第135話:時限爆弾を抱えて
人にちゃんと食えと言ったわりに、自分もコンビニで買ったソフトサラダをどか食いして、塩分がまだ足りずに、ご飯に塩とふりかけでかきこんだら、やがて胃がもたれた。喉が渇いてレモン果汁1%のチューハイを流し込み、炭酸が腹に溜まる悪循環。だめだ、もう気持ち悪い。もう眠い。脱ぎ散らかしたシャツと靴下を横目で睨み、流しにたまった昨日からの皿からは目を背け、体は布団に倒れこんだ。分かってる、起きてやることをやって寝るべきだって。明日五時に目覚ましをかけてもどうせ起きれっこないんだ。うう、今日が水曜なら、明日は連休前だからもういいやって思えるのに、何でまだ火曜なんだ。何で火曜からこんなに疲れてるんだ。
眠い、眠い、眠すぎる・・・。
目覚ましが鳴っていた。寝て起きても頭はすっきりしてないし、腹は重いし、眠気の強さも変わらなかった。寝た意味あるのか、これ。
部屋を見て、シャツも靴下も全く同じところに落ちている。しかるべき場所に収まっていない物々が恨めしそうにこちらを見るけど、開かないまぶたをこじ開けながら、もっと強く睨み返してやる。俺だって片付けたいが、時間がないんだ。何でうちに帰って6時間もせずにまた出なきゃいけないんだ。帰る意味あるのか、これ。
ビルの下の自販機で熱い缶コーヒーを買い、デスクで開けたらもう少し冷めていて、ため息。誰かに「おーい、お疲れだね」って言って欲しいらしい自分が嫌になり、黙って仕事をした。
仕事の意味も、自分の出来映えも、考えるのはやめた。下半期の総括の面談とかいうお知らせが来てたけど、B評価だろうがC評価だろうが勝手につけといてよ。自分なんてものはもう何もなくて、中を通り過ぎていくだけだ。そう思ったとたんに<主体性を持って行動して・・・>という文字が目に入り、意味分かって言ってんのかコラ、と思わず毒づいた。
トラブルが起きてももうヘコまなかった。まずったなあ、という言葉は口をつくが、本当にはたぶん何とも思っていない。胃がキリキリするような、冷や汗をかくような感覚はやって来ず、冷めた目でどうにでもなれば?と思っていた。今まで重ねてきた自分はぼろぼろと風化していって、ここはこうしようとか、これでもいいかとか、そういう芯というか土台が、まだありはするけれども無視した。粘土細工のようにこねくりまわして、一応何らかの形に近づこうとしたり、現状維持で無難にまとめたりしてたんだけど、そんなのもうどうでもいいか、とか、面倒くさい、とか、やってらんない、とか、もうやっても無駄だよ・・・とか思った。はは、思考も言葉も、まともに紡げない。散逸した感情や、曖昧な単語がもやもやと漂うだけ。漂ったものをキャッチする腕もだるくて、「あ、はーい、やっときまーす」と勝手に愛想をまく誰かに任せて、頭の中の僕は寝た。
帰社して、課長に何人か呼ばれ、「検収書もらってきてないリスト」が配られた。僕の案件も二つほど入っている。え、まだだっけ?「とにかく今月中!いや今週中!」はいはい、行ってきますよ、っていうか調布か、遠いなあ。
「課長、これ最終的な締め切りいつなんですか」
誰かがため息まじりに、首をかしげて尋ねる。
「最終?最終はそりゃ31だけども・・・」
「の、何時です?ここ、月曜しかもらえないですね。当日帰りが何時かって、そういう問題」
「え、そりゃ困るな。あー、何時ってとこはね、あっちに提出すんのが、あー、何時までにすんのかな。小野寺さんに訊かないとなあ」
誰かが「どうせ17時でさっさと上がるんでしょ」「だよな」と言うので、「・・・あっちも23時近くまでやってますよ」と言っておいた。藤井の、淡々とした顔が浮かんだ。
上着を脱いで、まくったYシャツの袖の内側が汚れていて嫌になり、それほど暑くもないのにもうひとまき巻き込んだ。カチャカチャいう腕時計を外して、大したブランドでもない安物なのが嫌になり、切っていない爪の垢にも辟易した。メールを見て「うっそ、マジ?」とつぶやきたくなるのもこらえて、全部腹に沈めた。僕という粘土細工が洪水に沈んでいく。いつか腐ってみんな澱になっていく。もうそれで、いいじゃないか。諦めるほどの何があったっていうんだ。手離したくない、これだけは、なんていう、何が。
カラ元気の軽口と、むっつり黙り込む不機嫌が交互に訪れ、気づくと目はパソコンの右下の時刻を見て、まだ、21時、まだ22時・・・と、前人未到の0時越えを待っている自分がいた。いやいや、帰れないから。でも、もう、何かものすごいトラブルが起こって、みんなでここで寝ればいい。ああ、ついに非日常を求める現実逃避だ。絶対起こりゃしないのに。
そしてこういうときに限ってそこまで遅くならなかったりして、みんなの顔も明るく見える。こんな、参ってるの僕だけか。情緒不安定で、必死なメンヘラは僕だけ?どうしてみんなみたいに普通に出来ないんだよ。やっぱり孤独だ。いや、違うか。藤井みたいな堂々とした孤独じゃない。ただの甘ったれだ。だって今飲みに誘われたら「お断りします」なんて絶対言わない。何かを紛らわしたくて、みんなと同じだって確かめたくて、何となく入れないって分かりながらもついていくだろう。まあ、今までの行いのせいで誘われもしないんだけど。
家に帰って、靴下が散らばってるのを見てほとんどキレかけた。いや、キレた。
壁を殴ろうとして、直前で止めた。・・・近所迷惑だし。
深呼吸して、目に付いた全ての布を洗濯機に突っ込んだ。今着ているものもみんな突っ込んで、また全裸でうろうろする。そのまま包丁を持って、意味もなく揺らす。いや、違う、ネギを切ろうとしたんだよ。
しかし日曜に買ったネギはすっかり伸びてしなびていて、ゴミ箱に突っ込んだ。苛立ち紛れにチューハイを一気に呷る。むせそうになって口から垂れた液体が、喉を伝って、胸まですべっていった。鏡の前に立って、でも見るのは嫌で目の焦点をぼやかして、何となく鎖骨だけ眺めた。自分の身体でいいと思えるのはその骨くらいだ。
鎖骨を押さえて震えながらシャワーを浴びたら、少し気持ちが落ち着いた。どうしてこんなに感情がざわつくんだろう。ふいに左手を伸ばすけど、やっぱりだめだった。何、もう、どうすればいいの、これじゃないわけ?でもじゃあ、他にどんな欲求不満があるってわけ?
乱暴に洗濯物をたたんで歯を磨き、布団にもぐりこんだ。藤井を抱くイメージを浮かべてみるけどどうにもだめで、肩と腕が、何だか寒かった。人を抱く余裕なんか、ないんだ。そんな器も人間性も、寛大さも許容量もない。肩が寒い。抱いてほしい。女の子じゃなくて、もっと強くて、圧倒的で、俺より上の誰かに。・・・認めてほしいのか?この期に及んで、お前はよくやってるとか、大丈夫だとか言ってほしいのか?違う、そうじゃない!そういう次元じゃなくて、もっと、遠くて、でも、生々しい・・・。
得られないものに手を伸ばしながら、何かの夢を見た。
目覚ましにかき消されて、木曜日になった。
・・・・・・・・・・・・・・
ただひたすら、今日を終えるためだけに働いた。
休みだ。三日間の休み。何の予定もないし、考えてしまったら、ただ家事や雑事で終わっていくのが見え見えで余計腹が立ちそうだから考えないけど、でもとにかく今日を乗り切ればそれでいいんだ。
これだけ毎日やってるんだから、いい加減何かが楽になってもいいのになあと思いながら、ひたすらガムを噛んだ。何かを強く噛んでいないと落ち着かない。味がなくなってもしばらく噛んで、出したらすぐ次を放り込んだ。もう、ボトルで買おうかな。
よく覚えてないまま、いつの間にか終わっていた。
雨が降っていた。それだけだ。
もう、いい。とにかく、寝る。
スーツを脱ぎ捨て、Tシャツとパンツだけで布団に入り、何もせず、寝た。
・・・・・・・・・・・・・・
何度か目が覚めたけど意地で寝続けて、夜になった。
二回トイレに行っただけで、何も食べず、何もしなかった。だめだこれ、ちょっと、落っこちた。腹の底にはなぜか怒りだけがあった。会社が忙しくて、ついていけない自分にイライラしてはいるけど、本当にそれだけなのか、でも自分に向き合って問いただすのも腹が立った。何でそんなこと、自分でわかんないんだ!
寝すぎて頭痛がする。頭が重い。
それを押さえ込むように更に寝ようとして、そしたら、電話が鳴った。
無視したけど、もう一度鳴るので仕方なく鞄をあさった。実家からだった。
「・・・もしもし」
「ああひろくん?今大丈夫?お休みでしょ?」
・・・ひろくんて誰?「ああ・・・どうしたの」とかすれた声を出し、またひどく苛ついた。今大丈夫?って、春の連休に、ほぼ二十四時間寝たままでへたばってるだけ。それほど大した理由もなしに、メンタル弱くて引きこもりなだけ。
「あんた正月も帰ってこないで、何、忙しいの?」
「・・・忙しいよ」
「会社、大変なの?」
「・・・まあね。それで、何」
「寝てたの?具合悪いの?」
「・・・疲れてるだけ。だから、どうしたの」
「・・・いやね、ほら、お父さん具合よくないでしょ?少し、帰って来れないの、と思って・・・」
「・・・」
そんなこと言われたって、知るか。
これ以上変な案件を積み上げないでくれよ。一人にしてくれ。いや、一人だけど。
「ちょっとね、こっちもいろいろ大変なのよ。ひろくんも忙しいの分かるけど、少し、顔出せない?」
「・・・ああ」
「お父さんね、最近うわ言も多くてね。孫の顔が見たい、なんて言ってるわよ」
「・・・」
腹にどっとストレスが溜まった。何、孫って何?どっから出てくんの?
「・・・とにかくさ、ほら、今決算だから。三月は無理だよ。それが終わったら、また、そのうち」
「そう?じゃあまたちょっと連絡して?その様子じゃ、誰か紹介する人もいないのかしら」
「・・・あ、ごめん、ちょっと別の電話入ったから」
「え、そうなの?はいはい、それじゃ・・・」
切のボタンを押して、連打して、押し続けて、そのまま電源を切った。
部屋の電気も消して、瞬きもせずじっとして、それが通り過ぎるのを待った。
・・・こんな俺に、そんな人、いるわけないだろ。
分かってて言ってんのか?俺が親父に引け目があるって分かってて、帰って来れないかじゃなく、帰って来なさいって、ならそう言え・・・。
だ、だめだ。
流される。翻弄される。怒りで溺れる。
やり過ごすんだ。息を詰めて、動かないで、ただ待つんだ。
めちゃくちゃに暴れたい衝動を、深呼吸でこらえる。心拍数が上がり、まためまいがしてきた。そうだ、倒れた方がマシだ。今暴れたら、どうなるか分からない。ベランダから飛んでしまうかも。
しばらくやり過ごしたら、今度は涙が溢れそうで、またこらえなきゃならなかった。たぶんここを越えると穏やかになって、でもその反動で今度は笑い出したり、狂ったことをし始める。寝てしまうのが一番だ。次に起きるのが怖すぎるけど、それ以外にない。
時限爆弾の箱を持ってるみたいに、刺激しないよう、ゆっくりと、関節すら軋まないよう慎重に布団に入った。冷たい足先が汗ばんで気持ち悪い。いや、だめだめ、体の感覚を感じ出したら、全身が痒くなって発狂する。全部遮断するんだ。何もかもシャットダウンして、コンセントも抜かなくちゃ。
息をすることだけを考えて、羊を数えた。羊のこと以外を考えたらその場で銃殺されるということにして、数え続けた。銃殺の方がいいなあという欲望に負けそうになって、もっとひどい処罰を考えるけど、どれも大したことはなかった。まぶたの裏に、次々に拷問や惨殺シーンが現れる。惨めな肉塊。鶏肉を切り刻んだ、包丁の感覚。肉を切るときは、繊維に沿ってだな、刃を引くときに・・・。
誰かに、ばーか、と言われた気がした。
そんなこと言われる筋合いない、と思ったけど、本当にあるのかないのかは、検証できなかった。
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