第67話:まな板の鯉は甘い痛みに耐える

 顔を拭いて、襟の濡れた上着を脱いだ。

「着替えれば?汗、かいてる」

「う、うん・・・」

 ・・・み、見ないでくれる?

 っていうか、どうして、・・・帰ってきた?

 黒井は勝手にクローゼットを漁り、新しいシャツとトレーナーを引っ張りだしてきた。それと・・・パンツも。

 病院帰りに風邪を引いた友人を、放っておけなかったから?

 アイロンの、お礼とか、言ってた?

 ああ、お前、新しい彼女を作るって話、だった・・・。まさか、もう出来たわけじゃないよね。それで上機嫌なんてこと、さすがにないよね。

 いつの間にか、カーテンを閉じた部屋に、ランプがついていた。あれ、そんなのどこから出してきたんだ?いつから、ついてたんだろう。まだ頭痛がして目が痛いから、蛍光灯じゃなくてありがたかったけど。

「あのさ」

「うん?他のがよかった?」

「あ、いや、・・・今何時なの?」

「えっと、六時、半くらい」

「・・・朝?」

「まさか。夕方だよ」

 黒井はランプの隣で、たぶんコンポとやらの説明書を読んでいた。

「お前、出てった・・・何でまた、いるの?」

「だから、買って来たんだよ」

「・・・お礼?」

「うん、まあ」

「ありがとう・・・それで?」

「え?」

「・・・彼女が、どうとかって」

「ああ、それ?」

「何でまた、ここ、来たんだよ」

「・・・もう、いいかって。どっちでも」

「うん?」

「いたって、いなくたって、関係ないかって。それとも・・・」

「うん?」

「彼女・・・に、なったら。お前が、それで、付き合ったら・・・変わっちゃう?俺とはもう・・・」

 うん?どういう意味?

 お前が彼女を作ったら、僕との関係が変わるかってこと?彼女持ちとはもう遊んだりしないかって?

 あれ、それとも、もしかして、僕と藤井が付き合ったらって意味か?

 ・・・まあ、どっちでも、同じか。

「・・・別に、付き合ったって、変わらない、よ。今までどおり、遊んだり、バカやってれば、いいじゃん。たまには、相談とかも、乗るし、さ・・・」

 嘘ばっかり。

 いや、嘘ってわけじゃないけど。

 お前が誰と付き合ったって、この気持ち、簡単にはおさまらないから・・・今までどおり、会えるなら、会っちゃうんだよきっと僕は。でも。

 見えてる行動は、変わらないけど。

 たぶんお前の気持ちが全部彼女に向いてたら、その時僕は・・・どんな痛みに襲われて、どう耐えていくんだろう。今はまだ、想像が、つかないな・・・。

「・・・で?早速あてがあるわけ?色男くん」

「え?」

「<イナイ歴>に終止符打つんだろ?」

「・・・誰が?」

「お前がだよ」

「は?」

「・・・何だよ、彼女作る決心、したんだろ?」

「誰が?」

「・・・だから、お前がだよ」

「お前が、でしょ?」

「はあ?何か、噛み合ってないな」

「俺はその・・・藤井って子の話を、してんだよ」

「あ、ああ、そっち、なの?」

 あれ?

 そうなの?

 ・・・彼女が、羨ましいって、彼女って藤井のこと?いや、だからそれで、彼女ってものが羨ましいって話で・・・。

 え、付き合うとか、両想いとか、誰の話をしてたんだ?黒井が<俺もう、遅いの?>とか言ってたのは、何の話?

「ごめん、さっきはちょっと、半分寝ちゃってたかもしれなくて・・・」

「う、うん、あれ・・・何か、わけわかんないね」

「お前が、彼女が欲しいって話・・・」

「違う、お前の、彼女の話」

「いやだから、昼間だって、それで彼女の真似事なんか・・・」

「え?いや、だから俺そういうの無理だって・・・」

「だから、それは俺だったから」

「うん、そうだよ?」

「・・・だから、ちゃんと女の子とデートしろって話」

「俺が?」

「もう!いい加減にしろって・・・」

 喋りすぎて、力なく咳き込んだ。まだ熱、あるんだって。

 黒井が僕の背中をゆるくさすりながら、言った。

「・・・お前とはさ、あんなデートしたって、意味ないよね」

「だからさっきから、そう言ってる」

「分かってるなら、分かるでしょ?」

「・・・」

 相変わらず、よく分からなかった。

「・・・服、着替えたら」

「・・・そう、だね」

 僕たちはずっと、いったい、何の話をしてたんだろう。黒井は僕とデートしても意味がないと言い、しかし、じゃあ彼女を作ってデートしたいという話でもないらしい。彼女というのは藤井って子の話、って、まさかお前が藤井と付き合うって話をしてる?いや、違うか・・・。

「ほら」

 僕がパーカーのファスナーをおろすと、黒井が後ろから脱がせた。な、何だか、恥ずかしい、けど・・・。

「ね、ねえ、結局何の話だったの?ベ、別にお前が誰と付き合おうが、俺には関係ないけどさ・・・」

「うん?俺だって、そうだよ」

「じゃあ、俺と、お前の、何の、話・・・?」

 そのまま、長袖のシャツも、上に引っ張られて。仕方なく両手を上げて、脱がされてしまう。火照った素肌が、空気にさらされて。

「別に、同じだって、話。・・・俺も、お前も、変態だって」

「・・・は、はあ?」

「ねえ、そのお腹にさ、書いてもいい?」

「な、何が?」

「俺の、なまえ」

「え?いきなり、な・・・」

 上半身裸になった僕の前に回り込んで、左手で僕の胸を押して寝かせると、黒井は右手に持った何かで、僕の腹に・・・へその横、あたりに・・・。

「い、いたっ」

「じっとして」

「な、なに?」

 よく分からないまま、僕は、腹を割かれるような鋭い痛みに耐えた。ああ、これだ。まな板の・・・。僕はもうそれ以上何も、問いただすこともなく、横たわって静かに耐えた。本当は両手を縛ってほしいけど、それも言い出さずに、黙って歯を食いしばった。

 ああ、だめだな。お前なら・・・。

 痛みも、気持ち、いいんだ・・・。

 僕は一度口を開いて力を抜き、そこへ右手の人差し指を差し込んた。そしてそれを強く噛みながら、その歓びを甘受した。



・・・・・・・・・・・・



「できた」

 無邪気にそう言って、「見て見て」とせがむので、僕は体を起こした。ランプを近づけて、腹を見下ろす。赤く細い線が刻まれていた。

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 何だこれ?

「なに?」

「くろって、書いた」

 ああ、反対か。

「・・・何で?」

「これで」

 黒井は持っていた小さな銀のものを手渡した。え、カミソリ?一瞬ぎくりとしたが、それはさっき飲んだバファリンのカラだった。角が尖っていて、指に強く当てると、針が刺さったような感じ。僕が今しがた噛んでいた、右手の人差し指を切ったのと、同じもの。

「あ、いや、何でって、どうしてって意味」

「やってみたかったから」

「・・・そう」

 少しひりひりするような気もするけど、もうほとんど痛みは感じない。・・・終わっちゃった。たったの、一分?三十秒?ひと晩もこの痛みに耐える準備をして風邪まで引いたのに、たったの、これだけ?

 ・・・本当にカミソリでも、よかったのに。

「・・・俺はさ、クロのこと、カタカナで呼んでたよ」

「え?」

「いや、何となく、黒犬のクロは、カタカナじゃない?」

「あ、そうか。曲線が、難しかったんだよね」

「これじゃ数字の3か、シグマみたいだ」

「・・・シグマは逆だよ?」

「そうだっけ」

 タオルで寝汗を拭って、黒井が出してくれた新しいシャツを着た。もう一度、裾をまくって刻まれたものを見る。自分の腹を見て、腹がひゅうと透けた。こ、これって、お前は俺のもの的な、意味で、書いてあるの?いや、気まぐれだって、分かってるけど・・・。

「ちょ、ちょっと、トイレ・・・」

 僕は出してくれたパンツとズボンを持って、やたらに重たい体を引きずって部屋を出た。目の前で、上はともかく下までは着替えられないよ。

 脱衣所でジーパンを脱いだ。ああ、熱が出てるときにジーパンのまま布団で寝るもんじゃない。このままシャワーを浴びたいけど、さすがに控えるか。とりあえず寝間着に着替えて、下着も替えて、気分が落ち着いた。相変わらず体が電熱器みたいだけど、さっきよりはマシだ。

 トイレでふらつきを我慢しながら長い小便をしていると、「ねえ!お腹空いたー?」と部屋から声。「う、うん・・・」とつぶやくけど、聞こえるはずもない。大声なんか、振り絞っても、出てこないよ。

「俺さあ!ピザ!食べたい!」

 ・・・え?ピザ?

 僕は、おかゆか、うどんが、いいな・・・。

 ・・・いいよ、ピザで。

 手を洗ったら水が冷たくて、痛かった。手も、腕も、太もも辺りも、いつもより皮膚が一枚剥けてるみたいに、触っただけでヒリヒリしていた。

 ゆっくり、引きずるように歩いて部屋に戻る。部屋には見慣れない箱と、ランプと、黒井。

「俺の好きなのでいい?」

 黒井はスマホの画面を指先でサラサラ動かして、何だか濃ゆくて重たそうなピザを選んでいた。うん、もう、何でも、食べるからさ。

「いいよ、好きにして。・・・っていうか、お前、ここで・・・」

 夕飯、食べていくってこと?

「あ、大丈夫だよ。心配しないで。俺、ちゃんと」

 ・・・泊まるから。

 き、聞き間違いじゃ、ないよね・・・。

 僕はふらついて、また布団に倒れ込んだ。



・・・・・・・・・・・・



 しばらく寝ていると、やがてピザが届いた。ノックの音と、何やら配達員の声。黒井が受け取りに行って、うわあ、すごいピザの匂いとともに部屋に帰ってきた。

「腹減った、食おうよ!」

「そ、そうだね・・・」

 何とか体を起こし、床に置かれたピザを眺める。何で、二枚も、あるわけ・・・。

「あ、あのさ、クロ」

「何?」

 まあ、何枚あっても、いいや。

「そういえば、何でチャイム鳴らさなかったんだろう」

「え?だってお前んち、壊れてるもん」

「・・・そうなの?」

「だから俺、朝だって、たくさん叩いて手が痛かった」

「あ、そうだったのか・・・。俺、てっきり、変な人か怖い人かと思ったよ」

「え、ひどいな。お前のために、朝から迷子になりながら、やっとたどり着いたのに」

 そうか、黒井が一人で来るのは初めてだ。前は、僕と、マヤと一緒だったわけで。

「それは・・・ありがと」

 下を向いて、赤面。まあ今は、元々赤くてわかんないか。


 それから、二人で、ピザを食べた。食欲なんてなかったけど、胃もお腹も痛くなりそうだけど、一緒に食べた。だって、お前と一緒に食べてるだけで、嬉しいんだもん。さっきはもう、出て行ったと思ったから。昼だって、駅で同僚に戻ってバイバイすると思ってたから・・・。

「・・・な、なに?」

「えっ」

 気づいたら、ぼうっと黒井を見つめていた。無意識に、その三角のピザが口に入って、咀嚼されるところに、見入っていた。

「ご、ごめん・・・ちょっと、ぼうっとしちゃって」

「あの、お前さ。そろそろ、時間?」

「え?」

「薬・・・」

「あ、そうか。忘れてた」

「俺さ、実は、買って来たんだよ。薬局で」

「え?そうなの?悪いね」

「その・・・添乗員、じゃなくて・・・」

「・・・薬剤師?」

「そうそう。熱のこと話したら、これがいいですって、勧められて・・・」

「ああ、そう。じゃ、あとで、飲むよ」

「・・・飲むんじゃ、ないけど」

「え?」

「あ、いや。ほら、今は、食べてるから」

「ん?・・・うん」

 薬を飲むなら、もう少しだけ腹に入れとくか。僕は少し無理してもう一枚頬張ると、何とか自力で立ち上がって、水を汲んできた。

「その薬、どこ?」

「え?・・・あ、あとで、俺が」

「・・・そう」

 まあ、黒井が食べ終わるまで、待つか。

「分かった。ちょっと俺、横になっててもいい?」

「ああ、いいよ。布団に、入ってて」

 布団に入ると、食べたせいか少し眠気に襲われて、やがて眠ってしまったみたいだった。

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