第7話:好きって何よ。あはは。
黒井は、鈴木が買ったらしいミネラルウォーターを握って、さっきと同じようにベンチでうなだれていた。
僕も、鈴木を見習って、かがんで目線を合わせて声をかける。
「おい、もう終わったからな。今解散した」
「あ、やまねこ?」
「うん。安心していいぞ」
「俺、バスで帰る・・・んだっけ」
さっきより少し声が安定して落ち着いたようだが、少しまどろんでいたせいか、寝ぼけと酔いが混ざっている。確かにこれでは、タクシーに放り込んでも家まで着けるかは微妙だ。
「タクシーで帰るんだよ。送ってやるから」
「・・・え、いいよ、電車で帰れる」
「そうか?」
言ったものの、週末でおまけに年末のこの時間に、新宿駅の京王線乗り場が、そして車内がどんな状態か、まあ、しらふの僕だって本当にタクシーで帰りたいくらいなのだ。
・・・ただ、何となく、少し意地悪してやりたくなった。
「じゃあ一人で電車で帰れるな?俺行くけどいいな?」
忘年会がとにかく無事に終わったし。
黒井は目がとろんとしてるし、僕はあの鈴木からこいつを任されているんだし。
補佐だって、頑張ったし。
周りの目もなくなって、「会社」からも解放されて。まあ、少しいい気になってもいいんじゃないかと。
「じゃな」と膝をぽんと叩き立ち上がってみせると、黒井はふらつく腕を上げ、僕のスーツの裾をいじましく掴んだ。
それで。
その瞬間、ジェットコースターで落ちる瞬間のような、ひゅっとした、胃が抜けるような感覚があった。
思わず一歩後ずさり、力が抜ける。何と言ったらいいか分からない。びっくりしたのだろうか?心拍数が上がる。
一度目を閉じ、開けて、息を深く吸い込む。ここは新宿で、忘年会の後で、同僚をタクシーで送るだけだ。そんなの、毎年、みんなやっていることだ。全然大したことじゃない。僕はやったことないけど。
裾をつかんでいた腕がだらりと落ちて、我に返る。何だろう、どうして苦しいんだろう。
「・・・く、ろ?」
黒井さん、とも今更呼べなかった。でも、何て呼べばいいかわからない。
うなだれたその頭の、柔らかい髪に、おそるおそる、じいさんちのあの黒犬の時のように、手の甲で、触れるか触れないかのところで止まる。黒犬なのに、少し茶色いんだ。黒井は動かない。僕の手は震えている。何でそんなことをしているのかよく分からない。
何秒たったのか、このままじゃ埒があかないと気持ちを切り替え、無理矢理声を掛ける。
黒犬だと思えば、何だか出来そうだった。
「おい、悪かったよ。行かないよ。大丈夫だから、な?具合はどうだ?」
「・・・きもちわるい」
「そっか。なあ、お前、桜上水だろ?俺、ほら途中だからさ、タクシーで、とにかく桜上水まで一緒に行こう。駅からは遠いのか?」
「・・・ううん」
「ま、とにかく駅まで行けば何とかなるだろ。タクシー拾うから待ってろ」
僕が主導権を握ったところで、段取りよくこなせることなどないのだが、それでも今はやるしかない。黒井と、僕しかいないのだ。
まずはタクシーを拾うこと。
道路を見回せば、探すまでもなくタクシーで溢れている。終バスが過ぎたバス停でえいやと手を挙げると、すぐにタクシーが停まった。
「もう来た。おい、行くよ、乗れるか?」
ぐんにゃりとしている黒井を抱え起こす。すると、また、さっきのひゅっとした感覚!
抜けそうな腰を奮い立たせて、「おい、タクシーだよ」と連呼して何とか自分で乗ってもらい、あとから二人分の鞄や落としたミネラルウォーターを拾って、車に乗り込んだ。「すいません、桜上水まで!お願いします!」と意味もなくハキハキと大声を出す。
ばたんと自動でドアが閉まり、タクシーはすうと静かに発車した。
・・・・・・・・・・・・・
急いで詰め込んだものだから、黒井は後部座席のずいぶんこちら側に座っていて、一度カーブで揺れてからこっち、僕の肩にもたれてマフラーを枕に寝息を立てていた。下手に動かして吐かれたりしたら大変だと思い、ひたすらじっとしていた。運転手もまあそれが一番心配なのだろう、一度「だいじょぶですか?」と訊いてからは、何も話しかけてこなかった。
ラジオの音が小さくかかっている。断続的に、タクシー無線の通信。この位置ではメーターも見えないので、とにかく財布に万札が一枚あったはずだと言い聞かせ、もし足りなかったら黒井の財布も合わせれば何とかなるだろうと、とりあえずそういう目先の問題だけに集中した。
集中から外れると、すぐに、黒井の体温を感じて、さっきの感覚が訪れた。
最初は、雰囲気に当てられて、緊張がほぐれたりとか、僕なんかが今、幹事の「黒井さん」を介抱して面倒みてるんだとか、そんなこんなでいい気になったりやっぱりまた緊張したりで、ちょっと立ち眩んだんだと、そういう理解をした。
それから、ああ、僕だってそういえばビールを一口飲んだじゃないかと、定かではないがそう思いこむことにして、酔ったんだと言い聞かせた。
いやいや、やっぱりそうじゃない。
特殊な「状況」に酔ってるだけだ。雰囲気に流されているだけなのだ。
そして、結局いつかは鈴木さんみたいな人が現れてさっさと場を収めて、すべては通常営業に戻るのさ。きっとこんな状態もすぐに終わって、何事もなく桜上水で終電間際の満員電車に乗り込んで、帰って寝て終わりだ。何も気にすることなどない。
しかし。
じりじりと車は動き、少しずつ桜上水に近づいても、鈴木が現れるはずはないし、運転手が実は黒井の父親だったりして、黒井を引き取っていくようなことももちろんなく、黒井が起きて「ああ、すまなかったな。ありがとな」と言って颯爽と降りていくこともなかった。
誰かが物事を何とかして去っていき、結局僕が一人になるんじゃなくて。
僕がたった一人で、みんなの顔色をうかがうこともなく、自分の意志で、誰かを何とかしなきゃいけない。
それが今なんだ。
一度だけ、どちらかの鞄の中でグーグーとメールの着信らしき振動がしたが、それきりだった。たぶん気の利く鈴木が「無事ついたか?」と一言入れてきたんじゃないかと思うが、そういえば僕は鈴木とアドレス交換していないから、黒井のスマホだろう。
少し自由が利く左手で、時計を見ようとして、ポケットのケータイに気づいた。そうだ、僕はポケットに入れといたのか。車のカーブに上手くあわせて、黒井を起こさずにケータイを取り出す。途中、肩がつりそうになったが、何とか出せた。別に用事もないが、とにかく何かに集中していないと、断続的に続く「あの感覚」のせいで、僕まで足腰が立たなくなってしまいそうだ。
画面を開けると、液晶が眩しく光る。何を見るでもなく、何となく適当にアドレス帳やメールなんかを見る。そして、着信履歴を眺めていて、一つ気がついた。
名前を登録していない、番号だけの着信で、同じものがふたつあった。間違い探しのように、無意識にふたつを見比べ、下一桁まで同じだと確認する。ふと、日時を見る。ひとつは一番新しい。今日、の、19時少し前。何だっけ。
・・・。
何も結論づけないうちに、頭は置いてけぼりで、体が悟ったらしい。
ケータイの画面からタクシーの車内へ感覚が戻され、ラジオが、すれ違う車の音が、そして黒井の寝息が、音が僕を現実に引き戻していく。一拍遅れて、同じ体勢で座っているせいでしびれた尻や、窓に押しつけられて冷えた二の腕なんかの感覚が、一気にやってくる。
ああ。
あの日。
僕と黒井が「みつのしずく」へ行って大笑いして帰ってきた後の土日。知らない番号からの着信が一件あった。僕は無視したが、それは黒井からだったのだ。どこから僕の番号を知ったのか分からないが、たぶん、忘年会のことで僕に電話をしたのだ。きっと、課長の手前、しそびれた下見を週末のうちに一緒に行ってくれないかと、そういうことだったんだと思う。僕はそれを無視したし、黒井は結局僕には何も言わずに、会場をそこに決めた。
誰か、別のやつを誘ったのかな。
鈴木じゃなさそうだけど。
それらしい話は聞かないけど。
でも、ひとりで居酒屋も何だしね、と黒井は言っていた。
誰と行ったんだろう。それで、酒も肴も美味しく食べて、ここに決めたんだろうか。僕は、よく分からないまま猛烈に怒った。何だそれ。
そして僕は気づいた。
いや、気づいたわけじゃない。
これって何だろう?何、嫉妬?そう思った瞬間、「好きなの?」とものすごい小声で自分につっこみが入った。
好き。
好きって何よ。あはは。
否定の声はいつまでも空回りで、何も笑い飛ばしてはくれなかった。
やまねこって、呼ばれたりとか。
マフラー触られたり、ファミマで写真集見たり、カロリーメイトもらったり。そんで、「みつのしずく」とか。それからも、いろいろ・・・。
一瞬息が止まって詰まりそうになり、慌てて吸い込む。
・・・そうなの?俺?
再び、車内外の音はフェードアウトしていく。ねえ、俺ってそうなの?
俺は、黒井のことが、好きなの?
言葉の意味が、よく分からない。
黒井って?
今、隣で寝てる人。僕に寄りかかって、寝息を立てている、男・・・。
その頭の重みが、触れ合っている腕の温かみが、確かに心地よくて。
でもそれって、好きって、意味?
いや待って。結論は今出さなくていいよ。別に、慌てることない。勘違いかもしれないし。ね。だから。ちょっと待って。現実的なことを考えよう。
このままだと、これからどうなる?
え、と。
黒井が起きて、歩けるくらい回復してれば、駅でバイバイして終わりだ。俺は満員電車でサヨナラ。
でも、そうじゃなかったら?
え。
そうじゃないって?
だから、黒井が、肩を貸さないと歩けないとか、ふらふらしてやっぱり途中で吐いちゃうとか。
俺が、送っていくの?え、家に??
送り狼とかいう破廉恥な単語が去来する。いやいや、そんなんじゃない。近くとか、マンションの入り口までだよ。そんな、家に上がり込んで、そんで、着替えさせたりとかそんな!どんどん心拍数が上がる。女の子じゃないんだよ!変なことにならないって!え、チャンス?何のだよ!!
大丈夫だ、こんなの、すうっと波が引くように、冷めちまうよ。「そういう」のは久しぶりだから、何か回路がおかしくなって舞い上がったんだ。そうだよな、大学のあの、サークルでのひどい一件以来、恋愛なんてしてないんだから。
・・・恋愛?
れ、恋愛なの??
お、おい。自分で動揺してどうすんだ俺。でもあの、もうすぐ着いちゃうよ?俺、どうすんの?何か、顔が火照ってるのか、血の気が引いてるのか、よく分かんないや。わかんない。
・・・成り行きに任せよう。
そうだ。酔ってないけど、酔ってることにしよう。
忘年会シーズンの酔っぱらいサラリーマン二人に限って言えば、どんなびっくりすることでも多少大目に見られるだろう。「結婚してくれー!」とか叫んでいたって、誰も何も気にしない。傍迷惑なだけだ。つまり、今のこの状況のおかしなところは、「僕も酔っている」という条件さえ満たせば、消えてなくなってしまうんだ。それでいいじゃないか。酔った上での、一瞬の気の迷いなんだ。
そうだ、酔っている僕が隣の同僚にちょっと変な妄想を抱いたとて、誰に責められることがあろうか。たとえ黒井に可愛い彼女がいて、同棲していて、マンションで甲斐甲斐しく待っていたとしたって、送ったことに感謝されこそすれ、責められる筋合いなどないはずだ。
・・・そういえば、彼女とか、いるのかな?
そう考えたら、急に胸が苦しくなった。知らず、唇を噛んでいた。それが、彼女持ちに対する羨望ではないということが、自分で分かってしまった。
観念して、自分に、本当に正直になってみる。
今ある感情だけを、観察してみる。
僕は今・・・。
もう少し、一緒にいたいと思っている。
このまま帰りたくない。
黒井の家に泊まりたい。
黒井と・・・寝たい。
・・・。
・・・、え。
それはさすがに自分でどん引きだ。
うん。それでいい。
さすがに今のは引いたよ。それはない。
どんなに人恋しくて淋しい男だとしても、そういう欲求はない。うん。
少し落ち着いた。
そして、タクシーは桜上水に着いた。深夜割増料金だったが、何とか手持ちで事足りた。生まれて初めて「お釣りはいいです」と言い、例の感覚と戦いながら、苦労して黒井を車から降ろして車寄せの脇の植え込みのところに座らせた。勝手にミネラルウォーターをもらって、ごくごくと飲んだ。あまりに目まぐるしい夜だ。しかし、まだ終わっていない。
僕が望んだのか、何かの力が働いているのか、黒井が植え込みに吐いた。それはスローモーションのように映った。線路のスイッチがかちりと切り替わって、「自宅」ゆきから「黒井んち」ゆきへ、行き先は決定された。
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