第66話:幻覚の詰め合わせと口移し

 いつの間にかしんとして、もう僕はそれを感じられないようだった。

 部屋には誰もいなくて、「分かった」とか「そうする」とか、そんな言葉の残響だけが漂っていた。そういえば、さっき、出て行ったんだっけ。

 薬が、効いてきている。

 カン!とか、ざくざく、とか、いろんな音がする。いつもの幻聴。自分の思考の声が頭蓋骨の内側にこだましてうるさい。うるさい、うるさい、「うるさい」って声が、うるさい!!


「お前はそういう相手じゃない。こんなことする相手じゃないんだよ・・・」


 ふいに、言われた。あれ、クロ、まだいたんだ。隣・・・ブーツが見える。何だ、裸足で帰っちゃったの?え、ブーツの先に、足はあるの?

 よくわかんないけど、とにかくその、靴ひもとか、縫い目とか。じっと見つめて、ああ、さっき見てたから、覚えてるんだな。あの時は、日差しがまぶしくて、アスファルトの上のお前の足が・・・あれ、ここは、部屋の中だ。

 目を開けているのかいないのか、本当はどっちか分からない。僕は上体を起こして部屋を見回すんだけど、たぶん、きっと何もしてない。寝てるだけだ。

 部屋の中には、ブーツと、さっきかけたCDプレイヤー。スイッチを押すと、イヤホンから「ピッ」と音が漏れて、ぶうんとCDが回った。僕は両耳にイヤホンを突っ込んで、また横になった。ほら、現実じゃないんだ。だって、ちゃんと両方から聴こえるもん。

 知らない曲が、どんどん続く。これたぶん、僕の頭の中で勝手に作られた曲。なかなか、センスがいいね。まあ、何かの記憶を繋ぎ合わせてるだけなんだろうけど。

 それにしても、かっこいい曲だ。知らないんだけど、口ずさめる。そのそばから忘れるけど、曲は続く。繰り返しも破綻もなく、先へ先へ、旋律は続いていく。

 人生、みたいだ。

 知ってる気がするけど知らない曲が、まさに今この瞬間も流れ続けているみたいに。

 似たような感じを知ってるけど、今まで起こったことの録画ではない新しい現実が、毎秒僕に訪れている。

 この一ヶ月、ずっと、今みたいな、知らない曲を即興で作り続けてる感じだった。音楽の才能なんてないのに、楽器なんか触ったこともないのに。どんな記憶も経験も能力も頼りにならないのに、ピアノの前に座ってしまって。それでも、出てくる何かを指先で叩きつけ、止まることなくひたすらに、弾いた。

 ほら、今だって、曲は流れ続けてる。それに集中すれば、いくらだって細かく聴き分けられた。メロディも、リズムも、分解して、色分けして、点や線で可視化できる。Windows Media Playerの視覚エフェクトみたいに、リズムに連動するカタチが動いて、それは心電図みたいに記録され続け、立体になる。針の先は点だけど、紙にインクが乗れば線になって、それが集まれば、3Dプリンターみたいに立体を形作る。そのカタチが、音じゃない形式で音楽を表していて、でもそれは単なるイメージ図じゃなくて立体の楽譜みたいなものだから、手のひらをあててプログラムから開けば、ほら、別の曲だって流れ出す。

 カタチが、部屋に、たくさん転がっていた。

 積み木みたいに。マネキンみたいに。

 単純な塊も、複雑なオブジェみたいなものも。

 今日見た街路樹のような、細かい枝先とかも、石膏で取ったような正確さで、旋律が詰まっている。

 どんなものも情報としてそこにあって、僕に再生されるのを待っている。

 どんな、未来も。

 どんな、人生も。

 だからきっと、どれを選んだって同じだ。再生するプログラムが同じなんだから、音質だって機能だって、とびきり上等になるはずがない。どんな曲だって、僕が読み取りながら即興で変換し、いつもポンコツだから一拍遅れて流れ始める。すごくノっている時もあるけど、たまにはいっぱいいっぱいで、変換も間に合わなくて、ループしたり、バカになったり。

 それでも、新しい、曲なんだ。

 一度として同じものは流れなくて、でも今までは似たような曲を、つまり似たような形ばかり選んで手に取ってきた。シンプルで、持ちやすくて、少しだけ尖った部分がある積み木たち。

 でも、それを、お前が。

 黒井がどんどん、投げて寄越したんだ。なじみのある形も、手を出したことのない形も、僕の再生機能を超えてたってお構いなしで。

 今までそういうのって、嫌だった。他人から投げつけられても、無視するか、はね返していた。でも、あいつが寄越したものならそれでもいいって思えたから、そうした。そうしたかった。

 お前に、あの懐かしさを、あの確信を、感じたから。

 本末転倒かもしれないけど。

 それはこの一ヶ月を経て、徐々に感じ始めたものなんだけど。

 でも、あの時・・・。

 あの忘年会の夜、お前にスーツの裾をつかまれた瞬間、それは発動したんだ。お前と親しくなって、だんだんとそういう親密さまで感じるようになったんじゃなくて。

 もう既にあの時、それは完成して完結していて。

 それを少しずつ、断片的に、こうしてたまに理解していく。あの時既に完成していたパズルがばらばらになったのを、少しずつ拾ってまた合わせてるみたい。完成形の絵柄は、きっと知っているけど、思い出せは、しなかった。

 現在進行形で、過去まで作ってるみたいだ。

 今そこに転がってるカタチを、手に取って再生する。少し冷たい、意外と軽い、プラスチックの感触。こっちは、ガラス。こっちは、ステンレス。

 ありえたかもしれない、人生。いっぺんに全部を奏でられないから、今までは、一つずつお前から受け取ってきたけど。

 お前が出て行ってしまったから。

 もう、全部、見てみようか。

 僕の部屋に転がっている、選ばなかった僕の未来。

 お前から受け取らないなら、でも、停止してしまうわけにもいかないんだから、どれかを選んでかけるしかない。

 ふつうは、いっこ、なんだけど。

 今なら、どんどん、重ねていける。薬で配線がおかしくなって、一つのプログラムでも、何曲だって、同時再生出来てしまう。

 プラスチックとガラスをそれぞれ両手に持って。

 いっしょに再生したら、くっついて、気持ち悪いカタチになった。

 そこにステンレスを押し当てて、ぎゅうぎゅう差し込んだら、三つ目の曲も流れ出した。

 ああ、編集タブで操作しなくたって、乱暴にドラッグアンドドロップで突っ込めるんだ。

 持ってるカタマリを、別の、クッションみたいなカタチに向けて投げつけた。思いっ切り投げつけてるんだけど、まあ、現実じゃないから、あんまり力が入らない。仕方なくしゃがんで、布地を切り裂いてぶち込む。ああ、うるさい、うるさい。不協和音が重なって、もう、気持ち悪い!

 元に、戻んないよ!

 そのカタマリに触っても、もう離れないし、音の振動で、ぶるぶる、ガタガタ、僕の腕まで震えてくる。ぐちゃぐちゃの振動が腕のケーブルを通って、体の中まで掻き回していく。

 うるさい、うるさい!耳が、頭が、おかしくなりそう!音責めの拷問って、こんなのを、ヘッドホンで?更に音量は上がっていって、むり、むり、息が出来ない、はやく止めて!!

「・・・て・・・とめて!!!」

 力いっぱい床を叩いて、ああ、声が出せたから、金縛りみたいのが解けて、静寂。

 ・・・僕の、息だけ。はあ、はあ・・・おさまった。目を開ける。暗い。ああ、部屋で、寝てたのか。眠れてはいないけど。

 しばらく息をついて、ぼうっとした。ああ、これは、ひとつの、現実・・・。僕が選んだ、ひとつの曲に、収束、していた。

 さっきまで部屋をうろついて何かを集めていたんだけど、やっぱり僕は布団から一歩も出てないみたいだった。あれ、手だって、胸の上にある。床なんか叩いて、なかったんだ。

「・・・止めたよ」

 突然声がして、気配がした。誰か、いる。

「うるさかった?ねえ、大丈夫?」

 暗い部屋の中に、誰かがいた。立ってはいない。その辺に、座っている。ええ、と?

「・・・だれ?」

「俺だよ。お前の、黒犬」

「うわ」

 声が近づいて、顔の上にどさっと何か落ちてきた。毛糸?それがどかされると、目の前に、ぼんやりと黒井の顔。

「くろいぬ・・・何で、帰ってきた?」

「アイロンのお礼」

「へ?」

「コンポ、買って来た。重低音、すごいよ」

「・・・はあ?」

 そのまま冷たいおでこが降ってきた。しばらく合わさって・・・気持ちがいい。

「まだ熱、あるね」

「・・・ああ、あつい」

「水、飲む?」

「・・・うん」

 顔を横に向けると、四角い箱のような、見慣れない何か。・・・<コンポ>を、<買って来た>って、どういう意味?

 ふむ、見慣れない箱が、たぶんつるりとして重厚感のある、僕に似つかわしくない素敵なものが、僕の部屋に置かれたという意味か。いつまでそこにあり、何をどうするものなのか、よくは、分からないけど。

 黒井が水道の水を汲んできて、僕の横に膝をついた。ああ、喉が、からからだ。

「起きれる?」

「・・・う、ん」

 体を起こそうと手をつくけど、力が、入らなかった。・・・また、背中を抱え起こしてもらえるなんて、期待したけど。

 そうは、ならなくて。

「大丈夫・・・あの、置いといて。あと、で・・・」

 黒井は、勝手に自分で水を飲んだ。うん、人の話なんか、聞いてない・・・。

 諦めて枕にもたれ、目を、閉じたとき。

「んっ」

 唇に、あたたかい何か。そして、冷たい液体。

「ん、んんっ・・・!」

 口の端をつう、と流れていく。頬を伝い、耳まで。く、苦しい!

 首を細かく振って、その肩を何度も叩く。なに、なに、なに?え・・・どういう、こと?

 唇から何かが離れて、口の周りがもう、気化熱で冷や冷やして。首筋まで、冷たい水が這っていく。黒井が喉を鳴らしてごくりと水を飲み込む音。

「ちょ、ちょっと。ちゃんと飲んでよ!」

 自分の口を手の甲で拭きながら、僕に文句を言う。僕は勢いで起きあがっていて、その文句を帳消しにするみたいに、自分でコップを取って、急いで水を飲んだ。

「はあ、はあ・・・つ、冷たい」

 首や顔に触ると、ぬるりと濡れていた。僕の体温でもうぬるんでいる。

 黒井が横から、落ちていた例の、手を縛っていたタオルを差し出した。

「ど、どうも・・・っていうか。・・・何なの」

「何か、うまく、いかなかったね」

「まさか今、くち、で・・・?」

「うん」

 ・・・。

 口移しで?

 じゃあ、今、キス、したってこと・・・?

 ・・・ち、違う。キスとかじゃなくて、あ、あくまで、人工呼吸っていうか、応急処置っていうか、いわゆるひとつの医療行為であって・・・。

「か、風邪、うつるだろ・・・」

「別に、あれくらいで、大丈夫だよ。入れたわけでも、ないし」

「・・・なにを?」

 無言。

 ふと見ると、その少し長めのえろい舌をべろりと出していた。

「あ、あっそう!」

 水、頭から、かぶろうかな。

 ・・・それがいいか。僕はコップを頭の上で傾けたけど、いつの間にか自分で飲み切っていたらしく、二、三滴しか、降ってこなかった。

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