第238話:真夜中の電話
今までに読んだ本をリストアップするべくノートとふせんを広げていると、黒井から電話。
「・・・もしもし」
「あ、ねこ?ね、また続きやらない?」
「・・・え、う、うん」
「俺、またスケッチブックに絵描きたいなあ」
「・・・うん、じゃあ、どうしようか」
「今からそっち行く?」
「え、今?」
「あ、何か予定あんの?」
「・・・予定、ってわけじゃ、ないけど」
「けど、なに?」
「・・・うん、ちょっと、一人でやることがあって」
「俺がいたら邪魔?」
「いや、そうじゃ、ないけど」
「あ、何かイケナイこと?」
「ち、違うよ」
「・・・そう。わかった、ごめん」
「いや、じゃあ明日にでも・・・」
ツー、ツー、ツー。
・・・・・・・・・・・・・
断り方は、小学生から変わらない。
「一人でやることがあるから」。
でも、この言い方では「それって何?」「いつ終わる?」「みんなで出来ない?」って返されてしまって、うまくないんだよな。まあ、小学生から変わらない伝統がある、というより、何かの気まぐれで熱心に誘われたのは小学生までだってだけ。それからは、誘われるのは人数合わせの時だけで、みんなそんなKYなこともしなくなったからね。
つい、出ちゃったんだ。
黒井の誘いを断るだなんて、でも正直、今この作業を中断したら僕はタイムシフト再生の<今>に追いつけなくなってしまう気がした。ようやくあの夜までたどりついたんだ。でもまだ残ってるんだ。お前だって言ってくれたじゃないか、「ああ、またお前は遅いんだ」って。
だから、ごめん。
・・・ごめん。
今のお前より過去を優先してごめん。怒らせたのに、それでも優先順位を変えなくてごめん。失望して、苛立ってるだろうに、謝罪のメール一つ打たなくてごめん。
・・・この世界でお前しかいないって思ったそばからこれで、ごめん。
僕は何も考えられない頭で、機械的に本のタイトルのリストアップを続けた。これをうっちゃってお前とコペンハーゲンをやったって、でも、だめなんだ。今までのことを整理しないと、シンクに洗い物が残ったまま次の料理なんて出来ない。お前がここに来て、またスケッチして刺激的な何かを見せてくれたって、「へえ、おもしろいね」しか言えない自分なら、会えない。刃を研いでいない役立たずの俺を見せられない。
だから、仕方ないんだ。
せっかくのチャンスをふいにして、お前の期待に応えられなくて、運命の相手だと言いながらふせんのリストアップを優先しなきゃ進めない、でもそれはすべて自分の責任だ。これを回避するというなら、人生最初からやり直さなきゃならない。
僕はコーヒーを淹れ直して半ば義務的に作業を続けた。タイトルが分からないものはネットで調べ、しかしその途中で、外国の有名メダリストが同性愛をカミングアウトなんて記事をつい見てしまい、それに対するコメント欄を、読まなきゃいいのに読みあさってしまう。
いわく、人に迷惑をかけなければ自由。
いわく、差別はしないが、生理的に気持ち悪い。
いわく、ゲイのやつは性欲が強いから公園や外でやりまくるし、子どもが出来る心配がないからコンドームをつけず、不特定多数とセックスしてエイズを広めてる、と。
・・・そう、ですか。
結局どこにも出さない論理的反駁を、いちいち刺激に対する反応として反射的に繰り返しながら、別に確固とした独自の意見があるわけでもなく、翻弄されてエネルギーを消耗して終わった。面と向かって言われれば意見もしようが、ただの<コメント>というか、つぶやきに近いそれに振り回されて、ご苦労なことだ。
っていうか、ほとんどが机上の空論だ。この日本で、犬も歩けばなんて頻度でそんな人にお目にかかることはない。新宿の地下通路で手を繋いでいる男二人なんかいない。・・・いや、まさかみんな隠してるだけなの?同僚の男を好きになるなんて日常茶飯事なの?
自分の立ち位置について何の結論も納得もないままパソコンを閉じ、それでもやはり、お前のお母さんにはおくびにもそんなこと出せないな、とそれだけは思った。お前がそんなだから、ついそういう、何ていうか、性に対して大らかというか、オープンで無頓着というイメージが勝手にあったけど、もしかしたらにおわせただけでも絶縁くらいの勢いの人だって、いるわけだ。
・・・また、キスしてくれたのが、嬉しかったから。
あんなに舌を吸ったのは「いい加減理屈ばっかでうるさい!」ってことだったとしても、それでも、僕とのオーラル・コミュニケーションに嫌悪感がないってだけでも、その・・・。
・・・ああ、キス、されたんだ。
うるさいな、俺は遅いんだよ。
こんなことも、今更なんだよ。
俺の誕生日の、日付が変わる瞬間に来てくれて、自分が欲しい写真集を綺麗なラッピングで俺にくれて、メッセージまでつけてくれて、っていうか、そもそも何で誕生日を知ってたんだ・・・。人事にいたとき調べたって、何年も前から知ってるって、しかしいったい何のために?
・・・。
あ、相性占いでも、したかった?
拳を頭に、隕石が降ってくるような角度でごつんと当てた。馬鹿かお前は。
ふせん作業の最後はもちろん<深海>で、僕はもう一度そのメッセージを読み返し、自分が誕生日にプレゼントをもらったという事実をようやく胸に刻みつけて、まるで金メダルかノーベル賞でももらったくらい誇り高い気持ちになった。そしてしばらく<深海>を抱いた後、ページをめくって続きを読んだ。<ATOM>と違って、これはお前の家にもあるから遠慮なく読めるんだ。
前、深海魚とかも好きだって、言ってたっけ。
どんなのが好きなのかな。このグロテスクなモンスターみたいなやつ?それとも目玉ばっか大きすぎる、この素っ頓狂なやつ?
「え、このアンコウのオス、メスにひっついて同化して人生が終わるの?」
黒井なら「そうだよ、知らなかった?結構かわいそうっていうか、逆に、本望?」なんて笑うかな。
僕は勝手に脳内の黒井と会話しながら潜水艇で深海を進み、そのうち布団にうつぶせで読み、まあ、やがて、ふわふわと気持ちがよくなって昼寝をした。「クロ、ありがと・・・」とつぶやいて、眠りに落ちた。
・・・・・・・・・・・・・
夕方、鶏肉を焼いて塩胡椒とレモン汁で食べ、黒井に謝るべく電話した。怒っているのかどこかへ行っているのか出ないので、また留守電に入れた。
「俺、です。さっきはごめん。どうしてもやってしまいたいことがあって、その、明日ではだめだろうか。えっと、それから、・・・今更だけど、誕生日、祝ってくれてどうもありがとう。きちんとお礼を言ってなくて、また、遅くて、悪かった。あとそれから・・・」
十四日からの件を確認したかったけど、ここで時間切れ。
そして。
まだ機嫌直らないのかな、なんて考えて、やっぱり気づくのが遅い。
どうして、あんな風に怒った?
「わかった、ごめん」の声は硬くて冷たくて、たぶんあの後、僕の声を聞くこともなく切ったんだろう。
まず自分の理屈と整理と言い訳が優先で、お前のその場の感情は無視。そして後からひょっこり思い出したように気づいて、こんなものがあったのかと引き出しから拾い上げ、ようやく机に広げる・・・。
・・・何で、その場で気づかないのかなあ。
今の留守電だって、ただ「さっきはごめん」って、何の解決にもならない一言だ。どうしてまず相手を思い遣る一言が出ないんだ。ただの「ごめん」じゃなく「お前はあの時すぐやりたかっただろうに、俺のせいで出来なくてごめん」にならないんだ?それで自分は満足して、誕生日が嬉しかったことにさっさと移って、しかもそれだって一週間も前の話であって、いや、これは、ちょっとだめだ。男か女かとか関係なく、こんな人とは親しいお付き合いをしたくない・・・。
・・・・・・・・・・・・・・
結局部屋の掃除や、洗濯やゴミ捨てをして、風呂に入って寝た。
夢を、見ていた。
地震が、あって・・・。
ああ、夢じゃない、本当に地震なんだ。だって携帯の緊急速報が鳴ってる・・・。
ボタンを押して音を止め、再び寝ていたら何かくぐもった声がしてぎょっとした。なに、ラジオまで勝手についた?ラジオ持ってないけど、コンポか?
「・・・ーい、もしもし?」
何だろう、生き埋めにされた人?
「ねこー?」
あ、電話か。
「は、はい・・・もしもし」
「寝てた?」
「う、うん」
「今、寝てたの?」
「・・・ごめん」
「夢、見てた?」
「・・・うん。地震、じしんあった?ゆめ?」
「地震?別にないよ。夢だよ」
「・・・そっか」
「地震があってどうしたの?」
「え、あの、男の子が死んで、ああ、あれ外国か。日本人のクラスだけど、それから、スタジアムで、芸能人が、震源から一キロで・・・」
「・・・死んだのは男の子だけなの?でかい地震じゃなかったの?」
「え・・・そんなにでかくなくて、死んだのは一人だけ」
「えっ、なんで?」
「・・・何でって、確かに、何でだろう。直接の死因はわからないな。行方不明になって、みんなで捜してたんだけど、結局死体で発見されたんだろうな」
「・・・どんな子?知ってる子?」
「いや、全然。あのクラスも、あの女の子も知らない」
「女の子?」
「うん、何か、行方不明の時のインタビューの、印象的なコメントで一躍有名になって、その子の、勉強のメソッドのドリルまで出るんだよね。担任もさ、男の子の訃報そっちのけでそれをテレビで宣伝しちゃってさ、まあそりゃ生きてる子の活躍の方が、死んだ子のことで暗くなってるより、いいとは思うけどさ」
「その、男の子、どんな子だった?」
「え?・・・さあ、印象が薄くて、思い出せないな。何となく、素朴で優しい子でした、みたいな。遺影があったかな、あれ、それは前の夢か?」
「前の夢?」
「えーっと・・・、ほら、幼稚園児の連続じゃない殺人事件の、被害者。子どもが大人に殺されるのを止めることはできないし、って、俺もしょうがないかって諦めたんだけど」
「それ、前、お前の誕生日の時言ってた、殺人事件の夢?」
「・・・え、っと、たぶん」
「同じ男の子なの?」
「え?・・・別に、そんなことないと思うよ。前のは園児で、さっきのは小学生だ。・・・でもまあ、印象は似てる、かな」
「どんな?」
「え、だから、何か素朴で、っていうのはまあマスコミ向けでさ、要するにどんくさそうっていうか、オツムが少し足りないのにニコニコしてるっていうか、殺されて、ひどい侮辱受けてるのに分かってないっていうか」
「・・・犯人、は?」
「さあ。園児のは、とにかく大人だよね。まあたぶん男。地震のは、わかんない。でも殺人じゃなくて、まあ不幸な事故だろうね」
「親は悲しんでた?」
「・・・親、は、出てこないな。前のは、その幼稚園の保護者連中がガヤガヤ言ったけど、あいつら本当の理由なんて分かってないんだ。今回のは、担任とその女の子だけしか」
「お前は、かわいそうだと思った?」
「・・・さあ、どうかな。特に何とも。死んだのはしょうがないかな。後の対応が、ちょっと誠意がなくてひどいけど、まあ死人には誠意とか関係ないし」
「・・・そっか」
「っていうか、ごめん、俺のことばっか長々話した。えっと、誰、なんだっけ」
「俺、クロだよ。ねこ、寝ぼけてる?」
「・・・クロか。そっか、それで、何だっけ」
「何かさ、その死んだ男の子って、お前なんじゃない?」
「・・・え?」
「ほら、前言ってたじゃん。死神のキーワードでも、直接死ぬだけの意味じゃないって。その無邪気な男の子って、本当のお前、っていうか、押し殺してる、お前の中の子どもみたいなお前なんじゃない?」
「・・・は?」
「お前いつも、謝ってばっかじゃん。悪くないのに、っていうか俺のワガママってだけなのに、留守電だって、ごめんとかありがとうばっか。俺、そういう礼儀ってか挨拶みたいの、いらないからさ。言いたいこと、本当はあるんじゃないの?うっさいなあ、ほっとけよって、怒鳴りたいんじゃないの?」
「・・・お、俺が、なにを、・・・なんだって?」
「俺の分析なんかあてずっぽうかもしんないけど、考えてみてよ」
「う、うん?」
「・・・電話、突然切ったりして悪かったなって、そしたら留守電で謝られてさ、何か、逆ギレだよ。他人行儀っていうか、なに、もっとふつうに喋れないの?もう、いいじゃん、俺じゃん!」
「は?な、なにが?」
「単なる友達じゃないんだから、本音で言えって言ってんの。いつまでも線引いてないでさ、嬉しいだの楽しいだの、嫌だのやりたくないだの、まあ、突然爆発すんのもおもしろいけどさ、いい加減ふつうに言ってよ。ねえ、俺何か変なこと言ってる?」
「い、いや、変ではない。正しいと思う」
「あっそう!じゃ、その正しさに従ってよね!」
「は、はい」
「分かった?じゃあね!・・・もう何か、・・・はあ、笑っちゃう。おやすみバイバイ!」
「はい、どうも、失礼します・・・」
ツー、ツー、ツー。
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