第9話:部屋にふたりきり
店の外に出ると、少し暖まった体がすぐに冷えた。
タクシー代のことを言うとき、一瞬「黒井さん」が顔を出していた。今までは「僕に合わせて馬鹿話をしていても、やっぱり『黒井さん』だよね」とひねていたが、今は違う。
何だか、そういう「黒井さん」までも、独り占めしているようで。
寒さに身をすくめ、口元をマフラーにうずめる。そこで、まだ黒井のマフラーを二重にしていることに気づいた。中国人だろうが何だろうが、これでは完全に「あちら側」に見られても仕方あるまい。集団であればおふざけで済むが、いくら酔っぱらいとはいえ、二人で入店してこれはどうだろうか。いや、別にあの店員が後ろから追ってきて僕たちのことを非難するわけでなし、別にどうでもいいのだが。まあ、今後黒井がここで買い物しにくくならなければ。
コンビニから五分ほどで黒井のマンションに着いた。黒井に対する何だか分からない感情は横に置いておくとして、僕は徐々に、楽しくなってきていた。
すごく、解放された気分だ。
深夜に遊び(?)歩いて、親もいない一人暮らしのマンションに帰り、これから夜通しバカ騒ぎをしたって構わないのだ。今日は金曜だし(もう土曜になるが)、来週まで頑張れば連休で、その後は長めの正月休みが待っている。とにかく、今夜はもう無礼講なのだ。
ついに、黒井の家に着いた。小さくも大きくもない、わりかた築浅のきれいなマンションだ。
静まり返った小さなロビーで、二基のエレベーターが律儀に僕たちを待っていた。
「ああ~着いた。緊張しちゃう。殿方が来るなんて初めてなんだものぉ」
静寂を破って黒井がおどける。
「ああそうかい。じゃあご婦人はよく来てるってか?」
「え、ご婦人?ご婦人は縁遠いよねえ。やめてよクリスマスも近いのに寂しい話は」
「縁遠いのかよ、はは」
内心は安心した。嘘かもしれないが、とりあえず嬉しい。
「あ、笑ったね。そういうねこはどうなんだ」
「うん、俺も縁遠いよ。殿方もご婦人も縁遠いよ」
「あ、俺おれ。殿方」
「そうね、犬には縁があるかな」
「そっちかい」
五階に着いて、黒井が先に降り、右手へ歩いていく。時間も時間だし、廊下では黙っていた。
もうすぐ、黒井の部屋に入る。
社会人になってから、人の家に行ったことなどない。まあ、馬鹿話して、雑魚寝して終わりだろうけど、けど・・・。
黒井が鍵を出してドアを開け、「入って?」と小さく囁いた。頭より先に卑猥な連想をした体が、またあの感覚に襲われ、思わずコンビニの袋を取り落としそうになる。「おじゃまします」の一言が、己の邪心のせいでいやに恥ずかしい。せめて「上がって」と言ってくれたらよかったのに。
玄関で靴をもぞもぞと脱いでいると黒井が後ろから「電気つけるね」と腕を伸ばしてくる。黒井の家の匂い。不思議と犬っぽく感じる。あの、じいちゃんちの黒犬の匂いなんて覚えてもないけど。
「あれ」
なかなかスイッチに届かないらしく、そのうちドアががちゃ、と閉じて静寂に耳がツンとなる。
「ごめん、ちょっと待ってね」
黒井も靴を強引に脱ごうとしてお互いの足がもつれ、「あぶなっ・・・」の声を最後に、一瞬の間を置いて、どたんと二人で倒れた。何がどうなったのかよく分からない。
「いったた・・・」
「何だよもう!」
僕の上に黒井が覆いかぶさっている。体温が熱い。背中のフローリングの冷たさがそれを際だたせる。そのまま黒井の体重を、圧迫を感じていたい自分を、もう認めざるを得なかった。キスくらいなら。・・・キス、くらいなら。
「・・・おっかしい!」
黒井が突然笑いだした。ああ、僕だってそうだ。いろいろおかしい。笑えるよ。
「クロ!なんだって、入った途端に組み敷かれなくちゃいけないんだよ!!」
「重い?」
「・・・アツい」
黒井が体の上で思いっきり笑うので、本気で苦しかった。
「く、くる・・・」
それでもお構いなしなのだ。もう愛してしまいそうだ。これから僕はどれだけ自分を制して生きていけるというのか、人生の鍛錬がこうして始まった。
・・・・・・・・・・・・・・
サラリーマンたる者、無礼講の夜も、まずはスーツを掛けるところから。
というわけで、ハンガーを借りて、二人で黙ってスーツを掛ける。上着はともかく、下を脱いでしまって、借りたスウェットを何事もなく履くまで、よく我慢したなと思う。いや、別に直接何かしようということではない。そういう破廉恥なことでは断じてない。ただ、ちょっかいを出したり、ふざけたり、そういうことだ。修学旅行みたいな、浮かれた空気。
しかし。
黒井はともかく僕はしらふなのだ。浮かれ具合が、おかしな方向へ行っては困る。普通に、あくまで酒の席での無礼講でなくては。
だから酒を買ってきた。
いや、おかしな空気になろうとなるまいと、黒井がいようといまいと、僕は自分で自分に酒を買ってやってもいいと思ったのだ。まずい麦酒じゃなくて、美味しい果実酒を。
「あ、ずるい!自分だけ酒買ったな」
「お前はおかゆ」
「しかも美味しそう・・・え、何、サンドイッチも?」
「お前はおかゆ。その前に体温計」
「うち体温計ないよ」
「・・・なくても、自分で分かるだろ?寒気とか、頭痛とか」
「よくわかんない」
期待したことではあったけど、いざ二人きりの部屋でおでこを合わせて目を閉じると、そりゃあ熱など分かるわけもない。僕だって顔が真っ赤なのだから。
「やっぱりわかんないよ」
「・・・そうだね」
黒井の部屋は僕の部屋と似たような1DKで、つまりはDとも言えないような狭いキッチンと、風呂トイレと、一間だ。
その一間に僕たちはいて、折り畳み出来る簡易ベッドの他は、洗濯物だのチラシだの雑多なものが全て端っこに追いやられていた、というか二人で追いやったのだ。そうしないと座るスペースもなかったわけだが、これから畳むのか洗うのかも分からないタオルやシャツをまとめて端に寄せて置けばよいという神経はどうかと思った。僕に気を遣っているのではなく、素でやっているようだったから、これには驚いた。カシミア(っぽい)マフラーを颯爽と着こなしてツリーの前に現れた黒井はどこに行ったのだ。
まあとにかく、結局二人で買ってきた食糧をつつくことになり、簡易忘年会となった。ベッドの側面にクッションを立てかけて寄りかかると、ようやく座った感じがした。今日は本当に疲れた。
果実酒は一本しか買わなかったから、マグカップに入れるのもしらけるということで、瓶を回し飲みにした。どっち口付けた?とかなくて、こんなこと、俺ら何でもないよな、という顔をして。
「こんなことならもっと買えばよかったな」
「そうだよ。また買いに行く?」
「それもなあ。寒いしちょっと」
「まあ、うちにも探せば何かあるかも。とりあえずこれも食べよ」
アルミカップの簡易鍋焼きうどんを持って、黒井がキッチンで火にかける。何だか取り合わせもしっちゃかめっちゃかだが、犬猫にはこれで十分だろう。
やがて鍋つゆのいい匂いがしてきた。今なら、いくらでも食べられそうだ。
二人で最後の一滴まで飲み干して、ようやく僕は体も温まり、適度に酔いも回ってきた。果実酒を二人で空ける程度でこうなのだから、僕も相当酒に弱い。昔はここまでではなかった気がするが、最近あまり飲んでいないから耐性が最低ラインまで下がってしまったようだ。ただ、僕は笑い上戸でもべたべた上戸でもなく、ただ温かくなって眠くなるだけだった。
「何だ、眠くなっちゃったの?こんだけで?」
「うん・・・」
「人のこと何も言えないな。俺とおんなじじゃん。こんなにあったかくなって」
おでこやら首すじやらをべたべたと触られて、知らず、「ん・・・」と声が漏れる。一瞬、妙な空気の<間>が訪れて、黒井が僕の腕をきゅっとつかんだ。さっきよりも確信犯の自分は、やはりそれなりに酔っている。
「・・・じゃあ、一緒に寝よっか。俺もちょっと眠くなってきた。ほら、狭いけど」
黒井はさっさと電気を消して、先にベッドに入り、壁側にくっついて、布団をあけて待っていた。僕は寄りかかっていたクッションからずり上がるように低めのベッドに上がると、黒井の隣に潜り込んだ。
こんなことってあるか?夢じゃないだろうか?今日好きだって気づいた人のベッドに、今二人で入っている。世界中探したって、一体どこの誰がこれほどスムーズにベッドイン出来るだろう?いや、本当にベッドにインしてるだけだけど。
「あのさ、俺さあ・・・」
黒犬が何か独りごちていたが、途中からよく分からなくなった。自分の体内が熱いお風呂のようになって、浸かったまま、どんどん沈み込んでいく。映画のエンドロールを見つめ続けた後の、世界が上下する錯覚のようなふわふわした感じ。
暗闇のはずなのに目の前がチカチカする気がする。時折何かの音がする。風邪薬で猛烈に眠くなったときと同じ症状だった。どこまでが現実なのかよく分からない。目を開けているのかいないのか、どれが幻聴なのか、区別が付かない。「クロ?」と呼んでみるが、本当に声に出ているのかは分からない。すぐ近くに感じる。本当に近く。っていうか、さっきみたいに、僕の上にいる。体温を感じるのだ。
でもそれは、旅先で金縛りに遭い、白い着物の幽霊が布団に乗ってくるのと同じ原理で。
どんなに体温を感じても、圧迫感があっても、それはリアルな幻覚でしかない。
僕は薬の効果がてきめんな体質で、風邪の時にはよくある現象だったから、怖くはないのだが、ただ面倒なだけだった。この幻覚状態が解けるまでに結構時間がかかるのだ。
起きてはいないが夢でもなくて、意識が半分あるからいちいち幻聴に驚いたり、誰が隣にいるのかと気をもんだりしなきゃいけない(しかしそれを疑問に思う理性はないのだが)。
その後何かいろいろあった気がしたけど、結局寝た。朝おしっこが我慢できなくて起きたときには、何一つ覚えていなかった。
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