第346話:膝枕で毛繕い
ずっと、勝手に憧れていた、外国風のお洒落なシャンプーボトル。
それは確かに外国製ではあったけど、つまりは、元美容師である黒井の母親が取り寄せてくれた、ハゲに・・・いや、脱毛症にもいいという業務用シャンプーだった。
市販品ではないから、ドラッグストアで似たのを探したけど、どうりでないわけだ。
何だか、先入観はあてにならないんだなと思った。蓋を開けてみれば全然違うものが入っている。まさか、イケメンの家のお洒落シャンプーがハゲ予防とは思わない。
無色透明のシャンプー液をたどたどしく泡立てながら、両手で髪と地肌を洗う。今までこういう角度から見たことがなくて、黒い塊の下の方からくぐもった声がするけど、これがクロなのか。
「全然もっと、がしがしやって!」
「いや、だって、加減が分かんないよ。っていうか、俺流すから、洗うのは自分でやって・・・」
「それじゃ意味ないじゃん。お前に見てもらって、洗ってもらうんだってば」
「・・・うう、わ、分かったよ」
湯船からさらに身を乗り出して、頭を突き出してくる。何とか爪を立てずに指の腹で洗おうとするけど、位置と角度がうまくないし、だんだんその耳が赤くなってきて、のぼせるんじゃないかと焦る。しかもうっかりすると、素肌の腕や首筋や背中に目をやってしまいそうになるし・・・。
ああ、もう、首ごと引っこ抜いて、どっかに挿し込んで固定して好きなように洗えたらいいのに。
何とか全体を洗って、別に、地肌が白く見えているところも特になかった。
「じゃあ、流すから」
「ハゲは?」
「ないよ、大丈夫」
「・・・ん」
「もうちょっと下、向いて」
「うん」
右手にシャワーヘッドを持ち、左手で髪をすすぐ。いやちょっとこれ、中腰で、もう諦めたくなるほどやりにくい。着ているTシャツとトランクスはびしょびしょでシャンプーの泡も飛び散っていて、すぐ脱いで洗濯するから関係ないと思っても、つい気になってしまう。あっちからこっちからシャワーを向けて、つい自分に全部かかると、作業服だと思っても何だか許せない。
いっそ、脱ぐか?
いや、上はまだしも、下は無理。
そんなもの見られながら洗うとか、無理。
仕方なくもう床に膝をついて、すすぎの泡だらけの水を全部股間に受けて、濡れた布と落ちてくる水の圧力という変な刺激の中で頑張るしかない。いったい何なんだもう。
・・・・・・・・・・・・・・
それからリンスに移って、これが終わったら僕が入れ替わりで湯船に浸かり、黒井は体を洗って先に出ることになった。
でも、黒井のように目の前でパンツを下ろすことなんて出来ないから、むこうを向いててもらって・・・でもそうすると、裸の僕と、裸の黒井が、ここですれ違うことになる。
・・・何だか、それはまずい。
いや、いやいや。
そう思ったら余計に、その場面を想像して、勝手に反応が起こる。
リンスでぬるぬるしたお湯が、べったりと張りついているパンツにどぼどぼ落ちてくる。すすぐ動きで僕のそれが少し、擦れる。そして布一枚隔てて、すぐそこに黒井の顔がある・・・。
・・・勃ってきた。
まずい。
心臓がどくんと鳴り、もうシャワーを水にしてかぶりたいけど、そうもいかない。
どうしよう、どうする?濡れたまま風呂場から出るか?
それともパンツを履いたまま湯船に浸かる?
・・・それが、いいか。シャンプーまみれだけど、黒井はもう出るんだから湯が汚れたって関係ないし、僕がしばらく我慢すればいいだけ。
何とかリンスのすすぎが終わり、シャワーを止めた。
そそくさと後ろを向いて、黒井が出てくるのを待つ。そうしたらさっと湯船に入ってしまって、Tシャツもそこで脱ごう。
「・・・ねこ?」
「う、うん?」
「あの・・・」
洗ってくれて、さんきゅ、と言って、黒井が湯船からざばっと出た。
背後に、熱気と大きな質量を感じる。
ふいに、肩に手がかかり、それから僕の背中に、熱い身体がしなだれかかってきた。
「えっ、ちょ、クロ・・・」
すると、「やば・・・立ち、くらみ」とか細い声。
「お、お前、のぼせたんだろ。大丈夫か」
「ちょっと、このまま・・・」
黒井はじっとして大きくゆっくり息をつき、僕は、肩に乗せられた手に、そっと自分の手のひらを重ねた。
僕は、どこかに座らせるとか水を持ってくるとか、何とかしなきゃと思いつつ、でも身体はまったく動かなくて、・・・もし風呂場で事に及んだら、イった直後の黒井はこんな感じなんだろうかと想像し、前はさらに硬くなった。
思わず重ねた手の指を絡めてぎゅっと握り、指先で、その濡れた手の甲をなぞる。
どうしてこんなに、変な気持ちになっちゃってるんだ。
・・・・・・・・・・・・・・
立ちくらみがおさまると黒井はそのまま風呂場から出ていき、バスタオルを巻いて、後はベッドにどさっと倒れ込む音がした。
・・・まあ、朝から飲まず食わずで何時間も雨に打たれた挙句、熱い湯に浸かったまま頭を洗って風呂から出たら、こうなるだろう。
それから僕も風呂を済ませて上がり、ああ、着替えがない。
しかし腰にタオルを巻いて部屋に入ると、何と着替え一式が用意されていた。もうトレーナーの寝間着はないらしく、ふつうのTシャツにパーカー、ストレッチのやわらかいジーパン・・・そして黒井のボクサーパンツ。
・・・本人は、疲れたのか、ベッドで寝ている。
僕はクロを起こさないよう、ありがたく服を着てまずは家事に励んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
あちこち雫が垂れた床を拭いてまわり、米を炊き、洗濯をして、その間にさっとまた風呂を洗うと、思い出したように歯を磨いて、あとは家全体の片づけ。
玄関にゴミ袋をまとめ、冷蔵庫をチェックして、うん、ウインナーと賞味期限二日切れの卵でチャーハンにするしかない。そこにカップ麺をつけて、夕飯は・・・買い物に出るか。
クロを起こしにいくと、濡れ髪のままバスタオルを枕に寝ていて、こっちは長袖Tシャツに短パン姿。まあ、そう何セットも寝間着があるわけじゃないよね。
「クロ、チャーハン作ったよ。少し食わないと」
「・・・ん、食う。何か寒い」
「そりゃそうだよ、お前、髪もそのまんまで。今からカップ麺作るから、乾かしちゃえば」
「やだ。・・・お前にやってもらう」
「え、ええ?」
「いーんだよ、今日はお前、俺の髪の当番!」
「はあ?何だよ、まったく・・・」
・・・。
とりあえず食事を用意しながら、そんなのうまく出来ない・・・と思いつつ、僕は内心、喜んでもいた。
どうしてだろう、妙に、その身体に触れたい。
それは、きっと・・・頼られたいから、か。
・・・あんな電話があったから、やっぱり独占欲がうずいているのか。
でもそれ以上に、何だか、・・・庇護欲をくすぐられた?
黒井の精神状態を少し客観的に見て、・・・そして、ハゲの話まで聞いて、どうも、突き放したり焚きつけたりせずに、きちんと支えてやらなければという気がしてきている。
いや、まあ、今までは僕の存在自体が<突き放したり焚きつけたり>になってしまっていたのかもしれないけど、これからはそうじゃなく、ちゃんと・・・。
・・・いや。
欺瞞、か。
あらためて、僕と黒井の、社会的に見ればやや歪んだ依存関係みたいなものを感じて・・・それでも僕はここにいたいし今までどおり必要とされたくて、だから今度はちゃんとするんだって、必死な心境みたいだ。
・・・それこそが、精神科医と患者の間に起きるっていう、転移の恋愛感情なのかもしれないけど。
「ほら、出来たよ」
ベッドの上で起き上がり、半分布団に入ったまま壁に寄りかかる黒井に皿を手渡すと、「へへ、うまそ」と僕のチャーハンをほおばった。スプーンがその口に入って、僕の作ったものを噛んで、飲み込んでいく。皿の上が減っていく度、僕は満足を感じた。
・・・カップ麺は、僕の料理でもないし、こぼすといけないから、僕が食べよう。
ろくに具もないチャーハンで悪いけど、夕飯はもっとちゃんと作るから。
・・・・・・・・・・・・・・・
小さめのドライヤーはガーガーとうるさくて、ここのうちにもナノイーのドライヤーを買わないと、と思った。
でも、音がうるさいくらいの方が、今はいい。
僕の、興奮している心臓の音や、ゴクリと唾を飲みこむ音も、聞かれなくて済む。
・・・。
ベッドの上の僕の、片足だけあぐらをかいた太ももに、黒井の頭。
つまり・・・膝枕だ。
僕の方に短パンを用意してくれればよかったのに。
いや、だめかな。
「ほら、反対」
「ん」
むこう向きに寝ていた黒井が、ごそごそとこちらを向く。ジーパンがじんわりと湿って温かい。
・・・目が合って、何となく後ろめたくて、すぐ温風を再開するとその目が閉じた。
濡れ髪に手を入れて、さわさわと揺らしながら梳いていく。
そうして髪に触れていると、急に黒井のお母さんのことが浮かんだ。
そういえばあのお盆旅行で、部屋で花火をしたのだって、十分「奇行」だった。
あの時お母さんはすごく慌てていて、僕だってそれがごく普通の反応だと思った・・・けど、少し過剰なような気もした。でもそれが「部屋で花火なんて非常識!」という批難ではなく、「こっちが火事の心配をしておかないと・・・本当に危ない」という実務的な危機管理なのだとしたら、うなずける。・・・実際、僕たちがやったあの<本番>で、黒井は段ボールとシーツの簡易ベッドの上でろうそくを使い、僕が軽いやけどをしながらそれが倒れるのを食い止めたんだ。
つまり、演劇部以前だって元々黒井はそんな感じであり、控えめに言って、お母さんは黒井を育てるのにだいぶ苦労したんじゃないか。
黒井が求める<それ>があってもなくても、たぶん、物事に対するリミッターがあまりなくて、・・・ああ、高校時代にセフレが三人、金髪ピアスにドイツ留学というのもしかし、思春期にしてよくぎりぎり現実的な枠に収まっていたなとすら思えた。
そしてあらためて考えると、お母さんは、ふいに現れた黒井のサポート役のような僕の存在を、心強く感じたかもしれないと思った。
いや、でも、違うか。
「やまねこさん」は黒井の奔放さに引き寄せられておっかなびっくり奇行に付き合う地味な友人にしか見えなかっただろうし、そんな男に黒井を預けるのは、まあ、僕でも躊躇する。
そしてその後、電話で黒井に「お付き合いしてるの?」と訊いたのも、そして「付き合ってるよ」と返されてそれ以上何も言わなかったのも、・・・何となく、分かるような気がした。
僕が、男だということ、黒井なら男の僕だって抱いてしまってもおかしくないこと・・・そのくらいはお母さんの想定の範囲内だったのかも。ただそれでもせめて僕たちが何か別の一線を越えてしまってはいないか、この関係性がどちらかの人生を破壊してしまってはいないか、そのことをそれとなく確かめたかったんじゃないだろうか・・・。
髪を乾かし終えると、黒井は、僕の膝ですやすやと眠っていた。
僕はひとり微笑んで、そのサラサラの髪を飽かずに梳かし続けた。
・・・・・・・・・・・・・・
何十分、そうしているだろう。
足が、痺れている。
洗濯物も干さなきゃいけないし、夕飯の買い物にも出なきゃならない。
だけど、だんだんと外が薄暗くなっても、僕はクロの髪を撫で続けた。奥まで指を入れて、はは、たとえツルツルの地肌に触れたって、失望なんかしないよ。
うつ伏せ気味で寝顔は見えないし、その耳に口づけたくても、そこまで体が屈められない。
・・・何だか、反動だ。
黒井のことを客観的に見て、少し遠く感じてしまったせいで、僕の方こそ、揺り戻しがきている。
今の僕はきっと、屋上で濡れていた黒井と同じだ。
まだたったの一年も一緒にいなくて、それまでの二十九年を知らなくて、手に入れることは出来ない「黒井の全部」を求めている。
きっと、同じ表情をしてるんだろう。
たぶんこれは、僕たちの精神状態としてあまりいい傾向ではない。ああ、黒井が言う「現実でいい、日常でいい」がきっと正解だ。今ならちょっと、その意味がよく分かった。
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