第218話:ノーカウントのキス

 ベッドの軋みで起きてしまうかな、と思ったけど、黒井は「んん・・・」と息を漏らしただけだった。しかし、少し動いて、また寝返りを打って向こうを向いてしまうかと思ったが、そうはならなかった。

 向かい合う格好で横になっている僕の首に、腕が伸びてくる。

 まるで抱き枕みたいに、片足が乗っかってくる。

 再び「ううん・・・」と声が漏れ、今度は聞き取りにくかったけど、もう一度「はやく・・・」と。

 ・・・来たよ、俺だよ、やまねこだよ。

 こんなに、近いんだ。気づいてよ。

 そして、その顔が更に近づいてきて、おでこがくっついた。

 ・・・どうしよう。

 触れているおでこが、熱い。

 本当に、息がかかるほど近くて。

 さっきのはただの寝言で、そして、本当に僕の夢を見ているとしたって、夢に意味なんかないってついさっき考えてたのは自分で、だから、首の後ろに回された手が僕の後頭部をやや引き寄せるように添えられたのだって、寝ぼけてるだけなんだって・・・。

 ・・・キス、されちゃいそうだよ。

 「んんっ・・・」って漏らすその息が、唇にかかってるよ。

 俺のことじゃない、きっと誰か、女の子と間違ってるんだ。

 そのうちまた言うよ。女の子の名前をつぶやいてキスされるくらいなら、カーテン開けて出て行ってやる・・・!

 ・・・いや、もうそれでもいいや、キスされたい。お願い、して。


 でも、本当に「・・・さっちゃん?」と言われてしまったら、結局僕は、ゆっくりと黒井の腕から抜けて、ベッドを降りるしかなかった。黒井がまた「ううん・・・」とうなるので、「おれはさっちゃんじゃないよ」と小さくつぶやいた。それに対する返事はなかった。

 

 さっちゃん、っていうのか。

 幸子?早智子?それとも紗奈とか沙綾とかそういう?

 別に、昔の女の名前を寝言でつぶやいたから、何だっていうんだ。

 僕は男で、恋人でもなくて、突然押しかけて強引に泊まらせてもらってる、ただの同僚だ。

 ・・・帰ろうか。

 始発、まだ動かないかな。

 ああ、でも、書き置きしてもだめなんだっけ。

 約束は、守らないとね。黒井が悪いわけじゃない。ましてやさっちゃんも悪くない。

 <彼女>じゃないそういう相手が少なくとも数人はいたのだろうが、しかし、こうして寝言で生々しくそれを聞いてしまうと、嫉妬というよりは、何だか急に黒井が知らない人みたいに思えた。

 ・・・これだけ、イケメンで。

 その上あの笑顔で、「ねえ」なんて親しげに話しかけてくるんだ。

 寄ってくる女がいないはずがなくて、そのうちの何人に手をつけたのか、黒井はノーマルなんだからそんなの分かったもんじゃない・・・。

 ・・・僕なんか。

 僕なんか、いらない?

 さっちゃんの方がいいよね。セックスできるし。

 彼女はいないって思ってたけど、ああ、まさか、告白して両想いで付き合ってる相手がいないってだけで、ここに通ってくる女の子がいたりするの?

 今のところ、部屋を見る限り、甲斐甲斐しくアイロンをかけたり、調味料をどんどん増やしたり、風呂を洗ったりする子じゃないみたいだけど。

 ねえお願い、教えて。

 お前にとって俺って何?

 お前は俺のこと、どれくらいの重さで感じてるの?

 ねえ、そこに置いてあるスマホの履歴とか、アドレス帳とか、全部見ちゃいたいよ。

 唇を奪って、「俺だけでしょ!?」って首を絞めたいよ。

 居場所がなくてここに来たのに、とんだ勘違いだったね。

 寝言でやまねこって言われて一瞬心臓が止まったのに、馬鹿みたいだね。

 でもさ、勘違いついでに言うけど、きっと、さっちゃんより僕の方がクロのこと理解してるよ。男女の関係じゃなくたって、だからこそ、同性の黒井のこと、分かってるつもりだよ。

 それに、さっちゃんともキスはしただろうけど、少なくともアトミクを一緒にやる相手は僕だけだ。さっちゃんもアレをしゃぶって、飲んだかもしれないけど、僕の方が・・・。

 ・・・いや、うまい、とかじゃなくて。

 僕の方が、何ていうか、運命的な相手だ。

 分かってる、分かってる。そんなちゃっちい言葉で切り抜けたいわけじゃない。それはただの表面的な分かりやすいキーワードってだけだよ。そうじゃなくて、もっと深い部分で、僕は何かを感じてるんだ。

 たとえば。

 そう、あの石がそうだ。あの魔法の石。僕が子どもの頃持ってたそれと瓜二つってわけじゃないけど、僕のは水色っぽくて、もらったのは緑っぽいけど、でも色や形や大きさなんて関係ない。魔法の石だって思ってた相手が、ふいに、理由もなく僕に石をくれたんだ。偶然見かけた貼り紙で、来場者プレゼントがもらえないとなったら欲しくなって執念で手に入れたそれだ。しかも、三種類のうちのランダムな一つで、確か他のは水晶とアンモナイトだっけ?うん、水晶かアンモナイトだったら、僕はそれを魔法の石だ、とは思わなかっただろう。

 そして、その後食事に行った、チケットをあげたおねえさん。

 彼女と結ばれていたら僕の命運も尽きていたわけだけど、そうはならなかった。

 カウンセラーを名乗った彼女は僕と黒井を共依存の関係だなどと言い、僕はぎりぎりそれを論破して黒井を取り戻した。

 ・・・少なくとも僕が黒井に依存しているというのは、いや、依存というか、何か別の重たいものを投影して没入してるというのは、当たっていたわけだけど。

 精神分析、か。

 ふと目の前の本を見る。そう、ユングがパウリを精神分析する話だ。ハイゼンベルクの親友で、僕が無意識に共感し、自分を投影していた物理学者。完璧主義のメランコリーで、心理学と物理学の融合を垣間見る・・・。

 他にも、あった気がする。

 何だっけ、精神科医、共依存、いや、共感、エンパス能力・・・。

 ああ、まだ連続殺人鬼じゃない優秀な精神科医、ハンニバル・レクター博士のドラマだ。

 その、たった何分かの予告編に見とれて、胸がぞくぞくして、どうしても欲しかったのに英語版しか出てなくて・・・。

 その後、ストーカーよろしく黒井のマンション、つまりここまで来て郵便受けをあさり、公園でゲリラ豪雨に打たれて帰った・・・。

 何だか急に、まるで違う人間の人生のある時期を切り取って見ているような気分になった。

 そして、この一連の流れの始まりはあの、最初の耳鳴りの瞬間だと、直感的に思った。

 耳鳴り、妊娠の告白、悩み続けた<ごめん>のメール。

 忘れていた研修の<冷たいところがある>、石、シングルマザー、そして<おねえさん>と共依存。

 二度目の耳鳴り、自己分析の結果分かった自己欺瞞、雷、雷、<ハンニバル>、ゲリラ豪雨。

 夢、黒井の前を歩く、夢、そしてユングと、寝言の<さっちゃん>。

 出てくる女性たちはみな僕に何かを告げているように思える。僕の中の欠けた何か、黒井に対する異常なまでの執着、自傷欲求と性欲求・・・。

 ユング曰く、アニマとアニムスだって?僕の中の女性性と男性性?

 佐山さんは、男の僕に妊娠は出来ないとつきつけるし、そしてまた、妊娠してもなお本当には結ばれないと教えてくれている。

 渡辺さんは僕の冷たさを指摘してくれていたし、おねえさんは僕の依存とイカれた身体を見抜いていた。さっちゃんが誰だかはわからないけど、初めて聞いた、名前のある黒井の過去。たぶん演劇部の時の同棲してた女の子あたりだと思うけど、イメージとしては<おねえさん>のそれに重なった。そして、ああ、そうだった、僕は<おねえさん>になりたくて、それが<マヤ>だったということにも気づいた・・・。

 石と雷と豪雨は、僕を元の道に戻してくれているようだった。物質や放電現象や急激に発達した低気圧は、女性たちと違って何も怖くないし、心が落ち着く。

 そして、精神分析。

 ふと、思った。

 飲み会がつまんなくて、押し掛けてきた同僚、じゃない。

 物理学を一緒に学ぶ仲間、でもない。

 男のお前を好きになって、っていうのももう、超えている。

 胸がぎゅうと締まる。

 もう、そんなんじゃないんだ。

 いつからなんだろう。

 最初からそうだった気もするし、でも前はもっとふつうの恋心だった気もする。

 好きだとか嫌いだとか、そんなことじゃないんだ、もう。

 お前は俺のすべてなんだ。

 いや、キザでロマンチックな意味じゃない。依存して中毒になってる、けど、もっと暗くて深い。

 あえて言うなら、僕の中の集合的無意識の海はどろどろに溶けたお前で、僕の根幹はそういう成分で出来ていて、それを知らない僕がどうしても生身のお前を求めてしょうがないけれども、なぜかは分からなくて恋だ依存だと首をひねっている・・・。

 怪談みたいだなと思った。

 胸が締まる感覚は消えて、もう少し下、腹の辺りが沈み込むように重くなった。

 俺は亡霊だ。さまよう幽鬼だ。

 おかしいな、キスされて嬉しかっただけなのに。

 お前と死ぬしかないのかな。

 無理心中する人とか、ストーカー殺人とか、犯人ってこんな気分?何冊ミステリを読んで、何人の犯人を推理して逮捕してきたとしても、こんなふうに、「えっ、これのこと?」なんて思うもんだな。うん、お前が246の上を走ってるのが何なのか、毎日見ながら考えもしなかったみたいに。

 そして、何だか、何の違和感もなかった。

 このまま黒井を監禁したり、ナイフで刺してくれって頼んだりして、ごく当たり前の会社員生活からフェードアウトするんだろう。僕は元々そういう人間なんだ。いや、マスコミは部屋をあさって、猟奇殺人に関する本が大量に・・・とか言うかもしれないけど、そうじゃないからね?本を読んだせいで影響されたなんてのは全然なくて、ただ、僕の本性がそういうものを引き寄せてただけであって、単なる必然なんだよ。

 きっと最初からこうしたかったんだ。

 それにしても、どうしてその対象が黒井彰彦で、あの瞬間にそう思ったのかって、まだ分からない。

 でもきっと、死ぬときにはわかるでしょう。

 ああ、なんだ、って、腑に落ちて、納得できるでしょう。



・・・・・・・・・・・・・・・



 夜明け前。

 トイレで小便を済ませ、部屋の電気を消して、カーテンから漏れる淡い光の中、あらためてベッドに入った。

 寝ている黒井の髪を撫でる。

 起こさないよう、ゆっくり、優しく。

 この手の中にいると思ったら、満ち足りて、笑みが漏れた。

 俺の、クロだ。

 一緒になったら、完璧な俺自身になれる。

 おでこに、キスした。

 あたたかく、わずかに汗ばんでいて、いいにおいがする。

 週末、俺に連絡しなかったり、朝も気づいていながら声をかけなかったり、きっと、怖かったんだよな。

 俺のことが。

 気づいてるんだろ?そろそろ。

 お前だって俺がいなきゃ生きていけないくせに、でも、俺のことが怖くなったんだ。

 だから、あの<おねえさん>に言われて、その後も引きずってたんだよ。あのあたりから、少しずつおかしくなった。お互い、本当は気づいてたんだよ。

 俺たちは、女相手じゃ、どうにもならないんだ。

 お前も、その<さっちゃん>と今一緒にいないのは、だから、そうなんだよ。お前はどうも女のことを馬鹿にして見下すところがあるし、告白もしたことないとか、たぶん女とうまくやっていけないんじゃないか?

 俺じゃなきゃだめなんだ。

 そうだろ?

 ・・・。

 衝動を、抑えた。

 何もしないよ、お前が起きるまでは。

 ずっとこのまま、こうして見てる。

 見られるのは嫌いだけど、見られる心配もなく一方的に見つめるのは好きだ。

 そのまぶたの下で、眼球が動いている。

 Rapid Eye Movement、高速眼球運動。

 レム睡眠中ってことだよね。今、夢を見てるんだ。

 ・・・。

 まぶたを開けたら、目玉が動いてるのかな。

 右、左、右、左・・・。

 ちょっと怖い気がした。そういえばどうして目ん玉が動いたりするんだろう?そんな筋肉使って睡眠中に何をしてるんだ?

 逆、か?

 夢を見てる時、プリンターのインクが紙に印刷するみたいに、緑の光がスキャンするみたいに、視覚野と眼球が連動して動いてしまうのか?

 まあ、どっちでも、構わない。

 ゆっくりと上下するその胸の上に手を置いて、心臓の鼓動を確認した。

 俺のクロが、きちんと自発的に心臓を動かして、生きている。その心臓で三十年間生きてきて、まだまだちゃんと動いている。

 一緒に、取り戻そうな。

 ここに、それを。

 お前の喪失は、俺の喪失でもあるんだ。

 俺のここにあの魔法の石を埋め込むみたいに、お前のここには、流れ星を埋めてやろう。

 ああ、星を、見たいよね。

 一緒に見よう。俺だってお前と見たかったんだ。



・・・・・・・・・・・・・・・



 僕は暗がりの中、部屋の中を探して、苦労してベッドの下にホーム・プラネタリウムを見つけ、それをつけた。

 音をさせないよう、変な体勢でじっとしていたせいで、ベッドにゆっくり仰向けに寝ると背中が伸びて気持ちがよかった。

 そして、天井には満天の星。

 ・・・ああ。

 素敵だ。

 まるで小舟に乗って、ゆっくり川を下りながら見上げているみたい。

 どんどん夜が明けてきて、うっすらとぼやけていくそれを、黒井の隣でずっと見ていた。

 残念ながら僕には流れ星は見えなかった。でも、それでいい気がした。

 ・・・。

 ねえ、俺のこと好きって言って。

 愛してるって、身体で教えて。

 ・・・分かってるよ、誰かに愛されたいだけなんだ。

 本当に、頭から丸ごと、受け入れてほしいだけなんだ。

 

 プラネタリウムを切って、ベッドに浅く腰掛けた。

 それから、もう我慢できなくなって、僕は黒井の唇に、触れるだけのキスをした。

 顔を、近づけて。

 息を止めて。

 しっとりとあたたかい唇に、自分のそれを合わせる。

 思わず息を吸い込んで、後は、黒井の呼吸に合わせて静かに呼吸した。

 顔の左右に置いた腕が、だんだんきつくなってくるけど。

 目を閉じて、一緒に息をしているうちに、少しずつ、気持ちが溶けて、楽になっていった。

 興奮する心臓と、僅かずつしか呼吸が出来ない肺で、胸は苦しい。痛いほど。

 でも、それでも、どうしてだろう、何かが溶けていった。そう感じた。

 ・・・これは、ノーカウントだ。

 お前にされたんじゃないし、同意の上でもないから、回数には入れないよ。

 ゆっくり、唇を離した。離すことが出来た。

 胸いっぱいに空気を吸い込んだら、黒井が、静かに目を開けた。

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