第12話:どこへもたどり着けない恋

 タイムズスクエアデートの後は、初めて二人で電車で帰った。混んでいてほとんど会話らしい会話もしないまま、桜上水で黒井が降りていく。僕は一体、どんな目でそれを追っていたのだろう。

 メールはしなかったし、こなかった。気まずくなったわけじゃないけど、ここで踏み込んでは何かがまずい気がして、動けなかった。天井知らずで盛り上がり続ける気持ちと、放っておけばいくらでも考えつく、否定の理由。

 そう。

 たとえあそこで、本当に、キスしていたって。抱き合って、その先まで踏み込んでいたとしたって。

 もしそれだって、そんなの、あの同僚二人の雰囲気に飲まれてやったにすぎない、若気の至りだ。それ以上のことなんかない。そう、たとえキスなんかしちゃったって、二人の関係は何も変わらないし、僕はキスという事実以上のものは得られない。

 まあ、それで満足すべきだし、望むことすらおこがましい。

 それ以上なんて。

 しかしここでいつも思考は止まる。

 それ以上って、一体何なんだ?

 あいつから、告白されること?でも、もしそれだって、別に結婚できるわけでもないし、子どもが出来るわけでなし、どこへもいかない恋じゃないか。

 胸が痛くなる。

 おとぎ話のようにお城で暮らすわけでもないし。海外のセレブみたいに、世界中を旅行しながら別荘を転々とする優雅な生活だとか、まあ夢見るべくもないし。

 つまりは、現実はただの会社員であって、給料をもらって税金を払って、そんな毎日の中で間違った相手に恋をしただけであって、どんなに愛だの夢だの言ってみたって、逃げ道はどこにもないのだ。

 それでも、可愛い嫁さんもらって家庭を持って、子どもがいて、クリスマスに絵本を買ってやったりするような、そんな未来は想像できなかった。びっくりするほど無理だ。

 以前は、ぼんやりとそういう未来を思い描いていたはずなのに。


 何で、こんなことになったのだろう。

 どうしてあの忘年会の夜、黒井にスーツの裾をつかまれて、あんな気持ちになった?どうしてその気持ちが、一瞬の気まぐれでなく、ずっと続いている?

 結局説明はつけられない。

 ただそういう気持ちが自分の中にあるというだけで、それ以上の理由も、対処も、解決もない。

 ふいに思い出す、黒井が抱きついてきた時のあの感触。

 僕があのまま何も言わなかったら、どうなっていたんだろう。

 だめだ、下半身がうずいてしまう。あの忘年会の夜、タクシーの中で、黒井と寝たいなんて考えてすぐに冷ややかな目でそれを否定した僕だけど、今は、そうも言えないかもしれない。これ以上は想像したくないのでやめた。

 別に身体が欲しいわけじゃなくて、でも、・・・どうなんだろう。

 僕が黒井を好きになったのなんて、本当は、黒井が人なつこく僕に触れてきたからという、それは「隣の席の女の子」くらいの理由なんじゃないだろうか。

 スキンシップは親密感を上げるとか、どこの合コンの勝利術だ。

 でも、しっかりはまってる?

 どうだろう。

 でも別に、黒井と何か共通の話題があるわけでもないし、性格的に、僕が好きになる理由なんてないのだ。

 いや、そもそも好きになるって、なんだろう?

 「好みのタイプ」なんて言ってみたところで、結局「隣の席の女の子」なのだから、誰でもいいんじゃないだろうか。どうしても嫌いというのでなければ、自分に好意を持っていてくれそうな人なら、黒井じゃなくたって、男でも女でも、僕は関係なく好きになるのだろうか。

 たとえば、鈴木だって?

 いや、鈴木はいいやつだし、同性からみたって頼りになってカッコいいんだけど、さすがに違うだろう。

 男らしすぎる?

 黒井は女の子っぽいから僕の守備範囲に入った?

 あいつ、女の子っぽいのかな・・・?

 まあ確かにいつもくにゃくにゃしていて、男らしいというよりは可愛い・・・?

 ・・・。

 何か違う。別に僕は、黒井を女の子の代わりにしてるわけじゃない。男子校では女の子っぽいやつがそんな感じでモテるとか聞くが、どうもぴんとこない。自分より背が高いやつを女の子扱いできないし。あいつを女の子みたいに抱き寄せたいわけじゃなくて・・・。

 ・・・わけじゃ、なくて?

 あれ。

 あれれ?

 おかしいな。

 いや、おかしくはないけど。でもおかしい?

 だって、あいつを抱き寄せたいなんて、ちっとも思わない。っていうか気持ち悪い。そんな自分は普通に気持ち悪い。

 いや、そう感じること自体は別にいいんだけど。

 そうじゃなくて。

 自分でもびっくりしたが、僕はどうも、あの時されたみたいに、だ、だ・・・。

 抱かれたいらしい・・・。

 えええ?

 戸惑っている僕を尻目に、もう一人の道化の僕が、あの、黒井の家の玄関での記憶をしたり顔で引っ張りだしてくる。

 押し倒されたりして。

 そういえば、同僚二人の真似をして黒井にキスしようと僕から迫ったとき、正直それほど変な気持ちにはならなくて、あくまでおふざけの感覚でいられた。嫌悪感こそなかったが、いつもの「あの感覚」もなかった。

 それより、ただそっと抱きすくめられた時の方が、ひゅう、今だって、思い出すだけで腰が抜けそうだ。

 じゃあ、なに。

 女の子は僕だったってこと?

 僕は女の子として、カッコいい黒井クンに抱かれたいの?

 ・・・さっぱりわからん。

 別に、もう男とか女とか関係なくて、理由もなく人が人に恋してる、でよくないか?いいじゃん、もう。

 だって、こんなに考えて、戸惑って、自分が分からなくなった後でも・・・それでも、黒井に対する僕の気持ちは、何ひとつ変わらないんだ。どこから来たのかも分からない、たぶんものすごく自分勝手で、利己的な、恋。僕はまたカシミアを布団に持ち込んで、丸くなって眠った。微かに、おやすみのメールがこないかなんて性懲りもなく期待しながら。



・・・・・・・・・・・・・



 あれから、何もないまま、連休に突入してしまった。

 金曜の夜、自分でも馬鹿だなあと思いながらも、一緒に帰るタイミングをはかってみたりした。結局課長からみんなそろそろ帰れと言われて会社を出た後も、ロビーでうろうろしてみたり。

 会えなかった。

 ロビーや下のコンビニなどを小一時間うろついてみたが、徒労に終わった。もう、これから丸三日間も会えないと思うと、せめて一言交わしたいと、思ってしまう。

 用もないのにメールする文面も思いつかないし。

 このまま帰るのも悔しいが、しかしこれ以上粘ったって仕方あるまい。僕はとぼとぼと地下通路を歩いて、帰路についた。


 連休。

 食欲がなかった。

 重症だなあと自虐的に笑いながら、しかし靴を磨く元気もない。

 あの、抱き寄せられた時のことを思い出して、初めて、自分を慰めた。まあ、むなしいだけだ。

 見るともなく、カレンダーを眺めてみる。黒井に初めて「やまねこ」と呼ばれたのはいつだったんだろう。たぶん十月の末か、十一月の頭くらいだ。それでいうと、会話らしい会話をしてから二ヶ月も経たないうちに、こんな状態になっている。おそろしい。

 もう、月曜日になる。

 会社に行って仕事をしたいくらいだ。


 連休明け。クリスマスイブ。

 いくつかお得意先に我が社の特製カレンダーを配り、担当者と年明けのスケジューリングをして帰社する。予定をこなしていれば、余計なことを考えなくて済んだ。

 いつもはなしのつぶての相手先で、急に小さな案件が持ち上がり、持ち帰ると上司にも誉められた。真剣にお客さんのためを思って説明をするよりも、半ば上の空ではいはい言っていた方が案件が取れるのかもしれない。

 そういうわけで少し気分が良かったこともあって、普段はあまり利用しない給茶機でまずいコーヒーを淹れていると、二課の同期、望月から声をかけられた。

「おー山根くんじゃない。おつかれ」

「おつかれー」

「どうよ、最近」

「まあ、ね。ぼちぼちだね」

 望月は地味目なやつだが堅実で、人望もある。

「あれ、山根くんも、今日来る人だっけ?」

「今日って?」

「ほら、アレですよ」

 望月が僕の肩に手を掛け、それとなく廊下の脇へ向かう。

「聞いてない?ほら、今日は、クリスマスイブでしょ?だからさ、ね、予定のない人が集まる、飲み会。女人禁制の」

「へ、そんな淋しい会があんの?」

「あーんーの。え、何、山根くん予定ある人?」

「ない人」

「でしょー?はは、でしょは失礼か。ま、とにかくじゃあ来なって。いやいや悪いこた言わないよ」

「何だよそれ」

 通りかかった同期の女の子三人が、「なにー、飲みやんのー?」と聞いてくる。望月がすかさず、「いやいや何でもない。君たちにはね、関係ないお話だから」と追い払う。嫌味な感じではなくて、どちらかといえばちょっと田舎臭い親近感があるから、女子たちも「何それー」「もっちー教えなよ!」と絡んでくる。

 僕がそれとなくその場から立ち去ろうとすると、望月が小声で「七時半にローソンだから。来てね」と背中を叩いた。あとは、女の子たちがいじめやすい望月をからかっている。こんな風にモテていたってクリスマスの淋しい男子会の参加者になるのだから、なるほど、会社で女の子たちにいじられたって別に何かに繋がるわけでもないということだ。ま、僕にはいろいろな意味で関係ないことだけど。


 律儀に七時半にローソンの前にいたからって、きちんと会が進行するわけでもないし、どこへ行ったらいいか誰かがちゃんと教えてくれるわけでもない。

 それは分かっていたから、時間は気にせず適当に残業していた。小さな案件だったが、グループ長のおこぼれでもなく、一から自分で取ってきたものだから、多少は感慨深かった。エクセルでフロー表などを手直ししながらまずいコーヒーを飲んでいると、会社のケータイが鳴った。八時六分。

「はい山根」

「おー、おつかれ。来るって聞いたけど?」

 二課の榊原だった。二課には同期が多い。

「え、ああ。まあ、行くよ」

 今日も黒井と何も話していないのだ。ちょっと違うけど、クリスマス男子会に参加する資格はあるだろう。

「今会社?」

「うん」

「今さ、向かってるとこだから。地図だけ、じゃ、PCに送っとくから」

「了解ー」

 五分ほど微妙な時間を持て余し、受信メールの更新を連打して、ようやく地図のアドレスが届いた。

 しかしいつも思うが、一体どういうフローでこういう飲み会が運営・進行されているのだろう?

 幹事もいない、参加者も気まぐれな口コミだけで選ばれ、しかも来たり来なかったりするし、至って不安定な計画だ。それでも、不確定要素が多すぎる割に、成功率は高い気がするから不思議でならない。仕事では万全を期したって頓挫することが多々あるのに、こんなザル計画が毎週のように成功しているのは、どうにも腑に落ちなかった。まあ、僕の参加率は極めて低いのだから、毎回の成功を確かめたわけでもないけれど。

 とにかく地図を確認すると、去年の忘年会をやったところと同じビルだったから、何となく覚えていた。忘れずにメールを消去し(最近は社内メールの私用にも厳しい)、ネット閲覧履歴も消しておく。

 ちょうど仕事のきりがついたという顔をして、「お先でーす」と席を立つ。同じ島から、目を上げることもなく「おつかれー」のつぶやき。目の端にちらりとまだ残っている黒井を確認したが、それ以上何もできずに僕は男子会へと向かった。

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