第219話:世界で一番・・・

「・・・っ」

 まさか、起きてた?

 心臓がまた跳ねる。とっさのことに、言葉は出てこない。どう思ったらいいのかすら分からない。謝る?取り繕う?今すぐ告白する?

「・・・ん、ねこがいる。なんだっけ」

 僕は隣で不自然に、腰掛けて身体をひねった体勢で黒井を覗き込んでいる。何だっけと言われても仕方ない。

 急いで荷物をまとめて部屋を出て行くという選択肢が目の前に現れた。黒井が起きるまでここにいたんだから、もういいはずだ。勝手にキスしていたことに気づいているのかどうなのか、でも、全部うっちゃって何も言わず出て行こうか。静かにしてと言われているんだから、それでいいはず・・・。

 そうしろと言われたんだから、それを優先するはずだ、僕なら。

 それなのに、何で。

 どうして、静寂を破って、考えてもいないことが声になって出てきちゃうんだ。

「ごめん、あの、起こすつもりじゃなかったんだけど、その」

「・・・ああ、ええと、俺」

「分かってる。静かにしてほしいって、分かってるよ。でも、ごめん、どうしても聞いてほしいんだ。いや、こんなことお前には関係ないし、迷惑なだけだって、俺の方を優先する理由なんかないって、わ、分かっては、いるんだけど」

「・・・」

「あ、あの、飲み会に行って、行ってっていうか俺が幹事だったんだけど、何か全然、居場所がなくて、いや、そんなの別にいつものことなんだけど、・・・とにかくそれで、俺には」

 お前しか、その、お前とやるアトミクしか、ないんだよ、会社以外で。あの、別にやることもないし、行くとこもないし、だから俺にはそれがあるって思ったんだけど、それがもしなかったらそんな人生は怖ろしいって、急に怖くなって、お前のこと思い出して、急にここに来ちゃったんだ。それで・・・。

 ・・・全部喋ったって思ってたけど、思考は最後まで駆け抜けたけど、ちょっと頭で時間を巻き戻したら、途中で止められていたのだった。「もういいよ」と。

「もう、いいから」

「ごめん。俺、すぐ帰るから・・・」

「別に、そんなこと言ってない」

「だ、だって、聞きたくないでしょ?いいんだ、ただの愚痴だ。忘れて」

「違うよ、聞かなくても分かるからいいって」

「・・・え、何が?」

「お前がそういう顔してるとき、そう、なんだ。そうでしょ?」

「・・・え?」

「受け止めてやるよ。来て?」

 ・・・。

 黒井はほんの少し微笑んで、肘をついて少し身体を起こした。

「・・・大丈夫、俺だって分かってるよ。ちゃんと、忘れてあげる」

「え?」

「お前が人に頼ったりするの嫌いだって、知ってる。でも俺だってさ、ちょっとは、出来ると思うよ」

「・・・」

「お前がすること全部忘れるって約束する。だからほら、はやくきて」

 僕は、もう、忘れてくれるならいいかと、黒井が見ている前でゆっくりその身体の上に馬乗りになって、肩に手を置き、膝を折って顔をうずめた。黒井は僕の背中をひと撫ですると、Tシャツの下に手を入れて、背骨をひとつずつなぞった。それで僕は勃ったし、黒井の下腹部にそれは当たってるけど、忘れてくれるから、大丈夫なんだ・・・。

「あの、俺、おれ・・・」

「いいよ言わなくて。言葉ではきっと、受け止めらんない」

「・・・おまえは、なんで」

「うん、何か、お前が頼ってくれるなら、俺は強いんだ」

 

 そして僕は、自分の今の気持ち全部をこめて、「・・・ありがとう」と言った。

 黒井が「かっこいい?」と訊くので、僕は、「世界一」と答えた。


 

・・・・・・・・・・・・・



 僕は、言葉で全部説明したいのに、お前に言葉は要らなくて。

 お前は、頼ってほしいのに僕が素直に頼らないから、強くなれなくて。

 熱いコーヒーに冷凍庫のロックアイスをざぶんと入れて、カラカラとかき回した。いつの間にか夏至も過ぎていて、すっかり明るい午前五時。

「・・・やっぱり忘れちゃった。夢だよ、夢」

「え?」

「何か、原子みたいな夢見るかなって。ねえ、読んだでしょ、その本」

「・・・あ、ああ」

 夢分析をしてみたかったのか。それで、勝手に帰るなだのカーテンを開けるなだの、・・・うん?まあ、静かにしろとか起こすなってのは分かるけど、書き置きなら別に支障はなかったんじゃないか?

 そう言うと、「聞いてもらわなきゃ忘れるじゃん」と。

「そ、そんなの、何かにメモするとか」

「え?・・・書くのってあんま好きじゃない」

「じゃあICレコーダーに入れるんだね」

「起きて一人で吹き込むの?何か面白くないよ」

「まったくあれもイヤこれもイヤって・・・」

 僕はコーヒーのグラスを手渡し、それでも頑なにカーテンは開けないままの部屋で、よく見えない黒っぽい液体を二人で飲んだ。

 ごくごくと飲んでふうと息を吐き出し、「何だよ、お前のためにさ・・・」と言われたら、いろいろごめんごめんで恥ずかしくなって、慌てて「分かった分かった、ああ、大丈夫だって」と手を振った。

「え、何が?」

「だからさ、お前の夢、知ってるよ」

「・・・何で?」

「だって寝言で言ってた。はは、誰が原子の夢だよ、色男」

「はあ?」

「女の子の夢だろ?まったく何してたんだか。なあ?その・・・さっちゃんと?」

「・・・」

 黒井は一瞬止まって、ぎょっとしたような顔をした。

 あ・・・何か、まずかったかな。

「い、いや、確かそう言ってたからさ」

「・・・そう。ふうん、そういえば、出てきた、か、なあ」

 怒ってるわけでもなく、神妙な表情。夢を思い出してそれをたどっているのかもしれないし、その女の子に対して、何かの感傷を感じているのだろうか。

 ・・・その子は、黒井とどんなことを話し、一緒に何を食べ、どんな格好で寝たんだろう。

 烈火のごとく燃える火は、しかしそのそばからバケツの水で消されていく。

 いいんだよ、今お前が隣にいてくれて、僕を受け止めてくれて、僕はお前を殺さなくて済んでるんだから。

「・・・さっちゃん、なんて、ね、呼んでたんだ」

「・・・ふうん」

「たぶん出てきたのはちっちゃい頃の・・・あの人が夢に出るなんてあんまりない・・・」

 ちっちゃい頃?

 ってことは、幼馴染み?大学の演劇部の子じゃなかったのか。いや、まあそれもわかんないけど。

「他に何か言ってた?」

「う、ううん。ただ急に、『さっちゃん?』って」

「そっか」

「うん」

「・・・訊かないの?」

「え、何を?」

「・・・興味ない?」

「え、いや、だってそんな、人のプライベートな思い出・・・」

「姉貴だよ」

「・・・え?」

「子どもの頃は、そう呼んでたんだ」

「・・・」

「ほんっと、お前、一緒にいても一人で生きてるんだから・・・」

 黒井が何か言ったようだけど、あまり聞こえていなかった。

「そっか、・・・お、お姉さんか。あ、そう、お姉さん、ね・・・」

 それなら、話して、食べて、一緒に寝てたかもしれないけど、・・・セックスするわけない。すいませんお姉さん、黒井とさっちゃんがアレコレとか考えてすいません。

「ご、ごめん、その、どうせ数多いる女の子の一人かと思って、その、冷やかしたりして」

「別にいいよ。でも結局あんまし思い出せないし、やり直し!」

「え?」

「今は起きちゃったから、また昼寝するからね。どっちがアトミクな夢見るか、勝負だから」

 ・・・。

 それって、後で、一緒に昼寝するってこと?

 それで起きたら、どんな夢見たかお互い話し合うってこと?

 胸が一気に苦しくなって、うわずった「受けて立つ」に「上等!」で、互いの手のひらをパンと叩いた。



・・・・・・・・・・・・・・



 トーストとベーコンと目玉焼きで早朝のブレックファースト。

 今までマヨネーズや漬物しか入ってなかった冷蔵庫に意外といろいろ入っていて、ちょっと驚いた。

 こないだも肉やカット野菜が入っていたけど、何となく、そういう方向なんだろうか。

 依存がどうとか気にして、前は自分でやっていた、って、きちんとやるようになったんだろうか。

 きちんと食べてくれるのは嬉しいようでもあり、でも、それでは僕の出番がなくて困るような気もした。いやいや、だから、そういうのはだめだって。

「もしかして、お前風呂も自分で・・・」

「え、ううん?お前が来るの待ってたんじゃん」

「・・・あ、そう」

 いえ、やります、やりますとも。


 朝から風呂を洗う間、黒井は外に出て行った。

 昼寝のために、疲れてくるのだという。

 ごついスニーカーにキャップをかぶって、手ぶらのジョギング・スタイル。そんなのでも決まっちゃうから不思議だ。僕と何が違うんだ?いや、何から何までか。

「行ってらっしゃい」

「うん、そんじゃ」

 見送ってドアを閉め、僕は忘れていた昨日の分のスクワットをした。鍛えているというより疲労してるだけのような気もするけど、僕はこれ以上疲れなくたって十分眠いけど、まあやるべきことはやらなくては。


 ゴム手袋とビニール袋を装備して、風呂場へ。

 一人になってブラシを動かせば、落ち着いて考えられた。

 結局、飲み会の後感じた恐怖は、失う恐怖、というか、黒井に依存して、自分を全部そちらに預けてしまっていて、もしも黒井がいなかったら僕は本来の自分として一人で立てない、という恐怖だったのかもしれない。

 だって、最近の僕は、あいつに取り憑いた亡霊みたいだった。それは、本当についさっきまで。

 自然にわきあがる好きって気持ちじゃなくて、もっと、何か不自然な型にはまったような、ちょっとおかしな状態だった。

 まあ、それも、通常運転の僕なんだけど。

 あの時はどうかしてたんだ、なんて言い訳はしない。どこかへトリップしてたわけでもなく、一直線の地続きの自分だ。だからそれを<異常>として切り捨てることもしないし、そういうものでもない。

 ・・・あいつが、受け止めてくれたから。

 はやくきて、って、あの寝言もやっぱり俺に言ってくれてたの?

 疑似セックスだ、と思った。

 僕は黒井の上に乗っかって、あいつに僕を受け止めてもらって、それで、何ていうか、イったんだ。

 「かっこいい?」って訊かれて、本人の前で「世界一」なんて言っちゃって、もう、何かを出しちゃったも同然だ。男同士の気持ちの悪いそんな関係を、あいつは忘れるから、と約束して、俺のために「はやくきて」と手を広げてくれた。

 自分は訊かれないと「興味ない?」なんて勝手に話し出すくせに、俺の話は聞かずに「分かってる」なんて、まったく、そんなの・・・。

 無理だよ。

 あいつは、俺をおかしくして、そして、救ってくれるんだ。

 恋愛感情も、人間として誰かに愛されたいって欲求も、男同士だとかも飛び越えて、精神的に俺をいかせてくれるんだ。それは性的なそれであると同時に救済にもなっていて、すべてが洗い流されたような、その上で満たされたような、草原に一人で立っているようなすがすがしさと、もっと内にこもった深い満足感が一緒に訪れる・・・。

 タチが悪いな。

 そんなの、虜だ。しょうがない。

 いよいよ排水口の蓋を開けて、ふわりと、見覚えのある黒い点。

 ・・・。

 春に見たやつじゃ、ない。

 うちの風呂場にも一昨年涌いたやつだ。

 ・・・だめだ、だめだ、だめだって。

 せ、洗剤。いや、こんな中性洗剤じゃだめだ、カビキラー、いや、もっと濃いやつ!

 思考はまださっきの続きを紡いでるみたいだけど、身体はわなないて、手は震えるし、何も見ていなかった。後から自分が「死ね、死ね」とつぶやいてるのに気づいて、はは、やだな、と笑った。


 

・・・・・・・・・・・・・・



 ハーフパンツのままサンダルとパーカーを借りて飛び出し、ドラッグストアはまだ開いてないから、コンビニを回った。小さくても高くてもいいから、パイプの髪の毛を溶かすやつ、あれが効くんだ。

 適当に通りを駆け回っていたら、向かいの道路に黒井を見つけた。

 ・・・。

 ・・・走ってる。

 あ、当たり前だ、ジョギングに出かけたんだから。

 トラックの陰に隠れ、そのあと角を曲がってしまったのか、見失った。

 ・・・あいつは、あんな風に走るのか。

 偶然街で好きな人を見かけたという以上のざわめきがあって、後から、それがなぜか分かった。

 羨望。

 僕は必要に迫られなければ走るなんて行為はしないし、っていうか出来ないし、うちから駅までだって走らなくていいように早めに起きている。

 スクワットくらいは出来ても、何キロも、何十分も走り続けるなんて無理だ。いくら曇ってたって、こんな、七月に。

 当たり前みたいにそういうことが出来るやつを、自分はインドア派だから、などと見ないようにして、でも、本当は羨ましくて、そしてみじめで、怖かった。

 あいつは出来る方の人間なんだ。

 そりゃ、そうだろう。サッカーが出来て、演劇部だなんて、僕とは違う人種だ。

 どうにもならない壁は、うん、どうにもならない。

 部屋に戻って今日の分のスクワットもやろうかと思ったけど、取って付けたようなあからさまな行為が嫌で、やめた。黒井はこういうコンプレックスみたいなものは、顔にしろ身体にしろ、ないんだろうなあと思うと、そんなのいったいどんな人生だって、壁の次は溝を感じる。はは、溝に壁を突っ込んでフラットにして忘れようか。一緒にマラソンとかは無理でも、ベッドの上の体力くらいは・・・ああ、それで足がつらないようにスクワットを始めたんだったね。ええ、頑張ります。いつの日か、いつかのその日までひたすらやれば、きっとご迷惑はかけません。

 ・・・何もないままムキムキになったらどうしよう。

 そんな自分は想像できなくて、そして、そういう想像も出来ないようなムキムキやモテモテになることってないから、きっと大丈夫だろうと意味不明な安心をした。でもそれから、黒井と一緒にいることだってそもそも99%ないはずの事態だったと思い出し、そういうことって起こりうるのかと、やっぱり不安になった。

 コンビニの棚に見つけたそれを手に持って、はは、頭からかぶろうか、馬鹿が溶けるかも。

 でも、容器の<髪の毛を強力に溶かす!>の文字を見て、いやいやダメだと首を振ってレジに向かった。ハゲで童顔のムキムキとかだめだって!!

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