第234話:僕の誕生日

 七月二十二日、火曜日。

 連休でいろいろ飛んでいて、仕事って何だっけ、から始まったけど、すぐに慣れた。

 勤怠の確認をすると来月の有給に<承認>のマークがついていて一安心。カレンダーを眺め、ああ、どこかの土日で鞄や下着なんかを揃えに行かないと。チャンスはあと三週あるからまあ大丈夫だろう。

 なるべく一つずつ丁寧に慎重に、ちょっとしたことでも流さずに一呼吸置いて確認しながら仕事をした。あつものに懲りてなますをふく。ついていけそうな周りの話題に乗るのもやめて、無口に仕事をした。


 水曜日。

 やはり祝日があると早い。もうノー残で、あとは木、金頑張ればまた週末だ。黒井とやる筋書きのない脚本作りをぼんやりと考え、下心を抜きにしても、それを楽しみにしている自分がいた。何が出てくるか分からないドキドキを、僕は待ち望んでるみたいだった。

 ・・・でも。

 黒井と何かをするのを楽しみにするのは僕にとって当然であって、その内容が何であれ当たり前のことなのに、いや、だからこそ、少し驚いた。

 誰かと一緒に何かをするのを、楽しみにしてる、いや、楽しみに出来るなんて。

 胸が、少しどきんとした。

 今や、僕は、<コペンハーゲン>を一人で何とかしようとは思っていなかった。

 黒井のためにペースを合わせなきゃ、とか、結局は黒井のそれを取り戻す一端なのだから、とか、そういうの抜きに、一緒にやりたいと思っていた。

 ・・・っていうか、一緒にやることにこそ意味があり、いや、意味っていうか、やること自体が楽しい。それは一人じゃ出来ないし、効率よく、とかうまくまとめる、とかそんなの何の関係もなくて、二人の直感やひらめきがその時化学反応を起こして目の前にドン、ドン!と積まれていく、その過程が、瞬間が、貴重というか、醍醐味だった。

 ああ、もしかして、プロットっていうのはその後のパッケージングなのかな。

 ダイヤをどうカットするかで輝きが違ってきて、それが作品の良し悪しだって思ってるけど、本当はカットの前の、それを掘り当てる過程こそが醍醐味なのか。作り手にとってはまずその興奮や感動があり、第二弾としてそれを整える工程でその原石を一番輝かせるよう手腕を発揮する、って、あくまでその目安としてのプロット・グラフなのか。物語はグラフありきではないし、物語ありきですらなく、ただその手前の、ツルハシありきなのかもしれない。

 今は、ただそれを振り下ろすのを楽しめばいいのか。

 正直、こんなことをしてどうするんだろう、この道の先に、どんな荒削りであれ、一つの作品なんてものがあるとは思えない、と思っていた。それでも別に、本当に舞台をやるわけでなし、とりあえず今、黒井が何かに向かっている感じをつかめればそれでいい、なんて思っていた。

 でも、たとえ完成しなくても、形にならなくてもいいやっていう打算的な感情は、今は、なかった。

 ああ、ただ、やりたいだけだ。

 それが楽しいから、やりたいだけ。

 そこから何を取り出して、どう磨いて、どこへ持ってかなきゃなんない、って大まかな道筋はあるけど、それはあくまでそれとして、もう、だって、黒井に会ったらキスしたくなるようなもんだ。一人じゃ出来ないし、出来栄えとか、良し悪しなんてあるはずもない。

 ・・・手伝う、なんて言ったら、キレられたっけ。

 はは、お前がキスするのを手伝ってあげる、なんて、そりゃ文法と状況的におかしいよね。また、今更分かったみたい。一人でやるのは味気ないとか、寂しいとか手伝ってほしいとか、そんな問題じゃなかったんだ。


 僕はこの感覚を忘れないように、ただ自然にわきあがってきた<やりたいだけ>を形にして固定しておきたかったけど、ちゃんと思い出そうとすると今朝見た夢のように霧散してしまった。半透明の固形石鹸にマークや文字が鋭く彫ってある感じが好きで、そういう風にしておきたかったけど、そうはいかなかった。言語化するのではなく、感覚としてわかるものを、記録しておく術がないのだ。

 本当はこういう気づきは今までもたくさんあって、それらをきちんと分類して箱に入れたりファイリングしておきたいんだけど、いつもなかなかうまくいかない。一つ逃してしまうとコンプリート出来なかった、と諦めが出て、もういいやと思ってしまうのだった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 週末を楽しみにしていたのに、クロは連絡をくれなかった。

 さりげない文面でメールをしてみたけど、ちょっと濁すような返事が来ただけ。

 ・・・まあ、こないだ「ここで止めとく」と言っていたから、まだ再開する気分じゃないのかもしれない。そういう気持ちじゃないのに無理矢理やっても仕方ないし、締め切りに追われてるわけでもないんだから、気長に待つしかない。


 何となく喉に小骨が刺さったような感じが消えないまま、旅行の準備の買い物にも行かず、スーパーの衣料品売り場で三足千円の靴下を買うにとどめた。帰って、この間黒井が食べ残したカップアイスを食べた。暑かったから、美味しかった。

 

 日曜日の昼下がりからまたごろごろと遠くで雷が鳴り、寂しさがつのった。

 一瞬、今後一生こうなのだろうかと思い、カーテンを閉じてテレビをつけ、すぐ切った。何かの有料チャンネルを契約して、いつでも事件ものの海外ドラマが観れるようにしておくべきかもしれない。

 ・・・明日は、僕の、誕生日だ。

 カレンダーのその日付からも目を背ける。別に、見たくもない。

 結局、何かのきっかけもなく、自分から言い出すことはなかった。ただ過ぎ去るならそれはそれでいいと思う。恩着せがましく「明日は俺の誕生日なんだ」などと電話する気にはならないし、もちろん自分があげたからってプレゼントをもらいたいなどとは思っていない。

 月曜日、か。

 せめて水曜なら、一緒に帰ったついでにさりげなく言って、もしかしたら何か、とも思うけど、月曜日じゃどうにもならないだろう。

 黒井の誕生日には、次、自分の時は・・・なんて考えもしたけど、いざその日が近づいてみると、別に感慨深くもなく、何歳になるのか興味もなく、免許の更新で写真を撮る時みたいな気持ちだった。さっさと済ませて、変わるなら変わればいい。まじまじ見たくもないし、誰かに見られたくもない。

 夏休みが、始まるから。

 今となってはそんなものおぞましいけど、<お誕生日会>みたいなものが夏休み中に開かれることもなかった。友達からプレゼントをもらったことなんてない。誰かのところに呼ばれた時は、自分は買ってもらえないようなおもちゃをプレゼントに持たされたりして、嫌な気分だった。

 ・・・別に、一つ年をとろうがどうしようが、どうでもいいし。

 それが何月何日かなんて、なおさらどうでもいい。

 クロにだけは祝ってもらいたい気もするけど、でも、じゃあ今電話して知らせるのかといわれれば、電話に手は伸びなかった。

 まあ、月曜にそれとなく言えばいいか。

 わざわざ切り出すような時間があれば、だけど。

 長風呂して少しのぼせ、立ち眩みがした。本当に自分が何歳になるのか分からなくて、仕方なく西暦で計算した。それによると、明日僕は二十八歳になるらしかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 やることもないしそろそろ寝ようかと、何となくごろごろしていると、突然、玄関でドアがガチャガチャと鳴った。胃がぎゅうと浮き、一瞬で身体がこわばって冷や汗が出る。何だ、こんな夜中に、いったい何なんだ。

 どうするべきか考えをめぐらすが、結局、身体が動かないしもう少し様子を見るという結論。このまま何もなければいいが、などと適当な思考をして、いや、むしろ何もない方が気持ち悪いだろうと思い、立ち上がった。現状より悪い未来が待っているなら、足は動くんだ。

 静かに部屋のドアを開け、暗い玄関を見る。鍵だけはかかってるようだが、かすかにがさがさと、外に気配。隣人が一つドアを間違ったのだろうか?

 覗き穴を見るべくゆっくり部屋から踏み出すと、がさがさの音は止んで、ガリガリ、と鍵穴に何かが刺さる音。

 ・・・いや、何かって、鍵だろ。

 え、隣の部屋とあんまり変わんないの?

 鍵穴に、入るだけは、入っちゃうとか?

 ・・・ガチャリ。

 ・・・。

 鍵穴から何かが抜ける音。いや、だから、鍵だって。鍵が、今目の前で、開いたんだって。暗いから見えないが、いつもは横向きになってる鍵のつまみが回されて、今は、縦になっているわけだ。一人暮らしで、見たことのない光景と状況。

 恐怖で、鳥肌が立った。何が入って来るんだ。隣人か、宇宙人か。さすがに怖い。後ずさって、もう、開いた鍵を内側から静かに閉じるには、一歩遅いようだった。

 ドアが、スローモーションみたいにゆっくり、開いた。

 もうマンションの照明も落ちていて、ここからでは、見えない。

 ただ、暗闇に、人影。

 僕は何も言わず、ただ目だけ見開いて、瞬きもせずそれを見つめた。全身の感覚がない。ただ息をつめて見ていることしか出来ない。

「・・・そこにいる?」

 そう言って、がさがさと音をさせながら人間が入ってきて、ドアが閉じた。どうして自動センサーのライトじゃないんだろう。

「・・・クロ?」

「ぎゃああーーー!!」

「うわあああっ」

 後ろ手に閉めかかった部屋のドアにもたれて、それがバタンと閉じ、背中を打ってそのまま尻もちをついた。全身から汗が吹き出して、かあっと熱くなる。お願いだからおどかさないでくれ。幽霊でも生き霊でもいいから、ピンポンかノックをしてくれ!・・・いや、されて、自分で開けるのも怖いけど!

「ちょ、お前、何でそんなとこに無言で突っ立ってんだよ!怖いよ!怖いよ!!」

「こ、怖いのはお前だよ。な、何でこんな夜中に突然来るんだよ、っていうかどうやって入って来たんだよ!」

「か、鍵!合鍵!」

「・・・あ、そ、そうか。渡したままだったか。っていうか、何、何しに、来たんだ」

 黒井が玄関の電気をつけたので、ようやくその姿が見えた。

 クロはスーツ姿で、ドアにもたれて、へたっていた。あのプラムのネクタイに、長袖の白いYシャツの腕をまくって。いつもはノーネクタイなのに、どうしたんだろう。

「え、何、もう会社行くの?夜行便?」

「は?・・・馬鹿、死ね!」

「え、違うの?何だよ」

「あ、そうだ、こんなことしてる場合じゃ・・・」

 黒井は鞄に手を突っ込んでスマホを出すと、何かいじった。僕はようやく体を起こし、立ち上がって額の汗をぬぐった。

「え、何、何なの?っていうか、もう、何なの・・・」

 もう一度安堵の波がやってきて、全身の皮膚が熱くなったり、身震いが出たりした。それからようやく通常の思考が帰ってきて、クロが来たことを喜ぼうと提案したけど、まだぼうっとしていて無理だった。

「お、おいちょっと早く、こっち来て!」

「え?」

「は、早く早く!ああ、もう!」

 黒井は靴を脱ごうとして、強引に脱ぐか土足でこちらに来るかで迷い、結局手招きして僕を呼び寄せた。

「え、何?」

「これ!」

 よたよたと玄関まで歩くと、黒井は水戸黄門みたいにスマホを僕の前にかざした。一瞬何かまずいものがネットに流れたりしたのかと冷や冷やしたが、それは、ただの待ち受け画面だった。

「な、何?どれ?」

 首を突き出し、眼鏡がないから眉根を寄せてスマホを覗き込む僕の頭を、パシっと黒井がはたいた。

「いて、何すんだよ!」

「馬鹿、ほんと嫌だ、恥ずかしくないの?」

「は?何が?何を言ってんの?」

「もういい?」

「だから何が?」

 黒井はスマホを自分で見て、今度は警察手帳みたいに顔の横に掲げ、すうと息を吸い、「ハッピバースデートゥーユー!」と棒読みで投げやりに歌った。

「・・・え」

 思考が、止まる。

「ちゃんとゼロ時ゼロゼロ分過ぎた。これで満足?」

「え、な、なんで・・・」

「俺に言わないつもりだった?来年までこのままサバ読む気だった?」

「・・・は?あの」

 頭はついていかなくて、目の前にいるのが黒井彰彦で、その顔で喋っているということだけ認識した。

「すっとぼけるのもいい加減にしてくれる?」

「・・・え」

「今日誕生日でしょ?知ってんだよ俺」

「・・・そ、そうなの?でも、何で・・・」

「もうずっと前から知ってんの。俺、人事にいた時こっそり見たから、知ってんの!分かった?」

「え、えっと、じゃあ、お前は・・・」

 僕はかがんで靴を脱ぐ黒井をぼんやり眺め、言ってる意味はよく分からないまま、靴を脱ぐということは部屋に入ってくるということか、それならお茶でも出さなきゃいけないし、スーツなら一晩中起きているということか、などと考えた。

「ねえ、俺、その神経がわかんないよ。俺にはプレゼントあげといて、自分はどうする気だったの?今日の今日言われたってプレゼントなんか用意できないじゃん。自分は選ぶのに悩んだとか言っといて、人のことは考えないわけ?」

「・・・え、その、えっと、・・・ごめん」

「二十八歳の誕生日、おめでとう!!」

 黒井は半分怒鳴って鞄から袋を取り出し、僕に押し付けた。受け取るとそれはずっしり重くて、平たくて大きな四角い何かだった。

 ・・・。

「何とか言ってよ」

「・・・あ、ありが、とう」

「違うよ、さっき言ったこと。俺に言わないで、どうするつもりだったの?」

「ど、どうって、別に・・・」

「別に?」

「べ、別に、・・・俺の誕生日が来たからって、何も、変わんないし」

「・・・え?」

「いや、わざわざ言うのも、その、何か恩着せがましいし、別に、過ぎたら過ぎたで、いいやって・・・」

「・・・ふうん」

「・・・ごめん」

「別に、最初はただ、俺だけ知ってるから何かしておどろかしてやろうなんて単純に考えてたんだけど、でもだんだん、あれ、俺言われたっけな、もしかして違ったかなって・・・。ねえ、どうしてお前ってそんなに水くさいの?俺に教えないで、世界中で他に誰がお前の誕生日知ってんの?」

「・・・」

 黒井は僕の肩をつかんで力なく揺さぶり、「・・・あの女の子?」と小さくつぶやいた。女の子?ああ、藤井のことか。

 僕は首を横に振り、「・・・誰も」と返した。別に、誕生日がどうしたんだよ。そんなの、どんな特別な一日でもないし、むしろ、祝われるべきだっていう固定観念がおかしいんだよ。

「・・・俺、プレゼント、持って来たよ」

「・・・うん」

「嬉しい?」

「・・・どうだろう、もらったこともないし、よく、わかんない・・・」

 本当は嬉しいはずだけど、口が勝手にそんなことを言った。もし僕が黒井を恋愛対象として見てなくて、ごくふつうのパートナーだったら、多分そう思うと思う。

「人が、嫌いなの?俺も邪魔?」

「・・・いや」

「どうしてそんなに、そう、なんだよ!お前、いっつもそうやってうつむいて、ほっといてくれって顔・・・」

 だって、しょうがない。だってしょうがないんだ、そうなんだから。

 ・・・ほっといてくれる?

「こっち、向けって」

「・・・」

「・・・っ!」

 ぐいと両手で頬を持って上向かされて、思わず目を背けたら、黒井にキスされた。

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