8章:高熱のイケナイ夜

(「彼女問題」をこじらせて、する方もされる方もどうかしている)

第65話:熱が出て、ここではないどこかへ

 青空が妙にまぶしくて、体が急に冷えた。

「なに馬鹿やってんだ。行くぞ」

 振り返らずに声をかける。腹に力が入らなくて、かすれた。

「ああ、ちょっと、待ってよ」

「まったく・・・」

 もう繋がれないように、両手をポケットにつっこんで歩いた。ああそう、そういう相手じゃ、ないわけね。

 ・・・。

 何、期待、してたんだろ。

 頭が冷えた。

 僕はキスするような相手じゃない。そんなの、あったりまえじゃんか。

 ・・・男なんだから。

 彼女になんか、なれないんだから。

 もう、ちょん切っちゃったらいいの?・・・でもイメージが浮かんだら、ひい、やっぱり恐ろしい。

 っていうか、やっぱり・・・そういうことじゃ、ないし。

 そうしてくれっていうなら、それでお前と幸せになれるなら、しちゃいそうだけど。でもそんなことしたら、僕は僕でいられるんだろうか。

「ね、どしたの?」

 後ろから追いついてきて、肩なんか、気安く触るなよ。

「何でもないって」

「ねえ、道、ほんとに合ってるかなあ・・・」

「・・・知らないよ」

「おい、変なことしてごめんって」

「・・・」

 肩、揺すらないでって。

 ふらふら、するから。

 しゃがみこんで顔を覆って、そのまま倒れてしまいたいけど。

 だめ、普通に、歩かなきゃ・・・。

 まともな親友なら、こんなおふざけだって、笑い飛ばさなきゃ。あ、足が、重い・・・。

 ポケットから手を出して、ふとつかまりそうになるけど、こらえた。自分の足だけで、立たないと。

「・・・大丈夫?」

「平気」

 頭の芯が中心に収縮して、一度止まり、そのままぼやけた。あれ、何か、きちゃったかな。一ヵ月分の、馬鹿みたいな僕の期待が凝縮されて、解体されていく。鉄より高い密度の金属になって、でも、溶かして再利用する施設もないから、痛い、痛い、無理矢理打ち砕いて、破片が飛んで、目に入る。

「いてて・・・」

 思わず目を閉じた。何かが反射して、光が目に痛い。目から入った痛みは、頭まで突き抜けて、ただでさえひどい頭痛が悪化する。

 あれ、いつから、頭痛?

 気づいたら、吐き気がした。

 頭が冷えてるから、溶かせないんだよ。

 体は妙に熱いから、そっちに、いったんだ。そこで溶かして、なんだ、外に出せばいいのか。もう、処理済みか。早いじゃん。

 僕は空き地の柵の、鉄条網の隙間に顔を突っ込んで、四つん這いになった。吐かなきゃ。みんな吐いたら綺麗になって、ふつうの、親友に、戻れるんだ・・・。

「だ、だいじょぶか」

 駆けつけて、背中をさすってくれる。その感覚が、遠いけど、皮膚に痛い。

「おい・・・!」

 だめだ、何でだろう、吐き気はひどいのに喉から何も出てこない。体勢が、悪いのか?もっと頭を、低くしないと・・・。

 ぐらりと揺れた。

 黒井が抱きとめる。

「お前、何か、顔が真っ赤だよ」

「・・・へへ、照れたんだよ。キス、されそうになって・・・」

 冷えた手がおでこを包む。

「あ、熱いって」

「そう?あはは」

「・・・これ、熱だよ」

 頬や、首筋にも手が当たる。肩口から突っ込まれて、胸元まで。

「熱いよ、お前。・・・いつから?」

「さ、さあ・・・」

「起きれる?タクシー拾おう」

「・・・来ないって」

「あっちの通りまで行けば、つかまるかも」

「・・・うん」

 手を引いて起こされるけど、目の前が白くなって、血の気が引いて立ちくらんだ。ふらふらと手を振り払って、膝につく。胸の辺りにまだ吐き気がこみ上げているし、頭は持ち上げていられない。

「だ、だめ、かも・・・」

「なに、どうした」

「ひん、けつ・・・」

 ああ、やっぱり、ちょん切ったりしちゃ、だめだよ。

 僕はどうしてもこの体で生きていて、思考と身体が結びついちゃってる。どちらからの刺激でも、影響が、出まくって。だからやっぱり、取ったら僕じゃなくなっちゃう・・・。

「ほら、向こうの通りまで、行くから」

「・・・え?」

「はやく」

 目を開けると、しゃがみこんだ黒井の背中。え?何?・・・おんぶしてくれるの?

 ・・・いいのかな。

「・・・彼女、じゃ、ないけど・・・いい?」

「何言ってんだ。彼女なんて、くそっくらえだ」

 僕は何とかその肩にしがみついて、前に手を回した。黒井の腰が持ち上がって、あとは一気に上に引き上げられた。視界が高い。でも頭を低くしたくて、その肩にうなだれた。目を閉じて、あとは静かに吐き気をこらえた。

「よい・・・しょ、お、重いな。・・・ほんとは、もっと、獲物、みたいに・・・肩に、担ぎたい、けど」

 歩く振動が、うう、気持ち悪い。

「なあ、お前って・・・いっつも、こんなん」

 いったん止まって、よいしょと背負いなおされる。黒井の匂いがした気がして、少し落ち着いた。

「俺に、どこまで・・・させる気なんだ?」

 息を詰めた、少し低めの声に、とろけそうになる。

 ごめん、迷惑、おかけしてます。

 この期に及んで、匂いとか嗅いで。本当に、気持ち悪くてすいません・・・。

「おい、大丈夫か?」

「き、もち、わるくて・・・」

「吐くならそこで吐け」

「・・・」

「俺、そういうの、気にしないから。全然、平気だ」

「・・・きたない、から」

「衛生観念、ないからさ。それに、お前のだったら」

「・・・」

 黒井は急に、ひひ、と甲高いおかしな笑いを漏らした。

 僕は初めて、ちょっとだけ、この人おかしいんじゃないだろうか、と、思った。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 人通りがあったけどもう構ってもいられなくて、縁石に座り込んだ。寒気。

 病院で薬ももらわなかったけど、この悪寒は耳鼻科のめまい由来じゃなくて、風邪だ。

 黒井が隣に立って、タクシーを待つ。僕はそのブーツの細かい縫い目とか、底のぎざぎざなんかを飽きずに眺めた。どこかに集中していないと吐きそうだった。

 ふと、見ていた靴がいなくなる。動かさないでくれ、気が散るから。自分が揺らされたようにぐらついて、車の音が近づいた。

「危ないから、ほら、立って」

「・・・」

 タクシーの後部ドアが開いて、黒井が先に入った。引きずり込まれるように僕も乗り込む。車のにおいに、顔をしかめて息を止める。う、車酔いしたら、どうしよう。

 黒井が僕のうちの住所を告げた。番地と、マンション名まで言って、運転手がカーナビを操作する。はやく、はやく車を出してくれ。アイドリングの振動が耐えられない。

 ようやく発車して、うなだれていた頭がドア側に少し揺れた。その時、黒井が後ろから手を回して、僕の頭をその肩にぐいと引き寄せた。手のひらは頭に乗せたまま、ゆっくりと、髪を、撫でた。

 ・・・。

 また、彼女、ごっこ?

 でももう、恥ずかしくなって、体を起こそうかと思った。

 でも、その僅かな反動を感じたのか、頭を撫でていた手が、ずるりと移動して僕の目を覆った。もう、さっきの恋人繋ぎみたいに優しくもないし、まるで、はみ出た臓物を、落っこちないように押さえるみたいな、そんな力の込め方。強引だけど慎重で、確信に満ちた、意志のある方向性。

 頭痛とともにずきずきと痛む目が、光を遮られて一瞬落ち着き、しかしやがてまた元の痛みの海に戻っていった。僕は自分の眼球の形を思い浮かべ、その奇妙な球体が今この脳みその下にあるってことを感じ取ろうと努力しながら、徐々に力を抜いて、完全に体重を預けた。

 ここが、<どこか>なんじゃないかと、感じた。

 そのどこかっていうのは、僕がたどり着きたい、たどり着くべき、どこか。藤井の言葉を借りれば、横でも、奥でも、空でもない方の場所。胸の吐き気の下で、腹にあの感覚。カーブが続いて慣性の法則に振り回されても、その方向に関係ない、別次元の居場所がただここにある。懐かしい寂寞であり、来るべき痛みに耐える夜。子どもの頃から何度も繰り返し見る夢を見て、ああ、まただと感じたときのような、既視感。 

 うちに着くまで、黒井は一時も力を緩めず、ずっとその体勢でいた。車を降りて、肩を支えられてうちの前まできて、僕が鍵を取り落とし、黒井が拾って開けた。僕は倒れ込むように中に入り、とにかく横になりたくて、かかとを踏んで靴を脱いだ。黒井はためらいもせずブーツのまま中に上がり込んで、抱えるように僕を布団に連れていった。

 どさっと、冷たいシーツに倒れこむ。その冷たさが、頬の、皮膚を、刺した。

「・・・お前さ、これ、もしかして」

 薄く目を開けると、黒井が掛け布団を抱えている。

 ・・・あ、夜中、蹴り出したんだっけ。

 まさかそれで、風邪、引いた?

「ああ、ごめん・・・」

 熱い息とともに、それだけ言った。もう、ごめんって。ああ、やっぱ、そういうの、だめか。世界はちゃんと動いてる。布団を掛けずに寝たら、風邪を引くんだ。

「・・・お前さ、ほんと、腕は縛ってるし、いったい何してたの?・・・まあいいや。確か体温計あったよね」

 黒井は膝立ちで棚を漁り、体温計を出してきた。何で知ってるんだ?・・・ああ、前も病院に行くんで、部屋中を漁ったんだっけ。

 受け取ったが、外着のままで脇にはさめず、仕方なく舌の裏に突っ込んだ。黒井は隣で靴ひもを解いていた。

 もうろうとして、うとうとしかけた頃、ピピピと体温計が鳴った。すかさず黒井が抜いて、「え?」と言った。

「ねえ、38.8だって。・・・これって、すごい熱なんじゃない?」

「・・・あ、そう」

「病院に引き返す?」

「・・・いや、いいよ。薬飲んで、寝るから」

「あ、薬ね。取ってくる」

 体を起こされて、コップの水でバファリンを二錠。皮膚が薄くなったみたいになって、背中を支える手すら痛かった。体の芯が、ぼうっとしてだるい。横になり、布団を掛けられて、もう黒井のことも気にせず目を閉じた。頭は頭痛と貧血のめまい、体は吐き気と寒気とだるさで、本当は甘えてしまいたいけど、その思考すらすぐに途切れた。

「ねえ、あのさ・・・」

 黒井が布団の横であぐらをかいて、何か言っている。しかしその声はほとんど独り言のようで、僕に向けてというより宙に向けて喋っていた。

「俺、実は・・・お前のことで・・・」

「・・・」

 僕は目を閉じた。頭痛がひどくて、まるで脳みそが心臓になったみたいに、鼓動のようにずきずきが響く。ごめん、半分、聞いてないや。

「あの・・・彼女が、その」

「・・・」

「羨ましくなって、さ。それで・・・」

「・・・」

 彼女?

 羨ましいって・・・。ああ、<イナイ歴>の話・・・。

 何だよ、お前、彼女が欲しかったの?

 さっきみたいな、広い空き地の横で、手を繋いで、他愛のない会話をして、ふいに向き合って、キスしたかったの?

 僕じゃなくて、・・・女の子と。

 そんなの、すればよかったじゃないか。

 僕に彼女が出来た云々の噂なんか聞いちゃって、そんなの縁がなさそうだったやつに先を越されて、急に親友が羨ましくなった?お前らしくないけど、そういうことも、あるのかもね。

 彼女じゃない女の子なら、いくらでも周りにいたんだろ?なら、いくらだって、彼女に、出来たのに。お前がそう言うだけで、両想いで、<イナイ歴>がストップしたのに。

「・・・ばか、だな。言えば、よかったのに」

「え?」

「・・・言うだけで、りょうおもい・・・だったのに、な。相手は、おまえのこと、好きだったんだから」

「え・・・そう、なの?」

「そうだよ・・・もう、遅い、みたい、だけど・・・」

 今は、いないんだろ?彼女じゃない同棲相手も、出て行ったんだろ?それとも、昔の女と切れてないとか、そういう、僕の人生には関係ないどろどろとか、あったりするの?

「だって、本当に俺のこと、・・・好き、だ、とか・・・わかんなかった、じゃん」

「・・・ほんとに、いやなやつ、だな、おまえ。ぜったい、言われてた、はずだよ。自分勝手で、したいことしか、しない、から・・・受け取って、なかった、だけだ」

「・・・そうだったの?俺、もう、遅い?」

 何だよ、焦った声出して。女なんか、うざくて面倒とか、抜かすからだ。ああ、こうして、親友としてお前に、説教だのアドバイスだの・・・はは、そういうのも、いいのかもね・・・。頼られるのも、悪くないよ。土曜に、どこかの喫茶店で、会ったりしてさ・・・お前が、明日のデート、どうしようとか持ちかけるんだ。僕は藤井と付き合ってもいないのに、それはだめだろとか、上から目線で・・・。はあ、そういう、関係だって、いいのかな。手なんか、繋がなくて・・・もう、お前のうちにも、泊まらなくて・・・。だって、彼女の歯ブラシ、あるんだろ・・・。

「ねえ、ねこ、寝ないでよ。答えてよ。俺、もうだめなの?遅かったの?」

 うう、揺らさないで、吐き気がする。

 え?お前が?遅いかって?

 そりゃ、前の女は、もう手遅れだろうよ。でも、いくらだって、これから、作れるだろ?

「こんどは、ちゃんと・・・きけよ」

「え?なにを?おいってば」

「・・・好きだって、言われたら・・・無視しないで・・・こたえて、やれよ」

「・・・それで、いいわけ?次、言われたらで、いい?」

「いいよ。そんなら、かんたん、だろ・・・」

 はは、藤井さん、ごめんね。本当は、こうやって黒井に振られたんだから、ちゃんと僕からも告白したって、いいはずだけど。

 簡単なことが、出来ないんだ。

 黒井を諦めて、女の子と付き合うって、そんな当たり前の人生の選択肢が、選べないんだ・・・。お前が僕の目を覆った、その手の感触が、忘れられない。何かを思い出しそうになって、涙が出そうになったんだ。ここではない、どこか。お前が隣にいるときだけ、僕はそれを感じられる・・・。

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