕は<ブラックホール性がある>と殴り書きしたそれを思い出した。

 深海に落ちた情報は、取り出せない。

 見えない事象地平の内側からは、決して戻って来れない・・・。


 そんなことを拙く話すと、黒井はうんとかああとか言って、感じ入っているのか眠いのか、少し遠い目をしていた。

 やがてページに目を戻し、「あ、ねこ、これ見て」と。

「うん?」

 そのページの左右にはクラゲが載っていて、一つは上から見たところ、一つは横だった。

 解説は<影絵の劇場>と題され、僅かに太陽光が届く層での、その見え方について語られていた。つまり、下から見上げた時、昼間であれば彼らの体はさながらスクリーンに映る影絵ようになるわけだが、当然、そんな場に身を晒して捕食されるわけにはいかない。だから彼らは体を透明にし、発光して敵の目を眩ませ、偏光を利用して下からの攻撃を避ける。

 そのクラゲは、上から見ると暗いお椀のようだが(下から見てもそうなんだろう)、横から見ると、左右に見事な虹の光を持っていた。

「・・・深海のコペンハーゲンだ」

「うん」

 そして、そのクラゲの説明は、<宇宙のブラックホールのように>で始まっていた。

 暗いお椀に見えていたのは、漆黒のビロードのような、内側の傘のせいだった。その黒が、その体に届く全ての光を飲み込むのだという。反射率が異様に低い、つまり光は吸収されて外には出られない。

「ね、何かさ、深海と、量子力学と、ブラックホールが、繋がってくね」

「・・・うん、そう、みたいだ。っていうか、それ自体も、コペンハーゲン、だったり、するのかな。二次元と三次元で、円が球になるみたいに、水が温度によって氷になるみたいに、その三つも、同じものの、別の相なんだ。見え方も存在も違うものだけど、その真ん中にある本質は同じもので・・・」

 僕が更なる言葉を掻き集めていると、黒井は一息吸い込んでカチ、とランプを消し、僕に抱きついて後ろの布団へ押し倒した。さっきまでのオレンジの光が緑っぽい残像でチカチカし、何も見えなかった。

「・・・っ、クロ」

「ね、俺たちこのまま寝よう。きっと夢を見る、そのままあっちに行ける」

「・・・あっち、って」

 思わず熱い息を漏らし、心臓はどくどくと鳴っている。まだ言葉にはならないが、しかし、僕は確かに感じていた。

 お前が言ってるのは、<向こう側>のことだ。

 それは僕と同じではないけれど、でも、それは<コペンハーゲン>の中枢と同じ成分を含んでいる。

 だから、・・・だから、お前は<コペンハーゲン>という演劇に、そして物理に、惹かれた?

 そしてそれは、お前から何かを奪った、あるいは、お前はそれを得ようとして、大きな代償を払った・・・。

 演劇部で自分勝手に振る舞って仲間に嫌われた、なんて図式じゃ、なかったのか?

 別の角度から見たら、その出来事は、まったく違う画になる?

 わからない。そんなことはわからない。

「クロ・・・」

「うん」

「今、ここは、どこなんだろう」

「・・・俺たちは、深海に放り出されたんだ。この空間にはわけのわからない生き物がうようよしてて、俺たちは、そんな中で眠るんだよ」

「・・・そして、朝は来ない?」

「・・・ずっと、夜だ」

 僕はクロの腕に触れ、そこからたどって手首のあたりを握った。熱帯夜で、それはしっとりと湿っていた。

 今確かに、二人の向いている方向は同じで、別の表層だけど本質的には同じものを見ていて、そしてそれを、お互いに気づき、感じていると思った。

 今、世界でたぶん、お前とだけ分かち合っているこの、感じ。

 それを表現するキーワードが、深海や物理やコペンハーゲンに濃密に散らばっているという、そういうことだ。そして、僕たちは<コペンハーゲン>を作ろうとして、でも、本当の本物のそれは僕たち自身だった・・・。

 演劇なんか、しなくとも。

 僕たち自身の中にそれは体現されており、演目は既に上演されていた・・・。

「俺たちがコペンハーゲンだった」

「え?」

「お前が言う<あっち>って、俺の、俺の言葉で言う、<向こう側>なんだ。・・・意味が、分かる?」

「・・・さあ。でも、わかる」

「うん」

「ねえ、これのこと?お前の、中身とか、世界とか、強さって、そこにある・・・?」

「・・・うん」

「俺にも・・・あるってこと?」

「だからずっと、言ってる。あるよ、それは」

 黒井は僕の手を振り払って強く握り返し、「・・・怖くて、流されて、ちぎれそうだ」と、微かに震えた。

「お前は時間が流れてる。俺にはないから、静かで、立っていられる」

「・・・おれは」

 まさか、同じものの、別の面なのか。

 三次元は立体で、四次元時空には時間がある。

 <数学的に等価>という言葉が、僕たちのいる深海にゆらゆらと降ってきた。同じものを別視点から見ている別々の人間、じゃ、なくて、・・・俺たち自体が、同じモノの、別の側面・・・それが具現化した・・・生命という立方体?


 ・・・俺と、お前は、いったい何なの?


 しばらく待ったけど、黒井の言葉の続きはなかった。

 そして一言、黒井は小さく「一緒に、いて」とつぶやき、また手を強く握った。

 僕は、「でも、同じ人間になってしまわない限り、<それ>を共有することは永遠に出来ない」と、それは口には出さずに、ただ「わかった」と言って目を閉じた。

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