第8話:べたべた上戸のクロ
駅前の自販機でもう一本水を買い、口をゆすがせて、吐いたところにも水をまいた。黒井はだいぶ楽になったようで、少しずつ話せるようになった。最初はごめんごめんを繰り返し、僕の腕を掴んで、舌足らずに「恥ずかしいよう」とか言うもんだから、また腰が抜けた。寒さもあって感覚がなくなった手で黒井の熱い手をつかみ、「大丈夫だよ、誰だってこういうときはあるんだ!」と馬鹿みたいなせりふを大まじめに言った。そうでもしないとバランスが取れそうになかったらしく、勝手にそういう言葉がすらすら出てきた。黒井が笑ってくれたから、ほっとした。
「な、お互い様なんだから、気にするんじゃない」
「そうかな」
僕はさらに自販機で熱いお茶を二本買ってきて、一本渡した。黒井は熱いのを飲みたいか分からなかったが、とりあえず僕が寒くて、カイロ代わりにもなるし、飲みたかったのだ。
「そういえば、忘年会、どした?」
「大丈夫だよ。鈴木さんも助けてくれたし、無事終わったよ」
「そっか。じゃ、大丈夫か」
「そうだよ」
「もういいのか」
「そうだよ、もういいんだよ。終わったんだから」
「いやあ、まずったなあ」
「別に、もう誰も覚えてないって。自分たちだけ盛り上がったら終わりなんだから」
つい、いつもの本音が出た。黒井はそうは思っていない人かもしれないし、「もう誰も覚えてない」なんていうのは、プライドにさわっただろうか?
しかしどうやらそれは杞憂だったようで、「だよな、そうであってくれー」との返事。
「そういえばさ、やまねこ・・・」
「どした?」
「ん?」
黒井は辺りを見回した。鞄を探しているらしい。僕が渡してやると、中を探ってスマホを出した。
「え!ん?」
なにやらつぶやいて画面をスクロールさせる。たぶん、さっき来たメールをチェックしているのだろう。もどかしい無言の2、3分が過ぎる。
「あらら・・・」
「どうかした?」
僕は、他人のプライベートには首を突っ込みませんよ的な態度で、お茶を飲みながらそっぽを向いていた。
「やまねこ、おい、ねこ、お前・・・終電終わっちゃったよ」
「あ、え、別にいいって・・・」
何がどういいのかは不明だった。黒井が吐いた時点で線路は切り替わったわけだが、そのあと元気になった場合のことまで考えていなかった。
しかし、じゃあどうするかと言えば、思考が止まってしまう。僕の手は、たぶん寒さじゃなくて、震えていた。もう今の僕は、ごく当たり前の男友達じゃ、ないみたいなんですけど。
しかし。
黒井が酔っていたので助かった。そうだ、こいつは酔っぱらいだった。吐いて楽になって、ハイになった酔っぱらいだ。
「そーだうち泊まればいいじゃん!ね、お泊まり!楽しくないこういうの?汚いけどさ、いいじゃん一緒に寝れば。ね?ほらこんな冷たくなっちゃってさ」
相変わらず熱い手で僕の手を握る。
「何かまずい?」
「え、いや、別に」
「じゃあそうしよ」
「え、じゃ、そう、だね、ご厄介に・・・」
「なあにそんな他人行儀な!一緒に帰ろうよう」
首に腕を巻き付け、抱きついてくる。僕はわりともうだめだ。
「やめろって酔っぱらい!うっとおしい!」
そう言って突き放すと黒井は一瞬きょとんとするが、今のが本心でないのはお見通しとばかりににかっと笑った。
「わんわん!ねこを連れて帰るわん!ついでにねこに皿洗いさせるわん!」
「お、おいそこまでしないぞ!」
「へへ、ほら荷物持って。こっち。うちはこっちだよお」
黒井はふらふらと危なっかしい足取りで歩きだした。いろいろな峠を越えたらしい。
鞄をふたつとお茶と水のボトルを抱えていると、黒井がふらりと戻ってきて、また僕の手を触る。
「ねこは寒いの苦手だからな。ほら」
そう言って、自分のマフラーを僕のマフラーの上からかけた。
「あ、ありがと。その」
「ん?」
「あのさ、俺も、お前のこと、その、クロって呼んでいい?」
声が震えていたのは、黒井にも分かっただろう。相手の目を見ていることが出来ず、思わず視線を落とし、ゆるめたネクタイの下の肌を見つめた。余計に変になって、思いきり目をそらす。
「・・・何か、照れる、わん」
「み、妙な間を空けるなよ」
「だって、さ」
「ひ、ひとがさ、年甲斐もなく、オトモダチになってくださいって、言ってんだから」
それは欺瞞だ。でも嘘じゃない。
「お、俺だって」
「何が」
「お、お前送ってくんなかったらどうしようって」
「あ、あれはその、ちょっとからかっただけで・・・」
知らず、あの時のスーツの裾を自分で握っていた。そこから力が抜けていく。
「ん?何のこと?」
「え、だから・・・。その、覚えて、ない?」
「俺は確か、鈴木さんに下まで連れてきてもらって、一人で帰れるかって言うから、無理ってゆって。そんでねこが来てくれて?他はよく覚えてない」
じゃああれは、裾を握ったのは、無意識だったのか。
そんなの、余計、何だか、いかんじゃないか。また息が浅くなり、詰まる。
黒井はお茶と水のペットボトルを両手でもてあそびながら、ゆっくり歩きだした。僕もそれに合わせる。
会社でよく顔を合わせる同期、じゃなくて、深夜の住宅街を歩く友人、になった、のだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
酔うといつもこうなのだろうか、黒井は本当に人なつこい犬のようにまとわりついて、べたべたとよく触ってきた。僕はそのたびあの感覚に襲われ、「ひいい」と弛緩して「やめなさいクロ、俺は困っている」と訴えた。おかげで、クロと呼ぶのも慣れた。
しかし、もしそうだったら、つまり黒井が笑い上戸というかべたべた上戸?だったとしたら、さっきの飲み会の席でもそうだったのだろうか?と余計なことを考える。僕が見た一瞬は、そんなことはなかったようだが、僕が来るまでに何があったか分かったものではない。それを考えると歯がゆくなり、もういいかと思って本人に訊いた。
「クロさあ、いつもこう?」
「え、なにが?」
「酔うとこうなるの?」
「酔ってないよいつもと同じ」
「だめだこりゃ」
「うそうそ、酔ってる。気持ちいいもん。で、なにが?」
「だーかーら。酔うとこうなるのかって」
「こうって?へらへら?」
「ヘラヘラってか、べたべた」
「ん、そうかな。だってねこが冷たくて気持ちいいから」
そう言ってまた熱い手で握ってくる。これだけ夜風を浴びてこの体温というのは、熱でも出ているのだろう。
・・・発熱?
このまま、週末は看病?
いやいや、山猫さん、さすがにそれはまずいだろう。
「クロ、マフラー。自分のちゃんとしな」
「なんで?暑い」
「だからだよ。お前よく歩いてるな。熱出てるんだよきっと」
「そうかなあ。ちょっと火照ってるだけ」
黒井の方が少し背が高くて、容易に僕の顔や肩にすり寄ってくる。頬にキスまがいのことをする。立っていられないのは僕の方か。
「こ、コンビニとかないの?ユンケルとかさあ、ゼナみたいの買った方がいいよ。あとおかゆとか、いろいろ」
「ん、あっち。ファミマ」
黒井は自分では元気だというわりに荷物を持つ気はないらしく、空のペットボトルをコンビニの外で捨てると、手ぶらで店内を回遊した。僕は鞄二つとカゴを持って後をついていく。僕には何をしても許されると思っているみたいだ。そういえば今までもそんな感じだったっけ。端から見れば図々しいくらいのことを、平気で言う。そして僕も、普通ならほんの少し嫌悪感をまぶして「いいっすよ」とか言うところなのに、黒井にはまったく甘かった。
そういう些細なことも、思い返してみれば確かに僕は、今日じゃなくて、もっと前から、いや、きっと最初から「そう」だった。僕の中の何かがすごく巧妙に隠していただけだったのだ。この、おかしな気持ちを。
「ね、ねこ。これ買おっか!」
「ねこって大声で呼ばない」
「あ、そっか。じゃ、山ちゃん」
そういえば電話でもそう呼んでいたっけ。
「うん、そうね。クロさん。で、何」
「焼きそばUFO」
「却下」
「腹減ってきた」
「お前はおかゆ」
「ね・・・じゃない、山ちゃんは?腹減らない?」
「減ってるよ。ほとんど食べてないんだから」
「じゃあうちで忘年会やり直そうよ。そうだ、またお酒買お!」
「だめだめ。クロさん熱出てんの。風邪引いてんの。分かってる?」
「熱じゃないよ酔いだよ」
僕がため息をついて振り返ると、ふいに顔がすぐそこにある。前髪をあげて、おでこを合わせようとしていた。
「クロお願いだからやめなさい。お店です」
「じゃあおうちで?」
「そういう発言もダメね。もう外に出てて、ってわけにもいかないか。エロ本でも読んでてよ」
「えー」
「えーじゃないよ」
「そんなの読んだら俺」
僕の耳に両手を当てて、ささやき声で、「すぐイっちゃうよ」と。
手がふさがっていて、やめろよと押し返すことも出来ず。
顔と耳が、黒井に負けないくらい熱く赤くなっていくのが自分でも分かる。僕も人生の中でびっくりするほどヘンな夜になってるが、黒井にとってこれはどうなのだろう?どれくらい、酔った勢いのべたべた上戸なのだろう?
黒井はクスクス笑って、やだなあとか何とか言って肘で僕をつつき、また店内を回遊した。今のところ店員は奥に引っ込んでいるのだが、僕は「まったく酔っぱらいは・・・」と独り言で取り繕わずにはおられなかった。
エスカップ(ユンケルからだいぶ格下げになった)とウーロン茶と鍋焼きうどんと自分用の適当な総菜、その他諸々を買い込んだ。気まずさに耐えてレジに立ったが、店員は中国人であまり日本語が堪能でないみたいだったので、いろいろとセーフなことにした。何もセーフではないと思うが。
しかしやっぱりアウトなことに、何とタクシー代を出したせいで手持ちが足りなくなってしまった。Tポイントだってそんなにたまってるはずがないし、クレジット払いってアリか?と焦っていると、黒井が察して、後ろから千円札を二枚よこした。
「ごめん。タクシー代?」
「気にすんな。って、これじゃカッコつかんけど」
僕たちのやりとりなど意にも介さず機械的に会計が済み、お釣りが返ってくる。それを財布に入れるときに、ああ、pasmoで払えたのか、と気づいたが、まあ仕方ない。というか、よく考えれば二人分の飲食物なのだし、ここは別に割り勘で構わないところだろう。
こうして食糧をゲットし、あとは、もう、あいつの家に行く以外ない。それもものすごく近い未来に。何を思えばいいか分からないまま、ファミマを後にした。
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