第10話:妄想に花が咲く

 昼前に帰途についた。

 黒井は今度は二日酔いに悩まされていた。酔っていた時のことを思い出したのか、僕に妙に遠慮して、そわそわしていることがあった。まあ、それも致し方ないとも思ったので、そっとしておいた。僕の方こそ、朝の日差しの中でまともに黒井を見ることが出来なかったのだ。

 何となく、僕自身もいろいろ容量がいっぱいになったので、送ると言うのも聞かず、昨日の夜道の記憶をたどって桜上水まで一人で歩いてきたのだった。

 自分の駅で降りる気にならず、そのまましばらくぼうっと電車に乗っていた。

 よく晴れた、穏やかな土曜日だ。

 何というか、もういろいろ、とにかくいっぱいなのだった。そうとしか表現しようがない。

 僕はすでに、自分の気持ちを受け入れていた。それが何なのか、正体はまだ分からないが、僕は、黒井のことが好きなようだ。それはもういい。しかしそれが、いったい何の「好き」なのか。

 分類しようと思えば、いろいろ出来た。

 何々に対する何とか行為であるとか、抑圧していた何々欲の発露であるとか。

 でも、どの説明もぴんとこなかった。

 理由をつけて言い訳してみたって、どうしようもないのだ。そうこうしてるあいだにも(ようやくアドレス交換したので)、メールが入り、性懲りもなくあの腹が透けるような感覚。

 こんな気持ちを、どうしろっていうんだ。

 メールには、<どうもお世話をかけました(^^;)>なんてふつうの文なんか書いていないのだ。二日酔いも治ってきたのか元気な調子で、ねこといぬの絵文字と、<マフラーくさい!洗っとく!まあ、もう返さないけど!!>と。

 そう、僕のマフラーはなぜかすごく湿った箇所があって、たぶんそれは黒井がタクシーで寄りかかって寝ていたときのよだれなのだった。それで、結局互いのマフラーを交換する形で帰ってきた。むしろ暑いくらいの車内でかたくなにマフラーをしたままな自分は、まあ世間の基準で言えば「気持ち悪い」なのだろう。しかしそんなことは全くどうでもいい。僕はやはりカシミア100%だったマフラーに顔をうずめて匂いを嗅ぎ、目を閉じてしばらく微睡んだ。


 帰宅して、洗濯機を回しながらシャワーを済ませ、目に付いた家事を細々とこなす。ゴミをまとめ、玄関を片づけ、掃除機をかける。全自動ドラム式の洗濯機が低いうなりとともに乾燥に入った。ひととおり終わってもまだ腰を落ち着ける気になれなくて、結局また靴を磨く。

 冷たい玄関のフローリングに座り込むと、あの時の記憶が蘇った。しばし手が止まる。証拠品のマフラーと、戦利品のような体温の記憶。

 まるで中学生じゃないか。

 隣の席になった女の子を好きになったりして、しかし告白するわけでもなく、席替えやクラス替えで離れて終わりになった。その女の子からダビングしてもらったテープも(まだカセットテープを使っているという点で意気投合したのだ)、もうどこへ行ったか分からない。そんなものだ。

 あの時告白していたら、何か違っただろうか。

 まあ、いい。今回ばっかりは、告白するわけにはいかないのだから。


 寝る前、布団の中にケータイを持ち込み、例の着信履歴とメールを飽きずに眺めた。そのうち耐えきれなくなり、もうどうにでもなれと思って、ただ一言、<おやすみ>と四文字、それ以上の用事も世間話も「幹事お疲れ様でした」的な気遣いもなく、メールした。汗などの絵文字で言外の「本当疲れた!さすがに寝ないとな!」みたいなニュアンスを入れることもしなかった。

 恋人でもない相手に送る文面ではないと思う。

 それは僕の投げ遣りな告白にも等しかったわけだが、七分後くらいに返信があった。

 怖くて画面を開けられないまま悶々とすること小一時間。そのまま削除すらしてしまいたい衝動をこらえ、ついにメールを開く。

 返信はただ一言。

<なら俺も寝る>と。

 僕はその画面を開けたまま寝た。



・・・・・・・・・・・・・



 恋をしていると、残業が苦にならない。

 などと考えてしまえるほど、自分の現状には慣れた。

 水曜日はノー残業デーなのだが、もはや形骸化しており、定時に帰るのは女の子だけ、それに続いてぼちぼち早めに切り上げるのは家族持ちだけ。僕たちにとってはノー残業デーどころかただのサービス残業デーと化していた(強制的に勤怠は定時で入力され、申請しなければ本当は残業は出来ないことになっている)。

 それでも、週末は連休なのだから気が楽で、僕はむしろ浮かれた気分で人の少ない社内を満喫していた。

 そういえば、黒井に声を掛けられたのも、こんな日だったっけ。僕はマウスパッドの下に隠してあるふせんをチラ見してひと息つく。あの時黒井が残していった、「ねこ、さんきゅ」のメモ。

 

 僕は今、とても充足していた。

 黒井のメモはあるし、鞄にはマフラーが入っているし、メールや着信履歴だって保護してある。あの夜の記憶は一から十まで反芻してお気に入りの映画みたいにすぐ思い出せる。

 屋根裏部屋にありったけの本や映画やゲームを持ち込んで、おまけに食糧もたっぷり確保してある夏休みのようだ。

 だから、黒井と何か会話を交わさなくたって、黒井が他の連中と楽しそうに話していたって、あまり気にならなかった。むしろ、戦利品もろもろのおかげで、優越感すらある。

 まあ、そうはいっても、段々と人が少なくなるにつれ、背後が気になり始めてはいた。三課に黒井はまだいるのだろうか?振り返ることは出来ないけど。

 胸の充足感とともに、そこはかとない期待が頭をもたげてくる。

 黒井がまだいたとして。

 またふらりとこちらへやって来て、コンビニへ夜食の買出しに行こうなどと持ちかけてきたとして。

 うん、例えば、の話だ。

 たとえば、二人でオフィスを出て、「やってらんないよなー」的な雰囲気で廊下をだるそうに歩き、誰も乗っていないエレベーターに乗り込む。

 そして、突然、地震か何か起こったりして。

 ついでに停電なんかも、しちゃったりなんかして。

 最初は、とにかくびっくりして、様子を伺う。

 それからおもむろに、何だ何だと騒ぎ出す。 

 緊急ボタンみたいのを押しても何にもならなくて。

 電波も入らないから、外部と連絡も取れなくなって。

 五分経っても十分経っても状況は変わらず、段々と不安になってくる。

 そして、次第に何か、そういう雰囲

「おい」

「うわっっっ!!」

 心臓が跳ねた。椅子から転げ落ちるほどびっくりした。

「えっ?」

「わっ」

「何?」

「そ、そんなに驚かんでも」

 黒井だった。

 ・・・何てことだ。本人だ。

「ちょ、ちょっとクロ、人がぼうっとしてる時にさ、やめてよ息止まるよ」

「いや、そんなこと言われても」

「で?何。俺に何か用?」

 わざとそっけなく訊く。

「うん、実はさ。ちょっと、付き合ってくんない?」

「お、飲むの?」

 おちょこを開ける仕草で、ごく普通のサラリーマンを装う。卑猥になりそうだった、妄想の反動。

「飲みは、しないけど」

「じゃあ何、コーヒー?」

「いや、そうじゃなくて」

 あ、そう。

「じゃ、何かの手伝いとか?ダンボール運び?」

 二人でやるなら大歓迎だが、他の人のフォローに入れって言うなら、悪いがお断りだ。

「あのさ、ねこ、この後って暇?」

「うーん、まあ、ねえ」

「じゃあ、付き合ってよ」

 付き合ってって、二回も言われてしまった。そんなこと、すら。

「だから、何」

「実は、ほら、そろそろ・・・クリスマスじゃん?だから、その、ね。プレゼント買うの、一緒に行ってくんないかなって」

 え。

 一瞬思考が停止した。

 クリスマス、プレゼント。

 いやいや、僕に、じゃない。

 ・・・彼女に、だよね。

 でも、彼女はいないって言ってたけど。

 あ、そうか。

 彼女がいなくたって、意中の女の子は、いるかもしれない。

 じゃあ、何。僕は、黒井が好きな女の子に贈るプレゼントを、一緒に選びに行くの?そんなのって、つらくない?

 ・・・と、いうか。

 あ、振られたのか。

 頭が白くなる。

 何か、腹が立ってきた。

「あのさあ黒井くん。まあ確かに僕はこのあと暇だよ。でもさ、さすがにちょっと、独りでクリスマスを迎える身の俺をさ、誘うような内容じゃないんじゃない?別に俺、女の子の好みとか詳しいわけでもないのにさ、どうしてそんな拷問みたいな・・・」

 もう、いいよね、断っても。

 だって振られたんだし。

「女の子じゃないよ、男の子だよ」

「はい?」

 え?そっち!?

「甥っ子なんだよね」

「おいっこ?」

 ・・・甥っ子?

「何かメールでさ、親が、クリスマスなんだからあんたも何か贈ってやんなさいとかいって。だからさ、一緒に来てよ。だって俺だってさ、こんな時期に一人でデパートとか歩きたくないよ」

「な、なに言ってんだよ。一人で歩きたくないとか、そんなん、男二人で歩く方がもっと悪いだろ!」

「そんなことないよ!一人よりはマシだよ!」

「マシじゃない!一人で行け!」

 僕が机を叩いて立ち上がると、黒井が上目遣いで僕の手を取ってぶんぶんと振り、「お願い!今南口とか、イルミネーション綺麗だよ?ね?」と訴えてくる。

「な、何が<いるみねーしょん>だ!余計悪いわい!」

 笑いがさっきの怒りに混じって、何だかよく分からない。

 その時ちょうど先輩社員が通りかかり、「何かお前ら、ずいぶん寂しいこと言ってんなー!!」と笑い飛ばして去っていった。僕は苦笑いで「あ、はは、おつかれっす」とだけ返し、どかんと椅子に座ると、観念して「・・・じゃあ、行くか」と言った。タイミングを作ってくれた先輩に感謝しながら、僕は帰り支度を始めた。

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